2014-10-06 (Mon)
米比戦争を描いたアメリカ合衆国の絵画『パセオの戦い』
米比戦争(べいひせんそう, 1899年-1913年)は、アメリカ合衆国とフィリピンの間で起きた戦争である。1899年2月4日、サン・フアン・デル・モンテの橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーは、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。
1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。
もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。
1899年2月末までに、アメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。4月にアメリカ軍はクィングァの戦い(英語版)(現ブラカン州プラリデルを制圧。6月のフィリピン政府内の敵対派によるアントニオ・ルナ将軍の暗殺によって、フィリピンの通常軍は弱体化した。
アメリカ軍の勝利はその後も、ザポテ橋の戦い(英語版)(1899年6月13日)で続いた。
『 1898年に始まった米西戦争では、
アメリカはスペイン領のフィリピン独立革命軍を支援すると声明し、
革命軍を利用しながらもともに戦いスペイン軍を破った。
しかし、講和条約の時に至って、
前言を翻し【フィリピンの独立を認めず】、米国領にした挙げ句、
革命軍の撃滅を図ったのである。
これがアメリカの実態だった。
マニラに向けて進撃する日本軍戦車隊(1942年1月)
そこで、革命軍の支持者は【日本の協力を切望】した。
…1943年5月には、時の東條英機首相がマニラに赴き、
フィリピンの独立を約束し、
その年の10月に【日本の軍政が廃し】され、独立が達成された。』
アメリカは嘘を、日本は約束を大切にしたんですね♥
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