2015-12-02 (Wed)

福島潟(ふくしまがた)は、新潟県新潟市北区新鼻に位置する潟。潟の下流は新井郷川と同分水路、福島潟放水路へとつながり、周辺部には水の公園福島潟が整備されている。
福島潟は毎年、国の天然記念物であり豊栄地区の鳥でもあるオオヒシクイをはじめとする220種類以上の渡り鳥が飛来するため、国指定福島潟鳥獣保護区(集団渡来地)に指定されている(面積163ha)。また、多くの水生・湿性植物などが450種類以上確認されているほか、オニバス、ミズアオイ、ミクリなど全国的にも希少となっている植物の北限の地としても確認されている。このように、多くの自然が残されているため、福島潟は環境省の「日本の重要湿地500」、「21世紀に残したい日本の自然百選」、「にいがたの景勝百選」などに選ばれており、さらに「福島潟の草いきれ」として環境省の「かおり風景100選」にも選ばれている。
詳しくはこちらから♥ ⇒ ☆水の公園 福島潟
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 (大阪城)大手門を出て左に曲がると、小さな公園の片隅に古風な掲示がありました。何が書いてあるのか近づいて読んでみると、
「ここはかつて難波碕(なにわのみさき)と呼ばれ、生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)があったが、豊臣秀吉公が大阪城築城に際し天王寺の方へ移させた」
と書いてあり、ここが神社が旅立った「お旅所どころ」だとあるのです。

奇妙な話につられ、行ってみようと思ったものです。そこから西に向かい、上り坂を歩いて谷町筋に出て、谷町四丁目交差点を左折し、天王寺方面へしばらく行くと右手に生國魂神社がありました。

生國魂神社

生國魂神社
お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。

御由緒
難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、【南北に連なる台地】より成り、【三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところ】であった。現在の上町台地である。

上町台地(緑色)の稜線部を旧熊野街道(橙色破線)が走る
この上町台地周辺の海上には、【大小さまざまな島】が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、【上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成した】のである。
いわゆる難波の「八十島(やそしま)」である。この島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島、福島、弁天島などの【「島」のつく地名が、古代を物語っている】。漸く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語捨遺(こごしゅうい)』に「大八洲(おおやしま)の霊――日本列島の御神霊(ごしんれい)」(国土全体の国魂の神)と記された生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。
古代の大阪は上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ、多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀(そうし)』を読んでみました。
創祀
社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(かむいやまといはれびこのみこと / 第1代神武天皇)が御東征の砌(みぎり)、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕――現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平定・安泰を願い、大八洲(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神・足島大神をお祀りなされたのが、生國魂神社の創始と伝わる。当神社が【大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以】である。その後、大物主大神を相殿神としてお祀りする。

神武東征
何と神武東征のおり、ここに生島大神・足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ、今日に到っているのです。

記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、【大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地】。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海か湖だったのか、どのような地形だったのか、見当もつきませんでした。

また関西には多くの大学や研究機関があるのですが、この社伝を信じ、古代史を研究した方はいないようであり、

研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家まで、神武東征を否定し、好意的な人も、それは神話だ、と見向きもしなかったのです。』

いかがでしょうか?
神武東征の証明、年代の特定など主要な解説は、本書をお読みいただくと致しまして(⇒見事に解き明かされています♥)、それらを紐解く、最も重要なポイントの解説をさせていただきます。
そのポイントとは、日本書紀や古事記が伝えるところの、「神武天皇は船で難波碕に上陸なされた」、をその年代とともに証明することにあります。
先ほど御覧頂きましたとおり、生國魂神社の御由緒には、「難波(古代の大阪)」が、昔は「南北に連なる台地」であって、「三方を海に囲まれていた」と伝えられています。そして、そこに神武天皇がやって来られたとも伝えています。そして、周辺の海には、大小さまざまな島が浮かんでいたと。。。難波の「八十島(やそしま)」ですね♥ 大八洲国(おおやしま)、つまり、私たちの日本の原型が、ここにあるんです♥

そこで、一つの疑問点が出てきます。「大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地」です。
本当にこの辺りが海で、数々の島があったんでしょうか?船で来ることができたんでしょうか?

著者は苦言を呈していますね♥
「関西には多くの大学や研究機関がある」にもかかわらず、「古代史を研究した方はいない」と。。。
それでは大学や研究機関とは無関係な私たち一般的な日本人の手で、大阪平野の成り立ちを調べるために、ググってみましょう♥
「大阪平野 沖積」
いかがでしょうか?
たくさん出てきましたね♥
そこから得られる情報だけでも、研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家までが否定する『神武東征』が事実であると推定することができ、また、その年代も推定できるんです♥
素人にだってできるんですよw 「研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家」って、一体何をやっているんでしょうね♥
それでは、見てまいりましょう♥
まずは、キーとなる大阪平野がどのようにして成り立ったのかを押さえましょう。
現在の私たちの日本で、いわゆる平野と呼ばれているところは、川の土砂が堆積して出来上がった沖積平野です。
ですから、かつてはどこも湿地帯だったんです♥
「 縄文時代、海面は今より数mも高く、日本の沖積平野(ちゅうせきへいや)はすべて海の下であった。
その後、海面が下がり、川の土砂で沖積平野が形成されていった。
現在の日本で平野と呼ばれているところは、かつてはどこも湿地帯であった。」
詳しくはこちらをご参照♥
↓
☆千葉って島だったんですか?
☆「勝海舟」と「ゲリラ豪雨」♥

で、その大阪平野が、川が運んでくる土砂により出来上がっていく過程を示すと、以下のようになります。

画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 大阪平野の変遷
上図の変化の順番を示すと、以下のようになります。
1.河内湾1の時代 : 約7000年前~6000年前
2.河内湾2の時代 : 約5000年前~4000年前
3.河内潟の時代 : 約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)
4.河内湖1の時代 : 約1800年前~1600年前(西暦150年前~350年)
5.河内湖2の時代 : 約1600年前以降
6.大和川付け替え以前
7.大和川付け替え以降
8.現在
続いて、大阪平野の地層と地質の調査結果が、次に示すとおりです。
( 詳しくはこちらから♥ ⇒ ☆大阪平野の発達史 )

大阪平野の沖積層基底等深線図

大阪平野の14C年代試料採取地点の地質柱状図
上図の採取地点①~⑫を、地図上で西から東へと黄線で結んだのが、下図になります。

今から2万年前、ウルム氷期の最盛期、海水面は現在より100メートル以上も低く、大阪湾や瀬戸内海は陸地でした♥

2万年前の日本列島
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆大雪山の高山植物の起源<その4>
そして、その当時の大阪駅付近の地表面は、現在よりも27メートル以上低かったことも分かっています。
やがて、地球の気温上昇とともに、氷が解け、海水面が上昇し、今から1万1000年前には、大阪駅付近の地下20メートルぐらいまで海水が流入していきました。
さらに気温が上昇、海水温の上昇にともなう大量の蒸発がおこり、山々には大雪が降り、日本列島各地に大雨が降るようになりました。
こういった気候の変動によって、大阪平野に流れ込む河川水量が増加し、大量の土砂を運び込み、やがて現在の大阪平野へと繋がっていきます。
海面の上昇は続き、今から6000年前、海水面は現在よりも1~2メートル高くなり(縄文海進)、生駒山の麓まで海水が流れ込んでいきました。これが「河内湾1の時代 約7000年前~6000年前」です。

やがて、海水面の上昇が終わり、縄文海退の時代へと向かいます。これは、海水面が低下していくということよりも、それ以上に、河川から運ばれてくる土砂によって海が埋まっていく、これを沖積作用というのですが、要するに自然の力による「埋め立て」が起こったんです♥「河内湾2の時代 約5000年前~4000年前」です。

そして時代は、「河内潟の時代 約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)」へと繋がります。

上町台地から北進する砂州が、開口部を狭めていることが見てとれますね♥
当時、河内潟に河川から流れ込む水は、この開口部を通って大阪湾へと流れ出ていました。
ただし、一方通行ではなく、上げ潮時(当時の大阪湾の干満差は約2メートル)には、逆に大阪湾の海水が開口部から河内潟内部へと流入し、現在の大阪城辺りにまで達していました。そして、引き潮時には、再び河川水とともに流入した海水も大阪湾へと流れ出ていったんです♥
それを示したのが、下の古地理図です。大阪湾の海水域、河内潟内陸部の淡水域、そしてその中間点にある汽水域が見てとれますね♥

画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆大阪平野の古地理図
この汽水域こそが、「潟」だったんです♥上げ潮時には、大阪湾からの海水が流入し、大阪城・南森町付近までが海となり、引き潮時には干潟となり、さらに生駒山の麓に至る内陸部では、古地図に示されている複数の川筋が浮き出ていたんです♥
日本書紀には、次のように書き遺されています。
「まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。」
「川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。」
上げ潮に乗って、河内潟内部へと進み、難波碕に上陸、そして干潮時に、難波碕から東の日下へと向かって東西を結ぶ一筋の川筋、まさにこの川を遡って行った。。。すべて、辻褄が合っていますね♥
で、いまでも残る当時の名残が、大阪湾最大の干潟「十三干潟」です♥


詳しくはこちらから♥ ⇒ ☆大阪湾最大の干潟 十三干潟
当時の河内潟時代には、きっと冒頭でご紹介しました福島潟のような風景が、より広大に広がっていたんでしょうね♥

画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆新潟市/福島潟の春風景・菜の花とヨシ焼き
ということで、本日はこれまでです♥
続きは次回に♥
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