2018-04-16 (Mon)
大祓詞(おおはらえのことば)は、神道の祭祀に用いられる祝詞の一つである。中臣祓詞(なかとみのはらえことば、略して中臣祓)・中臣祭文(なかとみさいもん)ともいう。
元々は毎年6月と12月の末日に行われる大祓で、犯した罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢れを祓うために唱えられた祝詞で、中臣氏が京の朱雀門で奏上していたことから中臣祓の称がある。6月と12月では異なる文言であったが、6月の方だけが残った。
『延喜式』巻八「祝詞」には「六月晦大祓」として記載されており、「十二月も此に准へ」と注記がある。今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祝詞を元にしたものである。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【「日高見国(ひたかみのくに)」】という言葉をご存じでしょうか。かつて【日本列島に存在した国の名前】です。
【日高見国】はまず、【『日本書紀』】の中で、【二カ所】に登場します。
【第十二代景行天皇(けいこうてんのう)】の御代に、【武内宿禰】という側近が北陸・東北の諸国を視察しました。
景行天皇
その報告に、「東方にある広大で肥沃な土地(くに)」として【日高見国】が出てきます。
武内宿禰(菊池容斎『前賢故実』、明治時代)
そしてもうひとつ、【ヤマトタケルノミコト】が東征したときの【最終の訪問地】として【日高見国】は登場します。同じく【景行天皇の御代】のお話です。
ヤマトタケル(歌川国芳画)
このとき、日高見国はヤマトタケルにとっては【平定すべき対象の国】でした。
【鎌倉時代】にできた日本書紀の注釈書【『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』】には、【日高見国の解説】があります。
「 【第三六代孝徳天皇】の御代つまり【大化改新】の時代に、茨城に新しい行政区として【信太(しだ)郡】がおかれたと『風土記(ふどき)』の常陸国(現在の茨城県)編に残っているが、【この土地がもと日高見国と呼ばれた地域】である」
という解説です。
茨城県信太郡の範囲
現代でこそ耳慣れない言葉ですが、【「日高見国」】は長い間、【常識として知られていた国の名】でした。
その名称は今も日本各地に、日高、日田、北上、飛騨、飯高、日上、氷上などの地名として残っています。
【日高見国】は、【なぜ常識として記憶されていたのでしょうか】。
それは、【平安時代】の行政細則書【『延喜式(えんぎしき)』】に定められた【祝詞(のりと)「大祓詞(おおはらえのことば)」】に、【日本全体を示す言葉】として【「大倭日高見之国(おおやまとひだかみのくに)」】という表現が使われていることからわかってきます。
【「大倭日高見之国」】は、大陸サイドの蔑称に近い呼称「倭国」を美化した言葉に過ぎないという説もあります。しかし、それにつけても、これは間違いなく、【日本という国】は、【「倭=大和」と「日高見国」の二つの国】から、あるいは【二つの国が合体】してできあがっているという【当時の人々の認識を示しています】。
【二つの国という認識】は、大陸の歴史書『旧唐書』(10世紀成立)および『新唐書』(11世紀成立)にも見られます。「日本伝」が両書にありますが、どちらも同様に【「小国が大国倭国を併合し日本と名のる」】と説明しています。
日本からの使者がそう伝えた、といいますから、【これが当時のわが国の公式見解】です。
【「大祓詞」】と照らし合わせて考えれば、両唐書にある【「小国」が日高見国を指すことは間違いない】でしょう。【日本は、「日高見国」が「倭」を併合することで成立した国】だということになります。
有名な史資料から、これだけのことがわかります。【日高見国】は【日本の歴史においてとても重要な国】ですが、【学校の授業などでは決して教わりません】。こんな話は初耳だという方も多いでしょう。
しかし、問題はここからです。【日高見国】は、実は、【日本史を大転換する重要性を秘めた一大国家】でした。
それを明らかにしていこうというのが本書の目的です。
先に述べた、一連の史資料に登場する【日高見国】は、【時代が進むにつれて小国化】していった日高見国の【残滓(ざんし/ざんさい)】に過ぎません。結論から先に言いますと、【日高見国】はかつて【縄文・弥生の時代】に、【関東・東北を広く束ねた、日本列島を担う、日本の源郷とも言うべき国家】でした。
【日本の神話】に描かれているのは【日高見国の歴史】です。』
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の神話に秘められた「謎」の部分を、最近の研究成果から紐解いていく、非常に知的好奇心をくすぐる良書となります。また、現在の我が国の「歴史学者」という肩書を持った連中の中に、未だに多く潜り込んだままとなっている、前世紀の遺物である「マルクス主義史観」に凝り固まった輩(⇒これが我が国の歴史研究における元凶なのは言うまでもありませんがw)についても、容赦なく斬って捨てていらっしゃる著者の姿も、非常に逞しく、好感が持てます。みなさんも、ぜひ、御一読なさってみて下さい。
さて、これは当ブログで繰り返し書かせて頂いていることなのですが、古事記の冒頭には、「佐渡島」を除いて、日本列島の東側が出てきていません。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆5000年前の日本人が、北海道と青森県の間を船で輸送していたモノ
なぜ、なのでしょうか?
実は、私たち日本人は、2万年以上前から、海路によって大陸との交易を行っていた可能性が高く、その中心地も、日本列島の東側でした。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆中国の皇帝のシンボルとされる「竜」は、日本に生息していた「ワニ」です
そして、その空白の日本列島の東側を埋めるものが、本書で解説されている「日高見国(ひたかみのくに)」であるのではないか、というのが当ブログの考えになります。
ここで、「国立民族学博物館研究報告 9巻 1号」の論文、『縄文人口シミュレーション』(⇒☆『縄文人口シミュレーション』)を基に書かれた「地質ニュース659号,11 ― 20頁,2009年7月」の論文、『縄文時代の環境,その1-縄文人の生活と気候変動-』(⇒☆『縄文時代の環境,その1-縄文人の生活と気候変動-』)から、少し確認してみましょう。
その論文では、「縄文時代」の始まりを約16,500年前からとしていて、「草創期」→「早期」→「前期」→「中期」→「後期」→「晩期」と区分し、続く弥生時代の始まりを約3,500年前からとしています。
そして、各時代区分ごと、地域ごとの推定人口及び推定人口密度が以下の表に示されています。
「縄文時代・草創期」は、まだ依然として寒冷な気候であり、海水準も現在より数十メートル程度低かったと考えられていて、その後、気候が温暖化へと向かい、「縄文時代・中期」頃には、現在よりも2~3メートル海水準も高くなり、内陸まで海岸線が入り込んだ「海進」の状態となります。
☆Flood Maps
縄文時代では、「中期」が最も人口が多く、関東地方と中部地方で人口密度が高いということが、さきほどの表から読み取れるわけですが、面積が広い東北地方でも、人口そのものは多く、全体の傾向として、「縄文時代を通じて、人口は東日本に多く西日本に少ない」、「基本的に西日本での人口密度は東日本の1/10にも満たず、人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってから」ということも理解できると思います。
そして、この「縄文時代・中期」の頃の朝鮮半島は、ヒトの気配が消えていた時代になります。
詳しくはこちらをご参照❤
↓
☆スッキリ分かる!日本と朝鮮半島の古代の歴史 ~ 科学に弱い共同通信
以上、基本的なところを押さえた上で、明日以降、引き続き見て参りたいと思います。
続きは次回に♥
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