2015-06-29 (Mon)

津田 左右吉(つだ そうきち、1873年(明治6年)10月3日 - 1961年(昭和36年)12月4日)は、20世紀前半の日本史学者である。『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる。津田左右吉は神武天皇の次の天皇の綏靖天皇から現代で主張される欠史八代の開化天皇まで、さらには現代では実在性が高いとされる崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇(神功皇后)夫妻の存在さえも否定した。戦後は連合国の指導の下で、津田の主張が採用され応神天皇以前の天皇の名前が歴史教科書から全て削除されたが、現在は欠史十三代は否定され、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇(神功皇后)夫妻の存在が確実視されている。
『古事記』や『日本書紀』、特に神話関係の部分は後世の潤色が著しいとして激しく文献批判を行っているが、その批判の多くは後年に誤りである事が確実となっている。また同様に中国の古典である春秋左氏伝や戦国策についても後世の潤色が著しく後漢以降の成立だと主張していたが両書は遅くとも前漢初期の成立が確実視されており、津田は主観に基づいて後付けの理由を持ち出す傾向が強い。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。
私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶の練磨がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろう…。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないからである」
これはギリシャの哲学者プラトンの著作『パイドロス』の中でソクラテスが述べていることです。
近代の歴史学の歪みはここにはじまるといえるでしょう。まず、起こった出来事を文字で記録する。分析する。解釈する。それが歴史だということになりました。この考え方こそ、肝心要のものを忘れてしまっているのです。
文字による知恵は外見にすぎないということです。人間の真ん中にある知恵は、魂の知恵なのです。あるいは、忘れているというより、文字に溺れてしまって、魂の知恵があることを知らないのかもしれません。

津田左右吉
日本の近代歴史学の代表格である津田左右吉をはじめ歴史学者のほとんどがそうでした。だから、『古事記』や『日本書紀』は天皇の権威を高めるために、権力者の正統性を知らしめるために書かれ、神話もそのためにつくられたというのです。一方、『魏志倭人伝』を文字で書かれているというだけで事実と信じ、卑弥呼はどこにいたか、などと【無意味な詮索に熱中】することになるのです。文字というものによって、でたらめでいい加減なことが書かれることは重々承知しているはずなのに…。

『古事記』は稗田阿礼(ひえだのあれ)が語ることを太安万侶(おおのやすまろ)が書き留めたものです。つまり『古事記』にある神話は、すべて稗田阿礼が魂に記憶していたことなのです。文字に溺れている者は、まずこのことを疑います。一人の人間があれほどの分量のことを隅々まで正確に記憶しているはずがないと。
こちらもご参照♥
↓
竹田 恒泰 現代語古事記: 神々の物語
しかしそれは、まだ文字がなかった時代のことを想像してみようとはしない人間の考えです。稗田阿礼だけではありません。そのはるか昔から、ほとんどすべての人は魂で記憶したことを口づてに伝えてきたのです。魂で記憶したことを口づてに伝える。それが唯一の方法だったのです。稗田阿礼は文字のない時代に、魂で記憶し、記憶したものをいささかも分析したり解釈したりせずに次代に伝える最後の一人だったのかもしれません。だから、『古事記』で語られている神話の言葉は美しいのです。芸術的なのです。

オリュンポス十二神
世界には数多くの神話があります。ギリシャ神話、エジプト神話、旧約聖書で語られるユダヤ神話、【すべてが文字のない世界で口承されてきたもの】です。

ギリシャ神話はこの世を統治するゼウス以来の神々を物語ります。ユダヤ神話は一つの絶対的な神がダビデの世界を、ユダヤ民族をしっかりと守ることを物語ります。いずれも尊い統治者の存在があって、その統治者をあがめ、敬うことで人間の世界が必要不可欠であることを示しています。『古事記』の神話も例外ではありません。尊い天皇がいることは、私たちの祖先にとってもきわめて自然なことだったのです。

世界の神話の多くが非常に断片的であるのに対し、日本の神話は、神の世界と人間の世界の間にある国津神(くにつかみ、日本の国土に土着する神)の物語を大変具体的に記しています。これは日本の神話の特徴で、物語に整合性と連続性が見られるのです。著名な文化人類学者であるレヴィ=ストロースは、このような神話は世界に類例がないと高く評価しています。

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - 2009年10月30日)は、フランスの社会人類学者、民族学者。出身はベルギーの首都ブリュッセル。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。
これに対して『日本書紀』は、文字を知った人間が歴史として編纂したものです。しかし、近代歴史学のように分析したり解釈したりはしません。このことは一つの事柄についていくつもの話があることを併記する態度に表れています。余計な分析や解釈を加えていないのは、当時の人々が、神話から続く歴史が魂の記憶であることを十分に理解していたからです。
『万葉集』を代表する柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)も山上憶良(やまのうえのおくら)も、きわめて個人的な心情や生活事情を詠う歌人でした。しかし同時に、天皇を敬い、寿(ことほ)ぐ歌を素直に詠む歌人でもありました。【天皇とは、民族の魂が記憶したものを目の前に現出する尊い存在である】ということを知っていたというより感じていたからです。私たち民族の魂の記憶である神話を、自分の魂で感じ、受け止めるようにしたいものです。』

ひむか神話街道(公式HPはこちらから♥)

いかがでしょうか?
戦後の占領下に、日本の歴史教育は、歪められました。
津田左右吉も、占領軍に重宝され、利得を得た人物の一人でした。
こちらもご参照♥
↓
GHQ作成の情報操作書「真相箱」の呪縛を解く♥櫻井 よしこ
日本の歴史を知るには、『古事記』や『日本書紀』にある日本神話に立ち返ってみると、とても良く理解ができます。
逆に、その存在すら疑わしい「卑弥呼」や「邪馬台国」に関連する本なんかは、むしろ読まない方が良いと思います。
私たちの国「日本」の成り立ちまでの流れは、神話の中にみることができます。
よく誤解されているのが、日本人の祖先は「大陸から渡ってきた」という点です。
しかし実際には、古代の人口分布は、「東側」、つまり大陸から遠い方に多くの人々が住んでいました。

しかも、その中心地は、「関東」です。

関東には、「常陸(ひたち)」と呼ばる地域があります。常世(とこよ)の国の意味で、不老不死の聖地を指しています。
また、その読み方「ひたち」から、「日立」→「日が立つ」→「日が昇る」と想像できますね。それが、現在の茨城県です。
そして、そこには、「鹿島神宮」と「香取神宮」という2つの「神宮」が古くから存在しています。

鹿島神宮

香取神宮
その近くには、「高天原(たかまがはら)」という地名の場所も存在しています。
呼称に「神宮」が付くのは、最高に格の高い神社のみで、平安時代の『延喜式神名帳』で「神宮」の呼称で記されたのは、【鹿島、香取、伊勢の三社だけ】でした。そして、それは以後、明治までその扱いは変わっていませんでした。
私たち日本人の祖先は、東に住んでいて、その子孫が「天孫降臨」で西(南九州)へと渡ったのです。
大陸から渡来したのではありません♥
九州北部や山陰地方の日本海側にも、住民が居ました。そこは、大陸とも活発に交流があったと考えられています。
その中心に位置したのが、出雲大社であり、宗像大社でした。

出雲大社

宗像大社
こちらもご参照♥
↓
宗像三女神
そこでは、多くの渡来人も住んでいましたし、交わりもありました。
こちらもご参照♥
↓
篠田 謙一 日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造
ここで、『古事記』『日本書紀』で大きなウェイトを占める【出雲神話】の登場です。「国譲りの神話」です。
大陸から入ってきた新しい弥生文化が西日本に発展します。
それは、従来の縄文文化が高度に発達していた東国とのあいだにせめぎ合いを引き起こします。
大和系と出雲系との対立、東国の縄文系と西国の弥生系との対立です。
高天原の天照大神は、葦原中津国を治めていた大国主命に迫って、【話し合いで】国の支配権を譲らせました。
まさに、この時、東と西、縄文と弥生が融合するんです♥
東の民の下に西の民が融合、縄文文化の民の下に弥生文化の民が、天照大神を中心として「まとまった」歴史です。
この時、中心的な役割を果たした二柱の神が、鹿島神宮と香取神宮の祭神なのです♥
ちなみに、東の神宮が「鹿島神宮」「香取神宮」ならば、西の神宮が「伊勢神宮」だと容易に想像ができると思いますが、それらには共通点があるんです。
平地から、「富士山」を拝むことができる東の端と西の端に、それらの神宮が位置しているんです。
中心が、富士山なんです♥
私たち日本人の「富士山」。
そして、私たち日本人は、「山の人」→「大和(やまと)」なんです♥
日本万歳♥
こちらもご参照♥
↓
田中英道 本当はすごい! 東京の歴史
続きは次回に♥
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