2017-11-30 (Thu)

『月宮迎』(月岡芳年『月百姿』)
月宮殿(げっきゅうでん、がっきゅうでん)または月宮(げっきゅう)、広寒宮(こうかんきゅう)、広寒府(こうかんふ)、蟾宮(せんきゅう)は、伝説に登場する月にあるとされる宮殿。日本風のよみをして月の都(つきのみやこ)、月の宮(つきのみや)などとも呼ばれる。
中国の伝説では、宮殿があり、そこには不老不死の薬を飲んだあと月へと逃げかくれた嫦娥(じょうが)が住んでいるとされる。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【戦後、中国人が「支那人」と呼ばれるのを嫌がった】のは、【ある隠された政治目的があった】からだ。

1905年に【孫文】、【章炳麟】(しょうへいりん)ら【革命派】は、「駆除韃虜(タタール)、恢復中華」という革命綱領を掲げて【革命同盟会】(のちの中国同盟会)を東京で設立した。

これら革命派が鼓吹する【「大漢民族主義」】に対抗するために、【維新立憲派】のボス【康有為】(こうゆうい)らは【「大中華民族主義」】を唱えた。

康有為
【ここから「中華民族」という幻の民族像が始まった】。

【「大中華民族主義」】というのは、【チベット人も、満州人も、モンゴル人も…血がつながっていると考える主義】である。

そのため、すべてが大中華民族であり中国人だと主張する。…

「大中華民族主義」にとって、【中国人を「支那人」と言ってしまうと漢人に限定される】。

チベット人、モンゴル人、満州人まで含む「大中華民族主義」にとっては、【都合の悪い言葉】なのだ。【だから支那人という言葉の使用を嫌うようになった】。

だが【「支那人」という呼称】は、康有為と同時代の中国人にとっては、【忌むべきものというよりもむしろ誇りにすべき尊称であった】。

たとえば、安慶蜂起(1907年)で処刑された著名な詩人である秋瑾(しゅうきん)は【自らを「支那第一女」と自尊】し、

秋瑾
詩人の柳亜子(りゅうあし)は、

柳亜子
【毛沢東と孫文を「支那両列寧(支那の二人のレーニン)」と讃えている】。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、支那と朝鮮に関しての地政学に基づく歴史的な解説をベースに、それらとはまったく異なった存在である私たちの日本について、比較検討していくことで、常に劣位であり続ける支那や朝鮮、その反対に、常に優位であり続ける私たちの日本を、鮮やかに浮かび上がらせている良書となります。

さて、繰り返し書かせて頂いておりますが、本文中にもありましたたように、「中華民族」という幻の民族像が出来たのも、「中国」が出来たのも、「中国語」が出来たのも、20世紀になってからのお話であり、実際には「たった100年ほどの歴史」でしかないものです。正しくは、「支那人」です。その「支那人」は「漢人」を指しているのですが、これも「漢という民族」という意味ではないんです。簡単に言いますと、黄河文明の中心地であった「中原」では、話し言葉が異なる人々のコミュニケーションの手段として「記号」が用いられました。
例えば、「¥」とか「$」を見て、何と読むかは別にして、その表している意味が「日本円」や「アメリカ・ドル」であることを知っていれば通じます。それと同じ役割を果たしたものが文字である「漢字」であり、その「漢字」を理解している人々を「漢人」と呼ぶわけです。で、「漢字」を理解していない人々を野蛮だとして蔑むべき存在だと考えていたんです。

で、昨日までのところで、その「中原」を中心とする黄河中下流域の「黄河文明」を滅ぼしたのが、異なった文明である農耕漁労民の「遼河文明」(りょうがぶんめい)で、東方から進出してきて、「夏(か)」が興り、その後、北方からの狩猟民が進出し、「夏(か)」が滅亡し、「殷(商)」が興ったという流れについて書かせて頂きました。もっとも、ここは様々な議論があるところで、明確に判明していることではないのですが、当ブログでは、現時点において、そのように考えております。


ところで、支那の神話にも、事実かどうか判別がつかないお話がたくさんありますが、その内容の真偽はともかく、何らかの形で伝えられているということは、そこに何かがあった可能性があると当ブログでは考えています。朝日新聞のように事実を捻じ曲げて「捏造」する、あるいは本当のことの中に「一部だけ嘘を入れる」、はたまた隠しておきたい重要なことは「伝え残さない」「暗号化する」ということは、普通に行われていたのではないでしょうか?
現在でこそ、ネットを通じた即時情報拡散が行われているために、「朝日新聞」や「TBS」などのインチキなメデイアの実態が日々白日の下に晒されているわけですが、古代には、そういったツールは存在していません。ですから、「文字で残す」のか、「口承で残す」のかといったところで、ふと考えたはずなんです。
例えば、東夷の后羿(こうげい)のお話は、こんな感じになります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 羿(げい)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい)とも呼ばれる。 弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(じょうが、こうが)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙(ほうもう)によって殺される、悲劇的な英雄である。

嫦娥月へ奔る(月岡芳年画)
天帝である帝夋(ていしゅん)には羲和(ぎわ)という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが帝堯(ていぎょう)の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿(げい)をつかわした。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる。
自らの子(太陽たち)を殺された帝夋(ていしゅん)は羿(げい)を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿(げい)は崑崙山(こんろん、伝説上の山)の西に住む西王母(せいおうぼ、さいおうぼ、女仙)を訪ね、不老不死の薬を2人分もらって帰るが、嫦娥(じょうが)は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥(じょうが)は羿(げい)を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿(げい)を裏切ったむくいで体はヒキガエルになってしまい、そのまま月で過ごすことになった。

その後、羿(げい)は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった。」
ここで、少し補足しておきますと、「天帝である帝夋(ていしゅん)」とその妻の「羲和(ぎわ)」が登場しています。
支那の王朝の君主は、「天子」で、その「天子」が「天帝」を祀ることが義務とされ、受け継がれていきました。「天帝」を祀ることは「天子」にしか出来ないことだったわけです。聖徳太子も「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」と記した国書を支那に送りつけていますね。

聖徳太子
そして、「天帝」というのが天上の最高神を意味しています。
で、最高神である「帝夋(ていしゅん)」は、支那の神話では、「東方の天帝」とされています。
その妻の「義和(ぎわ)」は、「太陽の母神」で、もう一人の妻である「常義(じょうぎ)」は、月である12人の娘を生んだとされる「月の女神」です。

堯
また、「帝堯(ていぎょう)の時代に、10の太陽がいっぺんに現れる」とありましたが、この「堯(ぎょう)」は支那の神話上の君主で、兄である摯(し)の後に君主になったとされています。兄・摯(し)の前の君主が、父である「嚳(こく)」で、その前が「顓頊(せんぎょく)」なのですが、この「嚳(こく)」と「顓頊(せんぎょく)」との間に血縁関係はありません。「顓頊(せんぎょく)」は、支那の最初の君主とされる「黄帝(こうてい)」の孫にあたるとされています。
その「顓頊(せんぎょく)」の子どもの一人に「鯀(こん)」がいますが、支那の神話に登場する天下に害をなした四柱の悪神、「四罪(しざい)」の一人とされています。
現在、支那共産党は、政治的な民族概念「中華民族」の始祖は、「黄帝」であるとして崇拝を強めているわけですが、そのひ孫の「鯀(こん)」が「四罪(しざい)」の一人だということになります。

では、一体何をしたのかと言いますと、これも「堯(ぎょう)」の治世時代のお話になります。
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 帝堯(ぎょう)の治世において黄河の氾濫が止まなかったため、堯(ぎょう)は誰かに治水をさせようと考えていた。この時、皆が口をそろえて鯀(こん)にやらせるべきだと言った。堯(ぎょう)は鯀(こん)を用いるべきでないと言って渋ったが、それでも臣下達が鯀(こん)より賢い者はいないと言ったので、堯(ぎょう)は鯀(こん)に治水を任せた。しかし、9年やっても氾濫は収まらなかったので、堯(ぎょう)は鯀(こん)に代えて舜(しゅん)を登用した。
舜(しゅん)が鯀(こん)のした治水の様子を視察していたところ、鯀(こん)は羽山(うざん)で死んでいた。人々は、舜(しゅん)が鯀(こん)を殺したのではないかと疑ったので、舜(しゅん)は鯀(こん)の遺児である禹(う)に鯀(こん)の事業を引き継がせた。」

禹
そして、ここで出てきた「禹(う)」が「夏(か)」を興したとされているわけですが、支那共産党が「中華民族」の始祖としたいのが支那の最初の君主とされる「黄帝(こうてい)」であり、その後継者が「黄帝(こうてい)」の孫にあたる「顓頊(せんぎょく)」で、「黄帝(こうてい)」の玄孫(やしゃご)にあたる禹(う)が「夏(か)」を興したということになります。
王位継承は、堯(ぎょう)→舜(しゅん)→禹(う)と繋がっているわけですが、『史記』舜本紀には、鯀(こん)の子孫たちが東の方角にすむ東夷たちになったと記されています。

さて、そもそも、「黄帝(こうてい)」が治めた国はどこにあったのでしょうか?

農耕漁労民の「遼河文明」(りょうがぶんめい)と考えるのが自然ではないでしょうか?それがやがて南下を始め、黄河中下流域へと移住、さらに「中原」へ進出していった、と。

黄色の円が「黄河文明」、赤色の円が「遼河文明」
そして、その「黄帝(こうてい)」が治めた国で祀られていたのが、天上の最高神である「帝夋(ていしゅん)」で、「東方の天帝」です。
繰り返しますが、その妻の「義和(ぎわ)」は、「太陽の母神」、「常義(じょうぎ)」は、「月の女神」です。堯(ぎょう)の時代には、助け船を出しています。
もう、何が言いたいのか、お分かりですね❤
彼らが崇拝していたのは、私たち日本の神さまではないでしょうか?

続きは次回に♥
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