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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  国際 >  ドイツリスクとオダリスク ~ 夢見るドイツのロマン主義 

    ドイツリスクとオダリスク ~ 夢見るドイツのロマン主義 

    フランチェスコ・アイエツ『オダリスク』1867年
    フランチェスコ・アイエツ 『オダリスク』 1867年

    オダリスク(odalisque)とは、トルコ語 odaliq (部屋) からきた語イスラムの君主のハレムに仕える女奴隷あるいは寵姫19世紀初頭フランスの画家たちが好んで作品の主題とした。おもな例はアングルの『グランド・オダリスク』 (1814,ルーブル美術館) 、ルノアールの『オダリスク』 (バーンズ財団)、マチスの『赤いキュロットのオダリスク』 (パリ国立近代美術館) など。

    フランチェスコ・アイエツ『ルツ』1835年
    フランチェスコ・アイエツ 『ルツ』 1835年

    ロマン主義(ロマンしゅぎ、英: Romanticism、仏: Romantisme、独: Romantik、伊: Romanticismo、西: Romanticismo、葡: Romantismo)は、主として18世紀末から19世紀前半にヨーロッパでその後にヨーロッパの影響を受けた諸地域で起こった精神運動の一つである。それまでの理性偏重、合理主義などに対し感受性や主観に重きをおいた一連の運動であり、古典主義と対をなす恋愛賛美民族意識の高揚中世への憧憬といった特徴をもち、近代国民国家形成を促進した。その動きは文芸・美術・音楽・演劇など様々な芸術分野に及んだ。のちに、その反動として写実主義・自然主義などをもたらした


    ロマン主義の底流に流れているものは、古典主義や教条主義がしばしば無視した個人の根本的独自性の重視自我の欲求による実存的不安といった特性である。ロマン主義においては、それまで古典主義において軽視されてきたエキゾチスム・オリエンタリズム・神秘主義・夢などといった題材が好まれた


    ローマ帝国時代のラテン語には文語としての古典ラテン語口語としての俗ラテン語存在したが、その差はさほど大きくなかった。衰退期にはいると文語と口語の差は徐々に広がってゆくやがて一つの言語の変種とはもはや呼べないほどにまでその違いは大きくなり古典ラテン語の知識のない庶民にはもはや理解困難なほどにまでなるその時代の口語をロマンス語と呼んだ。そのロマンス語で書かれた文学作品がロマンスと呼ばれるようになりギリシャ・ローマの古典文学の対立概念とされるようになったロマン主義(ロマンティシズム)の語源は、ここにある。したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。

    フランチェスコ・アイエツ『入浴するバテシバ』1834年
    フランチェスコ・アイエツ 『入浴するバテシバ』 1834年





    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 トーマス・マンが、ドイツ敗戦直後の1945年5月29日、米国で行った有名な講習「ドイツとドイツ人」がある。

    トーマス・マン 1937年
    トーマス・マン

    【福島原発事故に対するドイツ人の反応】を知った後、この文章を読み直したが、端的に【ドイツ人の振る舞いの底に潜む論理】を表現していると思え、いちいちひざを打つような思いがした。たとえば、次のような一節である。

    「 (【ドイツ・ロマン主義】とは)自分自身が、地底の世界に通じるような非合理で悪霊的な生命力に近いところに、すなわち人間の生命の本来の源泉の近くいると感じており、他方単に理性的でしかない世界観や世界論に対しては、【自分はもっと深い理解を持ち、聖なるものともっと深い結び付きを持っている】として反逆する、そのような【魂の古代性】なのです。

    ポイント 女性

    ドイツ人は、啓蒙主義の哲学的主知主義と合理主義に反抗する【ロマン主義的反革命の民族】――文学に対する音楽の、明瞭に対する【神秘主義の反抗の民族】であります」

    こちらもご参照♥

    ドイツの「いやらしい」ところ ~ あのヒトラーのボロクソワーゲンの国



     マン【ドイツ人の政治下手】にまで議論を発展させる。【現実の問題処理に当たって、英国的なやり方が優れている】という見方を、マンはヘルダーリーンやゲーテの発言を引きながら、このように語っている。

    こちらもご参照♥

    脱原発のドイツ ~ “呪われた国”のコンプレックス



    「 【『行動において貧しく、思想において豊かな』】と、ヘルダーリーンは、【古く、敬虔な、精神的な、そして無力なドイツ】を呼びました。【精神と権力、思想と行動の間のドイツ的乖離、文化の高さと政治の惨めさの間の矛盾】悩みの種でありました。ゲーテはこの悩みをはっきりと口にしましたし、時おり【ドイツ人の性格の世間知らずな理論癖】を呪いました。ゲーテはエッカーマンにこう言っています。『ドイツ人が哲学の問題の解決に苦しんでいる間に、【豊かな実際的分別を備えたイギリス人】はわれわれを笑いとばして、世界を手中に収めている』」 』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    この書物は、現代ドイツ人の考え方を見る上で、とても参考になります。

    大東亜戦争時に同盟国だったドイツですが、実際には、私たち日本にとって何の役にも立っていませんでした♥

    ポイント 女性

    大東亜戦争当時も、また現在でもそうですが、私たち日本人から見ればドイツは小国です♥

    日本 ドイツ 地図 2
    『THE TRUE SIZE OF ...』

    しかも、ドイツ民衆のレベルの低さは、私たち日本人の想像を絶するほどのレベルです♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    普通の人は小数点以下の計算はできません ~ 日本人が知らなさ過ぎなこと



    ドイツの民衆は、私たち日本のごく一部にみられる「パヨク」と同じ低能なモノだと思って頂ければ、分かりやすいと思います♥

    劣化左翼

    そんな「夢見る」ドイツ人「ロマン主義」的な思考とは、つまるところ、「自分たちこそ正しい」「自分たちこそ正義」「自分たちこそ善」だっていう、善悪二元論の単純思考だということです♥

    ポイント 女性

    その根っこにあるのが、ゾロアスター教の善悪二元論です♥

    詳しくはこちらをご参照♥

    古代ペルシアからハリウッドに伝えられたもの



    安倍総理 プーチン 日ロ共同記者会見

    先日の日露首脳による共同記者会見での、安倍総理の言葉から、一部抜粋してみますと。。。

    「 領土問題について、はこれまでの日本の立場の正しさを確信しています。ウラジーミルもロシアの立場の正しさを確信しているに違いないと思います。
     しかし互いにそれぞれの正義を何度主張し合ってもこのままではこの問題を解決することはできません。次の世代の若者たちに日本とロシアの新たな時代を切り拓くため、共に努力を積み重ねなければなりません。
     過去にばかりとらわれるのではなく、日本人とロシア人が共存し、互いにウィン・ウィンの関係を築くことができる。北方四島の未来像を描き、その中から解決策を探し出すという未来志向の発想が必要です。」


    こちらもご参照♥

    油症官邸HP 日露共同記者会見

    【政治家の目線】日露首脳会談についての評価【納得したらシェア】

    安倍総理 プーチン 日ロ共同記者会見 2

    これこそが、私たち日本人が誇るべき「和」の精神です♥

    「互いにそれぞれの正義を何度主張し合っても」、問題はますます複雑になり、何ら解決をもたらさないんです♥

    「互いにそれぞれの正義」を主張することから生まれるのは「殺し合い」による解決、つまり「戦争」でしかないんです♥

    ポイント 女性

    それを理解するためにも、戦争に継ぐ戦争を繰り返してきたキリスト教白人国家の歴史を学ぶ必要があるんです♥

    私たち日本人は、アメリカやロシアに対して「戦争に負けた」という意識が常にあります。ですから、極東のちっぽけな島国であると、日本人自身「思い込み」をしています。

    ですが、実際には、全然違います私たちの日本は、いま現在も大国です♥

    イギリスの植民地であったインドも、私たち日本の勝利によって独立していったんです♥ イギリスは、日本に負けたんです♥

    日本 インド 地図
    『THE TRUE SIZE OF ...』

    極東のちっぽけな島国であるとの「思い込み」は、そろそろ改めなければいけませんね

    実寸大で、大国である私たちの日本を、ヨーロッパに置いてみると。。。

    日本 ヨーロッパ 地図
    『THE TRUE SIZE OF ...』

    さて、そんなドイツ人に染み付いている「善悪二元論」は、ゾロアスター教→ユダヤ教→キリスト教と受け継がれ、神聖ローマ帝国、すなわちドイツ育まれていきます

    ここからは、昨日の続きになります。

    連日にわたって、書かせて頂いておりますが、私たち日本の戦国時代の頃ヨーロッパでは「宗教改革」を切っ掛けとしたキリスト教の分裂が始まっていました。

    国史と西洋史 4

    この時代は、西洋史でいうところの「近世」になります。

    で、当時の状況を簡単に表しますと、こんな関係で御理解いただければ良いかと思います。

    1547年時点でのハプスブルク家の領土 3
    1547年時点でのハプスブルク家の領土

    ここで、イングランド王国とフランス王国の関係を見ていく必要があるのですが、ポイントになる地域「ノルマンディー」です。

    ノルマンディー
    ノルマンディー

    詳しくは昨日書かせて頂いておりますので省略いたしますが、北方ゲルマン系ヴァイキングであるノルマン人が、侵入して支配したのがこのノルマンディーでした。

    12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す
    12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す

    この地を治めたノルマンディー公は、フランス王の臣下でもあったのですが、後のウィリアム1世の時代イングランドに攻め込み征服し、ノルマン人の王朝であるノルマン朝を開き、現在に至るまでその血筋が続くことになります。

    ウィリアム1世
    ウィリアム1世

    ノルマンディー公として、初めてノルマンディー地方を統治するのがロロ(846年頃 - 933年)です♥

    ロロの銅像
    ロロの銅像

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 ロロ(Rollo、仏: Rollon、846年頃 - 933年)、洗礼名ロベール(Robert、彼の子孫と区別するためにロベール1世と数えられることもある)は、ノルウェー人、デンマーク人の指導者で、間もなくノルマンディーとして知られるようになったヴァイキングの公国の創始者恵まれた体格が災いして、馬に乗ると馬を乗り潰してしまうので、いつも徒歩で移動し、「徒歩王」ロロ(Rollon le Marcheur)と渾名された彼の子孫ノルマンディー公となった(ノルマンディー家)。

     メール侯ログンヴァルドと彼の正妻ヒルドとの間に生まれ、母方の祖父と同じ「フロールヴ」と名付けられた。彼は成長すると東バルト海方面を襲撃したが、ある夏、ヴァイキング行からヴィークに戻ると、そこで略奪行為を働いた。国内での略奪は法律で禁じられていたため、彼はハーラル美髪王の怒りを買い、民会で国外追放に処せられた追放後、彼は一族郎党を引き連れてヘブリディーズ諸島へ赴いた後、フランス北岸へ侵入し、荒らした。ヴァイキングの襲撃に悩まされていた西フランク王シャルル3世は、ロロにヴァイキングの襲撃を防げばエプト川からリール川の間の土地(現在のノルマンディー地方東部)を与えると申し出た。911年夏、ロロはシャルトルで大敗を喫した。同年晩秋に両者はサン=クレール=シュール=エプト条約を結び、ロロノルマンディー地方を得てシャルル3世の庶出の王女ジゼルと結婚し、ノルマンディー公に叙された


    シャルル3世(西フランク王)
    シャルル3世(西フランク王)

     ロロは贈り物の返礼として司教たちに国王の足に口づけするように求められたが、これを拒否して部下に代行させた代行した部下はフランス王にひざまづいてキスをするのではなく、フランス王の片足をつかんで逆さまに吊り上げ足にキスをした

    驚き顔

    これはロロたちノルマン人いずれもが同等であり主人を持たない気風によるものと伝えられている。

    条約を締結した1年後ロロはキリスト教に改宗し、当初王との約束を守ったが間もなく侵略に転じ近隣諸国の領土を拡大し勢力を伸ばした。」


    ノルマンディー公ロロの息子ギヨーム1世(在位:925年頃 -942年)ですが、フランドル伯アルヌルフ1世と領土を巡って争い、942年、交渉の席でアルヌルフ1世の部下によって暗殺されます。後継は、息子のリシャール1世(在位:942年 - 996年)ですが、当時はまだ10歳でした。

    リシャール1世
    リシャール1世

    ここぞとばかりに、西フランク王ルイ4世は、ノルマンディー公領を占領し、リシャール1世を一時監禁しましたが、協力者の存在によってリシャール1世は脱走に成功します。

    ルイ4世
    ルイ4世(西フランク王)

    このルイ4世の父親が、先程のシャルル3世で、母親アングロ・サクソン系イングランド王エドワード(長兄王)の娘エドギヴァです。

    ですから、西フランク王ルイ4世からみると、ノルマンディー公リシャール1世大甥(甥の子供)になります。

    946年、わずか14歳のリシャール1世は、フランス国内のノルマン人およびヴァイキングの族長らと同盟し、ルイ4世の軍を追い出しノルマンディーを取り戻します

    996年、リシャール1世の息子リシャール2世ノルマンディー公を継承します。このリシャール2世は、エマ・オブ・ノーマンディーアングロ・サクソン系のイングランド王エゼルレッド2世と結婚させ、イングランド王国との関係改善を図ります。

    エゼルレッド2世
    エゼルレッド2世

    この結婚が、後にイングランド王位継承権を主張する根拠となります♥

    ポイント 女性

    1026年、リシャール2世の長男リシャール3世ノルマンディー公を継承しますが、わずか1年足らずで、弟の反乱に遭い、原因不明の死を遂げます。

    リシャール3世
    リシャール3世

    そのというのが、ノルマンディー公ロベール1世(在位:1028年 - 1035年)です。

    以下は、Wikipediaからの抜粋です。

    「 ロベール1世(フランス語:Robert Ier, 1000年頃 - 1035年7月3日)は、ノルマンディー公(在位:1028年 - 1035年)。華やかな衣装を好んだことから「華麗公(le Magnifique)」、あるいは兄を暗殺したという疑いから「悪魔公」(le Diable)と呼ばれる。リシャール2世(善良公)とその妻でブルターニュ公コナン1世の娘ユディトの子。イングランド王エゼルレッド2世北海帝国の王クヌーズ大王妃エマは叔母に当たる

    ポイント 女性

     1027年、父が死去して兄のリシャール3世が公位を嗣いだ時、ロベールはイエモワ伯となっていた。リシャール3世はわずか1年後に死去するが、これはロベールによる暗殺ではないかと強く疑われたロベール1世の渾名の1つ「悪魔公」はこれに由来し、しばしば伝説の悪魔ロベールと同一視されてきた。」


    ロベール1世
    ロベール1世

    「 悪魔ロバート(Robert the Devil)は中世ヨーロッパに起源を持つ伝説で、自分が悪魔の申し子であると知ったノルマン人騎士の物語である。

     天恵を得られず子供ができないことに絶望した母親は、子を授かることを悪魔に願う。そうして生まれたロバートは、悪魔の力によって暴力と罪に満ちた日々を送る。しかし遂に彼は改悛し贖罪を果たす

     この伝説が、実在の人物に基いているかどうかは定かではない。伝説の起源は13世紀のフランスに始まり、文学を始めとして様々な創作の対象とされてきたが、中でも特に有名なのはジャコモ・マイアベーアによるオペラ『悪魔のロベール(Robert le diable)』である。」


    15世紀の『ノルマンディー年代記』の挿絵。左側ではロバートが殺人を犯しており、右側ではロバートが叙勲されている。
    15世紀の『ノルマンディー年代記』の挿絵。左側ではロバートが殺人を犯しており、右側ではロバートが叙勲されている。

    ロベール1世は、愛人エルエーヴ(アルレット・ド・ファレーズとも)との間にギヨームとアデルの2人の子供を儲けました。ギヨームを後継者に指名した後、ロベール1世はエルサレム巡礼に出発します。しかし、帰途にあった1035年7月にニカイアで客死します。それにより、ギヨーム2世が、わずか8歳ノルマンディー公位を嗣ぐことになります。

    このノルマンディー公ギヨーム2世が、イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となったイングランド王ウィリアム1世となります♥

    ウィリアム1世

    つまり、イギリス王室は、ヴァイキングの子孫ということです♥

    エリザベス2世
    エリザベス2世

    続きは次回に♥




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