2017-11-29 (Wed)

淮河(わいが)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078km、流域面積は174,000平方kmに及ぶ。
淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。その下流は平坦な低地を通っており、流路が複雑なため洪水を起こしやすく非常に治水が難しい。このため「壊河」の異名がある。
淮河はここ40年ほど水質汚染が深刻である。淮河の河岸には、たとえば数十センチの高さにピンク色の異様な泡が打ち寄せられて異臭を放っているような場所が多々ある。流域の村で住民のがん発症率(発がん率)が異常に高く流域住民らが苦しめられていることを、ロイター通信のジャーナリストなどが告発し、国際的に問題になった。国際的批判が高まったことで中国政府も重い腰を上げざるを得なくなり、2005年になって調査を命じ、研究者などが現地で調査を行うことになった。 調査の結果、2013年、中国政府は、淮河の汚染の高いエリアと発がん率の高いエリアが一致していることを認める発表をした。流域の村では、住民が次々と様々な癌でバタバタと死んでゆく村、中国で癌村(がんむら)などと呼ばれている村、住民たちが高い確率で癌を発症する村がある。調査の結果、直腸癌などの発症率の悪化の程度が、中国の他の村に比べて5倍、という村もあることが判明した。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【朝鮮】は【歴史上】、ユーラシアだけでなく、北東アジアにおいても、ほとんど【大きな役割を果たしたことはなかった】。

中国史においては、【モンゴル人や女真人】といった夷狄(いてき、【異民族】)が【中華世界を支配】した時代もあったが、【朝鮮人だけは中華の主催者となることはなかった】。

しかも【1000年以上にわたり、中華の属国であり続けてきた】。【その属国ぶりは徹底】しており、立太子や王宮の修繕までも宗主国に許可を得なくてはならなかった。…

【きわめて「自律性」が欠如し「他律的」だった】わけだが、…では、なぜ【韓国は歴史上、人類史にとって大きな貢献ができなかったのか】。自律性の欠如が生まれたのか。その理由は多々あるが、まず、その地政学的な掟(おきて)や宿命から見ることをすすめたい。
こちらもご参照❤
↓
☆自我の形成不全という「人格障害」、「性格障害」の人々

北東アジアに突き出ている【朝鮮半島】は、ユーラシア大陸の極西の【イベリア半島】から【イタリア半島】、【バルカン半島】とは、【ほぼ同緯度】、【北京や函館ともほぼ同緯度】でもある。だが、【気候は異なる】。地中海型気候といわれる西洋の3つの半島は、朝鮮半島と比べ、気候がより温暖であり、変化は激しくない。
よく知られるように、バルカン半島の【古代ギリシャ文明】とイタリア半島の【古代ローマ文明】はヨーロッパ文明の母体であり、大航海時代もイベリア半島からスタートしたことからも、【地中海に突き出る3つの半島は、西洋文明の誕生と育ての母】ともいえる。
では、極東の北東アジアにある【朝鮮半島】は、なぜ【地中海の3つの半島とはまったく逆の運命を辿った】のだろうか。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、支那と朝鮮に関しての地政学に基づく歴史的な解説をベースに、それらとはまったく異なった存在である私たちの日本について、比較検討していくことで、常に劣位であり続ける支那や朝鮮、その反対に、常に優位であり続ける私たちの日本を、鮮やかに浮かび上がらせている良書となります。

さて、朝鮮が決して逃れることのできない地政学的な掟や宿命については、本書をご参照いただきますとして、さっそく昨日の続きに入らせて頂きたいと思います。
「中原」を中心とする黄河中下流域の「黄河文明」と、それとは異なった「遼河文明」(りょうがぶんめい)が、遼寧省の遼河流域に存在していて、

黄色の円が「黄河文明」、赤色の円が「遼河文明」
その「遼河文明」と、私たちの日本文明の「三内丸山遺跡」を中心とした、北海道・東北の文化圏とが、交易等によって大きな経済圏を形成していた可能性があるということを昨日書かせて頂きました。

遼河文明は興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)(紀元前6200年頃~紀元前5400年頃)と紅山文化(こうさんぶんか)(紀元前4700年頃~紀元前2900年頃)とに分けられていて、気候変動によって南方へと移住していったのではないかと考えられています。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている。」

これは私たちの日本列島にも見られる現象で、縄文中期後半以降、気温が寒冷化に向かい、海水面の低下が生じ、関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなる一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達するようになります。とは言うものの、やはり食料生産が低下し、人口も停滞あるいは減少に転じることとなります。その様子は、上の図からも確認できると思います。
で、紅山文化時代の人々の骨からは、Y染色体ハプログループ分析によりますと、ハプログループNが67%の高頻度で観察されます。

ハプログループN (Y染色体)
Y染色体は、「男の子」が受け継げるもので、「女の子」は受け継げないもので、男系男子によって受け継がれてきた私たち日本の「天皇」のルーツの辿り方と同じ考え方になります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆磯野家を継ぐのは、誰が良いの?

さきほど示されているように、ハプログループN (Y染色体)はユーラシア大陸の北方に見られる典型的なグループですが、そもそもの起源は東南アジアで、
![ハプログループN (Y染色体) [M231]](https://blog-imgs-116.fc2.com/o/y/a/oyakochoco/20171125114806b1c.jpg)
ハプログループN (Y染色体) [M231]
それが時代を経るにつれて北上し、反時計回りに西へと拡散していったと考えられています。

ハプログループN (Y染色体)の拡散イメージ(kya:kilo years ago)
ハプログループN (Y染色体)の観察頻度が高いのは、ロシア北方のヤマロ・ネネツ自治管区に住むネネツ人とか、

ヤマロ・ネネツ自治管区

ネネツ人の家族
ロシア極北地方のサモエード系先住民族であるガナサン人などが挙げられます。

ガナサン人 1927年

ひとつ余計な写真が混ざっておりますが、同じ部類のモノになります。

黄色の円が「黄河文明」、赤色の円が「遼河文明」
紅山文化(紀元前4700年頃~紀元前2900年頃)に属する遼河文明の人々が、気候変動によって南方へと移住すると、当然ですが、「中原」を中心とする黄河中下流域の「黄河文明」と融合していった可能性があることになります。

それが、中原に現れた二里頭文化(にりとうぶんか)です。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 二里頭文化(にりとうぶんか、紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃)は、中国の黄河中流から下流を中心に栄えた新石器時代から青銅器時代初期にかけての文化であり、都市や宮殿を築いた。」

二里頭文化の範囲を示した図
まだまだ不明な点も多いのですが、この二里頭文化が中国の史書に記された最古の王朝である「夏(か)」ではないかと考えられており、今後の研究が楽しみなところでもあります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 二里頭遺跡は新石器時代の遺跡で、掘り出された住居の跡から人口2万人以上と推定される。当時としては世界有数の大規模集落。トルコ石で表現された龍、銅爵(どうしゃく)、宮殿区、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されている。
ヒスイの龍は、二里頭文化以前に栄えた遼河流域の興隆窪文化、紅山文化でも発掘されており、遼河流域の文化の影響が及んでいることが示唆される。龍は歴代王朝は王の権威の象徴として用いられていること、歴代王朝の宮殿と類似する宮殿跡などから、二里頭文化が歴代王朝に影響を与えた文化だと考えられ、二里頭文化こそ夏王朝だとする学者も多い。」
「 岡田英弘の解釈に依れば、夏(か)とは「賈(か)、価(か)、牙(が)」と同音で商売を意味し、元は洛陽盆地の首都から来た商人・貿易者が夏人(賈人)であり、その使用言語を夏語(雅語)といい、元々現在のインドシナ半島の諸民族の言語に近い「夷」の言語(南方系言語)を基礎にしたものであったとする。
古代中国の史書では洛陽盆地から見た非中国人を夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)とするが、これはそれぞれの方角の住居地による呼称である。

南蛮(なんばん)は河南省西部・四川省東部・湖北省・湖南省西部の焼畑農耕民を指し、西戎(せいじゅう)は甘粛省南部などの遊牧民、北狄(ほくてき)は山西高原や内蒙古の狩猟民を指し(この地域は古くは森であった)、東夷(とうい)は黄河や淮河のデルタ地帯の農耕漁労民を指す。岡田は史記での記述や夏人伝承の分布地などから、また史書に記述される夏人が龍を祖先神とする事などから、東夷を夏人とし、水上民族であったのではないかとする。
又「夷」は「弓」と「大」を合成したもので、音を「てい」とする「低」「底」などの文字と類似文字であり、「低地人」を意味するとした上で、中原へ北方高原からの「狄(てき)」が侵攻し、夏を滅ぼし殷を建てたとする。」

つまり、「中原」を中心とする黄河中下流域の黄河文明の領域に、東方からの農耕漁労民が進出してきて、「夏(か)」が興り、その後、北方からの狩猟民が進出し、「夏(か)」が滅亡し、「殷(商)」が興ったという流れになります。
ちなみに、淮河(わいが)とは、華北と華南の境界線にあたる川で、現在は渤海へと流れ込む黄河も、以前はこの淮河に合流していました。

黄河と長江に南北を挟まれる形で流れる淮河
以上のことから、農耕漁労民であった遼河文明の人々が、気候変動によって南方へと移住、黄河や淮河のデルタ地帯を経て、やがて「中原」を支配したといった可能性があると考えております。
続きは次回に♥
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