2015-11-30 (Mon)
岩宿遺跡(いわじゅくいせき)は、群馬県みどり市にある旧石器時代の遺跡である。1946年(昭和21年)頃、当時在野の考古学者であった相沢忠洋によって発見された。この発見によって、それまで土器時代以前の日本列島に人類は居住していなかったとされた定説を覆し、日本にも旧石器時代が存在したことが証明された。これ以降、日本全国において旧石器時代の遺跡の発見が相次ぐことになる。1979年(昭和54年)8月17日、国の史跡に指定された。
相沢 忠洋(あいざわ ただひろ、1926年6月21日 - 1989年5月22日)は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年(昭和24年)に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。
1949年(昭和24年)以前、日本における人類の歴史は縄文時代からとされており、旧石器時代の存在は否定されていた。特に火山灰が堆積した関東ローム層の年代は激しい噴火のため人間が生活できる自然環境ではなかったと考えられており直良信夫などによる旧石器の発見が報告されることはあったが、激しい批判にさらされていた。
そうした時代背景の中で、1946年(昭和21年)、相沢は、岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、石器(細石器)に酷似した石片を発見した。ただし旧石器と断定するまでには至らず、確実な旧石器を採取するため、相沢は岩宿での発掘を独自に続けていった。
1949年(昭和24年)夏、相沢は岩宿の関東ローム層中から明らかに人工品と認められる槍先形石器(黒曜石製の尖頭器)を発見した。相沢は岩宿の切り通しの崖面から採取した石器や石片を携行して考古学者を訪ねては赤土からた石器が出土する事実を説明して回ったが、まともに取り合う学者はいなかった。この説明のために相沢は桐生から東京までの長距離を自転車で行き来した。 同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。赤土の中から出土するという重大性に気づいて、同年9月11日~13日、岩宿の現地で、杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。後に刃部磨製石斧と名付けられる。9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞に発表した。
その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代の存在が証明されることとなった。また、日本列島の人類史の始まりを一挙に万をもって数えられる更新世に遡らせた。
しかし、当時この重大な発見について、学界や報道では相沢の存在はほとんど無視された。明治大学編纂の発掘報告書でも、相沢の功績はいっさい無視され、単なる調査の斡旋者として扱い、代わりに旧石器時代の発見は、すべて発掘調査を主導した杉原荘介の功績として発表した。
杉原荘介
芹沢長介
さらには、相沢に対して学界の一部や地元住民から売名・詐欺師など、事実に反する誹謗・中傷が加えられた。この頃の郷土史界は地元の富裕層(大地主、大商人などいわゆる旦那衆)や知識層(教員、医師、役人など)などで構成されており、岩宿遺跡の存在する北関東も例外ではなかった。このため、これといった財産も学歴も有しない相沢の功績をねたみ、「行商人風情が」などと蔑視し、彼の功績を否定する向きもあったという。
だが、相沢の考古学への情熱は冷めることはなく、地道な研究活動を続け、数多くの旧石器遺跡を発見した。次第に相沢への不当な批判は消えていき、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当な評価がようやくなされ、1967年(昭和42年)には吉川英治賞を受賞した。岩宿の発見から18年後のことである。晩年は、最古の旧石器を求めて夏井戸遺跡の発掘に精魂を傾けた。
1989年(平成元年)5月22日、桐生厚生病院にて脳内出血の再発により午前7時38分死去、桐生市薬王寺に眠る。同日、勲五等瑞宝章が国より贈られた。 11月5日、笠懸村より名誉村民第一号の称号が贈呈された。
こちらもご参照♥ ⇒ 相澤忠洋記念館
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 明治以来、考古学の常識は「日本の歴史は縄文時代から始まった」でした。ですから【1万数千年前の関東ローム層が出てくると発掘は終了、その下には遺跡はないとされていた】のです。
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 日本人の源流を探して
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 兼六パークタウン大泉学園第113期
この常識を覆したのが相澤忠洋氏であり、昭和21年、彼は群馬県笠懸村の丘陵部切り通し道路に露出した【関東ローム層から石器を発見】しました。その後、わが国では【旧石器時代の発見が相次ぎ、その数1万カ所を超え増え続けています】。
例えば、1998年、青森県の旧石器遺跡・大平山元Ⅰ遺跡から土器が発見されました。
太平山本I_土器破片
その内部に付着した【炭素】から得られた年代は【1万6000年前、世界最古の土器が日本で作られていた】のです。(注:2012年6月、中国江西省洞窟遺跡で2万年前の土器発見、なるニュースが【共同通信】から流されました。しかし、【この年代は土器の炭素から確定されたものではなく、“洞窟年代の推定値”でした】。【共同通信は科学に弱い要注意な通信会社】です。)…
科学にめっぽう弱い共同通信
誤報を垂れ流す支那ニュース
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 中国で世界最古の土器片 2万年前、料理の跡?
世界最古の土器文明は約8~9千年前のことでしたから、【日本では遙かに早くから土器文化が広まっていた】のです。
このように日本では無数ともいえる旧石器遺跡や縄文遺跡があり、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代へと【歴史は途切れることなく続き、今日に至っています】。
そして【日本に旧石器時代があったことが、半島との関係を論ずるにあたり重大な意味を持っている】のです。
では【司馬遼太郎が「日本人の祖先の国」とした半島はどうだったのでしょう】。…
支那遼太郎
韓半島でも【前1万年以前の旧石器遺跡】が発見されており、ヒトが住んでいたことが分かります。しかし【その数50ヶ所程度、日本に比べると無きに等しかった】のです。』
ここで一旦、この時代の状況を整理しましょう^^
旧石器時代の遺跡は、朝鮮半島では、わずか50ヶ所程度しか発見されていませんが、私たちの日本列島では、なんと10,000ヶ所も発見されています。密度差で比較すると、朝鮮は1万平方キロメートルあたり2・3ヶ所強に過ぎません。対する日本は、1万平方キロメートルあたり263ヶ所にもなります。1万平方キロメートルは、ちょうど東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを足し合わせた面積です。
つまり、東京ディズニーランドと東京ディズニーシーを4区画に区切った場合に、私たちの日本ではその1区画あたりに66ヶ所の遺跡がありますが、朝鮮では2区画に1ヶ所だけあるという感じになります。その違いは100倍以上で、日本は人口が多く、朝鮮半島が「ほぼ無人地帯」だったことが見てとれますね♥
そして、更に衝撃的なのは、なんと紀元前10,000年~5000年の間、遺跡が、つまりヒトの気配が半島からなくなってしまうんです。
日本の縄文時代は、紀元前14,000年頃~紀元前10(~3)世紀頃です。縄文から弥生時代にかけての人口分布は、以下のようになっています。縄文時代の日本の中心地は、東に在ったことが見てとれますね♥
こちらもご参照♥
↓
☆聖徳太子の死 その時、世界は。。。
では、以上のことを踏まえて、読み進めていきましょう♥
『 その時代、【日本では旧石器文化が花開き、遺跡 数から推定すると、半島に比べ桁違いに多くの人々が暮らしていました】。相澤忠洋氏の発見が貴重な理由がここにあります。
次の時代はどうか…【前1万年以降…前1万年から前5000年までの5000年間、半島は空白になっていました】。即ち、【この間は遺跡が発見されていない】のです。このことを【考古学の常識で判断すると、5000年間は半島から人の気配が消えた、人々が絶滅した】、となります。
これは珍しい話ではありません。
例えば、【沖縄で約1万8000年前の港川人骨が発見】されましたが、【次の時代、人骨や遺跡が消え去り、約1万数千年間、人はいなかった】と考えられています。【その後、縄文前期の伊礼原遺跡が発見され、ここから九州産の黒曜石や土器、新潟のヒスイなどが出土】しました。
篠田謙一氏も次のように記していました。(『日本人になった祖先たち』NHKブックス)
「沖縄ではその位置関係から、彼らと台湾の先住民の人たちの間に密接な関係があるのではないかと予想されます。しかし、グラフを見ると【両者の間に共通する要素は見当たりません】。(中略)
また台湾の先住民とよく似たハプログループの頻度を持つ中国南部の広州の人たちとも【類似性は認められません】(以下略)」
「少なくとも【沖縄諸島に関しては貝塚時代以降の基本的な人の流れは台湾などの南方からではなく、本土の側から向かっていた】と判断して良いでしょう。」
【沖縄の人々の御先祖様は九州からやって来た】のです。彼らの【DNAの多くが本土と一致】し、【琉球語は日本語と同系統の言語】であることも、このことを裏付けています。』
さて、再びここで、整理しておきましょう^^
以前もご紹介しておりますが、日本経済新聞に元ワシントン支局長までお勤めになられた大石格なる御仁がいらっしゃいます。
この大石格なる御仁が、しょっちゅうトンデモ記事を書いていることをご存知でしょうか?
そのほんの一例ですが、コレ。
↓
大石格 編集委員 日本経済新聞 20141109朝刊 風見鶏
この記事の中で、『 ミトコンドリア解析によると、琉球人と日本人は異なる民族だ 』というとある人物の発言を、さも事実であるかのように記事に載せています。そもそも「誤った発言内容」なのに、そのまま素通りして記事は続きます。
そう、まるで、日本経済新聞の意見ではないと、これはとある人物の発言だから、たとえ誤りであっても日本経済新聞の発言ではない、そのように逃げを打っているんです。
こんなことは、普通の商売であれば、決して許されません。たとえば、魚屋さんや肉屋さんが「腐ったもの」を店頭に並べることと同じですね。第三者のコメントの中身が正しいかどうかの確認もしないで記事に載せること自体が、日本経済新聞の犯罪なのです。
下のグラフは、ミトコンドリアDNA、つまり母親から子供に伝えられるDNAのハプログループです。
このグラフから読み取れる特徴は、次のようになります。
①本土日本に多いのはハプログループDで、これは沖縄も同じ。
(中国南部・台湾は少ない) 本土日本・沖縄≠中国南部・台湾
②次に南方系に多く見られるハプログループBは、日本本土や沖縄でも見られるが、中国南部や台湾ほどではない。
(韓国は少ない) 本土日本・沖縄≠中国南部・台湾・韓国
③最も注目すべきは、「ハプログループM7a」や「ハプログループN9b」で、この二つは、本土日本と沖縄でしかほとんど見られない。
本土日本・沖縄≠中国北部・中国南部・台湾・韓国
以上から分かりますように、沖縄県民のミトコンドリアDNAは、中国や朝鮮や台湾とは似ていません。
他方、本土日本と沖縄は類似していて、他民族であるなどとは決して言うことは出来ません。
次のグラフは、Y染色体、つまり父親から息子(男系男子)に伝えられる染色体のハプログループです。
このグラフにはありませんが、沖縄のY染色体は、次のようになります。
①ハプログループDが56%。
②ハプログループOが38%。
③ハプログループCが 4%。
一見してお分かりの通り、沖縄県民のY染色体は、本土日本と同様で、他の地域、韓国や北京やモンゴルやタイとは、全く異なった特徴があることが明らかです。
このことからも、本土日本と沖縄は類似していて、他民族だなどと断言することは出来ません。
そして先ほどの、日本最古の人骨として沖縄県で発見された「港川人骨」のお話に繋がります。これは今からおよそ1万8千年前ごろのものと判明しています。ですので、琉球諸島の先住民族である、という考えることは検討に値すると思います。
ところが、琉球諸島では、その後の時代(縄文時代~貝塚時代)の1万年以上の期間の遺跡が全く発見されていないのです。遺跡、つまりヒトが住んでいた形跡が無いのです。
ですので、空白の1万年間を挟む、港川人と現在につながる沖縄の人々とが、関係性があるとは断言できません。
以上のことから、現在の沖縄県民が持っているハプログループの特徴は、そのほとんどが本土日本のものと一致しており、沖縄諸島に関しては貝塚時代以降の基本的なヒトの流れは、台湾などの南方からではなく、本土から向かったと判断できます。とどのつまり、沖縄県民は日本人の子孫なのです。
こちらもご参照♥
↓
☆大石格 編集委員 日本経済新聞 20141109朝刊 風見鶏 ①
では、さらに、読み進めていきましょう♥
『 韓半島からヒトが消えて5000年過ぎると、半島は新たな時代に突入します。「新石器時代、櫛文(せつもん)土器文化」とある時代がそれであり、それは【何処からか人々がやって来たことを意味します】。…
縄文時代、人々は日本から無主の韓半島へ家族で移住し、海峡を挟んで祖国日本との間を往来していた。このことを半島の縄文土器や人骨が裏付けていたのです。
では、【今の韓国・朝鮮人の祖先はどこから来た】のでしょう。『韓国の歴史』の一文は、司馬遼太郎の古代史観、「日本よりも古い時代から堂々たる文明と独立国を営んだ歴史を持つ…」も【誤りだった】ことを明らかにしています。
支那遼太郎
「旧石器時代人は現在の韓(朝鮮)民族の直接の祖先ではなく、【直接の祖先は約4000年前の新石器時代人からである】。そう推定されている。」
彼らの祖先は、縄文人が暮らしていた地に、高々4000年前、即ち【紀元前2000年頃にやって来たに過ぎない】のです。今日的な言い方をすれば、【縄文人の住む韓半島を侵略し奪い取った侵略者】、となります。…
すると前5000年頃に住み始め、3000年以上にわたり半島の主人公だった人々のルーツは日本となります。
韓半島に遺された3000年間以上の文化は全て私たち日本人の祖先が伝え、教え、遺したものとなります。…韓民族の文化の基礎は日本から移り住んだ人々が作ったことになります。
そして前2000年頃、北方異民族と異文化が流入し始め、人種的混合も始まり、縄文社会は変質し、前1000年頃、半島は無紋土器、青銅器時代に移行していきます。』
いかがでしょうか?
学校で教え込まされる「ウソ」に、お気づきになられましたでしょうか♥
長くなってしまいましたので、本日は、これでオシマイです♥
続きは次回に♥
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