FC2ブログ

    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  ユダヤ >  小作貴族、賦役貴族、サンダル履き貴族 ~ 「シュラフタの共和国」 の現実

    小作貴族、賦役貴族、サンダル履き貴族 ~ 「シュラフタの共和国」 の現実

    A storm is coming 432

    本日のキーワード : ガリツィア、ウクライナ、ポーランド、ユダヤ人、シュラフタ、マグナート、ユダヤ教、キリスト教、シュトラウス派、ジャクソン = バニク修正条項



    Russia declares war on the Straussians
    ロシア、シュトラウス派に宣戦布告 ②

    Russia is not waging war on the Ukrainian people, but on a small group of people within the US power that has transformed Ukraine without its knowledge, the Straussians. It formed half a century ago and has already committed an incredible amount of crimes in Latin America and the Middle East without the knowledge of the United States. This is their story.
    ロシアが戦争を仕掛けているのはウクライナ国民ではなく、ウクライナを知らぬ間に変質させてきたアメリカ権力内の小集団シュトラウス派である。半世紀前に結成され、すでにアメリカ合衆国が知らないうちにラテンアメリカや中東で信じられないほどの数の犯罪を犯している。これは彼らの物語である。

    レオ・シュトラウス
    レオ・シュトラウス

    A BRIEF HISTORY OF THE STRAUSSUIANS
    シュトラウス派の略史

    Let us stop for a moment to consider this group, the Straussians, about whom Westerners know little. They are individuals, all Jewish, but by no means representative of either American Jews or of Jewish communities worldwide. They were formed by the German philosopher Leo Strauss, who took refuge in the United States during the rise of Nazism and became a professor of philosophy at the University of Chicago. According to many accounts, he had formed a small group of faithful students to whom he gave oral instruction. There is no written record of this. He explained to them that the only way for the Jews not to fall victim to a new genocide was to form their own dictatorship. He called them Hoplites (the soldiers of Sparta) and sent them to disrupt the courts of his rivals. Finally, he taught them discretion and praised the “noble lie”. Although he died in 1973, his student fraternity continued.
    少し立ち止まって、西洋人がほとんど知らないこのグループ、シュトラウス派について考えてみよう。彼らは全員がユダヤ人であるが、決してアメリカのユダヤ人や世界のユダヤ人社会を代表するものではない。彼らは、ナチズムの台頭の中でアメリカに亡命し、シカゴ大学の哲学教授になったドイツの哲学者レオ・シュトラウスによって形成された。多くの報告によると、彼は忠実な弟子たちに少人数のグループを形成させ口頭による指導を行ったとされている。文書による記録はない。彼は弟子たちにユダヤ人が新たな大虐殺の犠牲にならないためには自分たちで独裁政権を樹立するしかないと説いた。彼は、弟子たちをホプリテス (スパルタの兵士) と呼び、弟子たちを敵対する者たちの内部を乱すために送り込んだ。最後に、彼は弟子たちに物事の分別を教え、「ノーブル・ライ (高貴な嘘) 」 を褒め称えた。彼は1973年に亡くなったが、彼の弟子たちの交友関係は続いていた。

    The Straussians began forming a political group half a century ago, in 1972. They were all members of Democratic Senator Henry “Scoop” Jackson’s staff, including Elliott Abrams, Richard Perle and Paul Wolfowitz. They worked closely with a group of Trotskyite journalists, also Jewish, who had met at the City College of New York and edited the magazine Commentary. Both groups were closely linked to the CIA, but also, thanks to Perle’s father-in-law Albert Wohlstetter (the US military strategist), to the Rand Corporation (the think tank of the military-industrial complex). Many of these young people intermarried until they formed a compact group of about 100 people.
    シュトラウス派は、今から半世紀前の 1972 年に政治グループを形成し始めた。彼らは全員民主党上院議員ヘンリー・「スクープ」・ジャクソンのスタッフの一員で、エリオット・アブラムズリチャード・パールポール・ウォルフォウィッツも含まれていた。彼らは、ニューヨーク市立大学で出会い、雑誌 『コメンタリー』 を編集していた同じくユダヤ系のトロツキスト・ジャーナリストのグループと緊密に連携していた。どちらのグループも CIA と密接な関係にあったが、パールの義父アルバート・ウォルステッター (アメリカの軍事戦略家) のおかげでランド研究所 (軍産複合体のシンクタンク) とも繋がりがあった。これらの若者の多くは、100人ほどのコンパクトなグループを形成するまで、姻戚関係を結んでいた。

    エリオット・アブラムズ
    エリオット・アブラムズ

    リチャード・パール
    リチャード・パール

    ポール・ウォルフォウィッツ
    ポール・ウォルフォウィッツ

    ヘンリー・M・ジャクソン
    ヘンリー・M・ジャクソン

    Together they drafted and passed the “Jackson-Vanik Amendment” in the midst of the Watergate crisis (1974), which forced the Soviet Union to allow the emigration of its Jewish population to Israel under pain of economic sanctions. This was their founding act.
    彼らは共に、ウォーターゲート事件 ( 1974 年) のさなかに 「ジャクソン = バニク修正条項」起草し、成立させた。これによりソ連は経済制裁を課された上でユダヤ系住民のイスラエルへの移住を認めざるを得なくなった。これは、彼らの創始的な行為であった。

    In 1976, Paul Wolfowitz was one of the architects of the “Team B” charged by President Gerald Ford with assessing the Soviet threat. He issued a delirious report accusing the Soviet Union of preparing to take over “global hegemony”. The Cold War changed its nature: it was no longer a question of isolating (containment) the USSR, it had to be stopped in order to save the “free world”.
    1976 年、ポール・ウォルフォウィッツは、ジェラルド・フォード大統領によってソ連の脅威の評価を任された 「チームB」 の立役者の一人であった。彼は、ソ連が 「世界の覇権」 を握る準備をしていると非難する譫妄 (せんもう) 的な報告書を発表した。冷戦はその性格を変えた。もはや、ソ連を孤立させる (封じ込める) 問題ではなく、「自由世界」 を守るためにソ連を止めなければならなかったのだ。

    Is Zelensky a Cousin of George Soros?

    Hitler.jpg 習近平思想の着想者であり、中国的特徴を持つ社会主義の提唱者である習近平総書記

    Russia declares war on the Straussians



    本日の書物 : 『ガリツィアのユダヤ人 (新装版) : ポーランド人とウクライナ人のはざまで』 野村 真理 人文書院



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 ポーランド・リトアニア国】はしばしば【 「シュラフタの共和国」 】と呼ばれる。ポーランド・リトアニア国の人口は一六世紀末で約七五〇万人 (ポーランド四〇〇万人、リトアニア三五〇万人) であったが、【人口の一割弱を占める貴族身分が選挙によって国王を選出し、身分制議会を通じて国政の主導権を握っていたから】である。そのさい、地方レベルの議会はシュラフタの直接民主制、中央レベルでは間接民主制がとられたが、制度上の平等とは裏腹に、シュラフタ内部で経済的階層分化が進行】するにしたがい、落ちぶれたシュラフタの境遇は惨めなものとなる。領地を失ったシュラフタのなかには、マグナートの使用人となって貴族ではない使用人と同様の扱いをうけ、あるいは農民と同じく賦役に従事する者まで出た。彼らは小作貴族賦役貴族サンダル履き貴族などと馬鹿にされ、彼らがかろうじて貴族の体面を保つことを許されるのは、身分制議会の開催中、自分が配下に下ったマグナートのために都合のよい一票を投じるときのみであった。

     【他方マグナートは、破産したシュラフタの土地を吸収して領地経営を大規模化し、穀物価格の低下による収入の減少を総生産量の増加によって補おうとした】しかし賦役という強制労働に従事する農民に生産意欲があるはずもない賦役は農民自身の牛馬や農具を用いて領主の直営地で行われる農耕賦役のほかにも同じく農民自身の牛馬によって行われる生産物や家畜などの運搬賦役、狩猟賦役、漁労賦役、紡績賦役、領主の建造物の修理や建築、領主の館内での家内労働など多岐にわたる。賦役の日数は、農民保有地の面積や、播種や刈り入れなどの繁忙期で異なるが、一ワン保有農の場合、一七世紀で週四日から五日であったという。一日当たりの労働時間は、冬季で八時間、夏季には一二時間という苛酷なもので賦役に従わない農民には、鎖で領主の牢につなぎ、棍棒や鞭で二〇回から三〇回も打つという罰が加えられた棍棒には、鉛を吹きつけた樫の木が使用された。さらに特定の市場作物の連作による地味の枯渇、相次ぐ戦乱による農地の荒廃で、【一七世紀後半のポーランドは、穀物の収穫率そのものも、もはや繁栄期の水準を維持することができず、領地経営の生産性はますます低下した】農民たちもまた自身の保有地の荒廃と生産コストの削減をはかる領主によって強化された賦役のため保有地で換金作物を栽培する時間的、労力的余裕を失い時機を逸した播種や刈り入れで乏しい収穫量をますます減らしたしかもその【農民をさらなる破滅へと追い込んだのが、ほかならぬ、みずからの経営を農民の賦役に負う領主自身が農民に売りつける毒薬、すなわちであった】。』

    日の丸

    ユダヤの民によって語られ読まれた物語 ~ トビト記


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、ユダヤ人オリガルヒの手によって戦争を引き起こし国内が荒廃する一方のウクライナで、その南西部を中心 (ポーランド南部も含む) とした 「ガリツィア」 という地域におけるポーランド人・ユダヤ人・ウクライナ人の非常に複雑な関係を、歴史的事実に基づいて解説がなされている良書で、本書を御覧になれば、「なぜ、ユダヤ人が嫌われるのか」 が理解でき、現在のウクライナにおける戦争をもたらしたユダヤ人オリガルヒらの戦争目的も正しく推測することができるようになる当ブログお薦めの書物となります。少なくとも、「ユダヤ人は一方的な被害者である」 とか、「ウクライナがかわいそう」 という的外れな考え方が、本書一冊だけで消し去れること間違いなしで、ユダヤ・キリスト教的善悪二元論でしか物事を思考できなくなっている多くの日本国民広く読まれるべきだと考えます。

    読書 女性 4-41

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    taiperocawar.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 1,030,082(1,029,925)÷91,371,497(91,309,159)=0.0112・・・(0.0112) 「1.12%(1.12%)」
    taiperocawar1.jpg

    イタリア : 172,207(172,086)÷21,059,545(21,040,025)=0.0081・・・(0.0081) 「0.81%(0.81%)」
    taiperocawar4.jpg

    日本 : 32,703(32,527)÷12,918,780(12,581,423)=0.0025・・・(0.0025) 「0.25%(0.25%)」
    taiperocawar3.jpg









    さて、これまでの流れを、簡単に確認しておきますと、まず、出発点として、カール・マルクス (1818 - 1883) が生まれる約 200 年ほど前の時代 (日本で言えば、戦国時代から江戸時代初期にかけての時代) に、ドイツの神秘主義者であるヤーコプ・ベーメ (ヤコブ・ベーメ、1575 - 1624) という名の人物がいて、その後の 「ドイツ思想」 に決定的な影響を与えた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 なるものが世に生まれることになります。(詳しくはこちらから💓

    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)

    そのベーメの言っていたことというのは、次のようなものでした。

    世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである詳しくはこちらから💓

    そして、その影響を受けたのがプロイセン (ドイツ) の哲学者イマヌエル・カント (1724 - 1804) で、彼が言っていたことは、次のようなものでした。

    イマヌエル・カント
    イマヌエル・カント

    たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない詳しくはこちらから💓

    また、ドイツ観念論を代表する思想家ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770 - 1831) も影響を受けていて、そんな彼が言っていたことは、次のようなものでした。

    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

    世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる詳しくはこちらから💓

    で、この流れを受け継いでいるのがカール・マルクスであり、ウラジミール・レーニン (1870 - 1924) で、彼らが言っているのは次のようなことです。

    カール・マルクス
    カール・マルクス

    私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである

    ウラジーミル・イリイチ・レーニン 1
    ウラジーミル・イリイチ・レーニン

    われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう詳しくはこちらから💓

    このように、ドイツで生まれた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想が生み出されることとなります。ここで重要な点は、そもそも全知全能なる神が創り賜うた世界にあって、なぜ悪が存在するのか、という疑問から生じた 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 が、ユダヤ・キリスト教的 “善悪二元論” をより一層強化し、世界を完全に良くするために 「悪なるもの」 を消し去らねばならない、といった浅はかな思考へと陥る人々を生じさせたことです。多くの一般的な人々も陥りやすい誤った思考ですが、特に 「極左おパヨク」 と呼ばれる連中はその影響をもろに受けてしまうほどの 「おバカ」 で、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することで、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の対象物として “罪” を創り出し、その罪に対する償 (つぐな) い・贖 (あがな) いを果たねばならない、と妄信させることによって、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 の下で人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し ( ← これが、ポリコレw)人々の “自由” を奪う極めて 「権威主義的な統制社会の再構築」 を目指す連中の思う壺となっていて、それはまさに現在私たちが普通に目にすることができる状況にあります。つまり、もはや隠そうともしていないという状況にあるということです。

    Hunter Biden Soros Linked to Biolabs in Ukraine





    その 「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 については、ドイツ出身の社会学者・歴史学者かつマルクス主義者であり、エリート理論の信奉者で、さらにはファシズム (全体主義者) でもあったロベルト・ミヒェルス (ロベルト・ミヘルス) が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy) を確認をしてきましたが、そこにもやはり 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 の影響を見ることができます。(詳しくはこちらから💓

    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

    また、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー) 」 と同根の言葉である 「オリガルヒ (oligarch) 」 につきましても、ロシア詳しくはこちらから💓) やウクライナ詳しくはこちらから💓) の事例から、そこには少なからぬ 「ユダヤ人 ( = ユダヤ教徒)」こちらもご参照💓) が存在していることも判明しました。

    A storm is coming 245





    さらには、ウクライナとユダヤ人 ( = ユダヤ教徒) と特異な関係を、ウマン (ウーマニ) 巡礼の形成の歴史を通じて確認しました。 (詳しくはこちらから💓

    ウーマニ

    そこで、現在 “ユダヤ人” (民族としては定義され得ない、単なる宗教信者のグループ) という存在に着目し、より一層理解を進めるために様々な論文を見ているところとなります。

    fhdeusid.jpg
    『初期ユダヤ教と原始キリスト教団における解釈と受容 : 「霊」と「天使」の概念の変遷を辿る』大澤 香

    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 2 章 初期ユダヤ教
     「初期ユダヤ教」 という時代区分は、狭くは前 2 ~ 後 2 世紀広くは前 6 ~ 後 1、2 世紀など研究者によって様々に定義されるが (69)、ここでは捕囚後の第二神殿時代に再建した神殿とモーセ五書 (トーラー) を柱とする改革が行われトーラーの絶対的な重要性のもとに特徴的でしかし多様な聖書解釈がなされていった時期を指してこの用語を用いたい (70)。TovTov (71) は 「逆説的だがモーセ五書への関心の高まりが紀元前最後の数世紀間に多種多様な本文形式の創出に寄与した」 と指摘する (72)。本章では聖典としての聖書テキストの解釈が著しく発達した初期ユダヤ教の時代状況の中での具体的な読者・解釈者の視点に焦点を当てつつテキストと彼らとの間に成立した特徴的で多様な解釈を分析する。解釈者の視点を想定することによって、特にこの時期に発達した 「霊 (聖霊) 」 「天使」 の概念がいかに重要かつ特徴的な形象であったのかを示すことができるだろう。

    2 - 4 初期ユダヤ教における文学技法

     ここでは初期ユダヤ教の時代特徴的な文学技法を確認することで、この時代の聖書解釈の特徴を検討する。


    2 - 4 - 3 実例 ‐ トビト記における読みの層 ‐
     ここでは実際に、クムランからもその写本断片が見つかっているこの時代の外典文学の一つであるトビト記の分析を通してトビト記に想定される内包された読者がトビト記の物語を通してその向こうにどのような allusion を読み取っていたと想定することができるのか考察をする。ここでの方法論は、従来のような歴史批評か文芸批評かという二分法的 ( dichotomic ) な議論を避けるため、歴史批評と文芸批評とをそれぞれが対象とする事項に正しく適用する 「折衷主義 ( eclecticism ) 」 を取ることを試みる。具体的には、テキストの書かれた時代背景および内包された読者を想定するために歴史的研究を適用し、その次の段階としてテキストの内的世界を分析するために 「物語批評」 を用いる。「読者」 に焦点を当てた 「読みの層」 を想定することによって初期ユダヤ教時代の聖書解釈をより立体的に捉えることができるだろうトビ ト記の物語は 「天使」 が物語の重要な登場人物として生き生きと描かれた第二神殿時代の文学である


    (1) トビト記への関心と近代以降の研究成果

     ユダヤ人によって書かれたこの書物は、現在、キリスト教側では第二正典 (ローマ・カトリック教会) (193)、アポクリファ (旧約聖書外典)、ユダヤ教側ではセファリーム・ヒッツォニーム (194) と呼ばれる文書群に属する。プロテスタント教会が外典を正典から除外して以降も、それらの文書はしばしば旧約聖書と新約聖書の間に印刷されていたしルターはトビト書について大変好意的に語っている (195)。しかしプロテスタントの研究者は徐々にトビト記への関心を無くしその研究はカトリックの研究者に任せられその天使論や悪魔論が注目されたりしばしば寓意的解釈がなされたりした (196)。
     近代以降のトビト記研究には 3 度の波 (197) があったことが窺える 。第一の波は、1844 年の Tischendorff によるシナイ写本の発見により、トビト記の歴史的な成立への関心が高まり、その後約 1 世紀の間、世俗的な民話要素の影響についての研究が続いた (198)。第ニの波は、クムラン洞穴からのトビト記の 4 つのアラム語テキスト断片と 1 つのヘブラ イ語テキスト断片の発見を受けて、1950 年代後半に再び関心が高まったことが挙げられる。そ して第三の波は 1980 年代以降の Deselaers らによる有益な通時的研究である。Deselaers の資料分析は、紀元前 3 世紀半ばあるいは後半のオリジナルの物語に、3 回の拡張・編集作業が加えられた 4 段階のテキストを想定した (199)。他方 Rabenau の研究 によって、オリジナルの言語はギリシャ語ではなくセム語 (恐らくアラム語) であることや、シナイ写本のオリジナルテキストへの近さ、オリジナルへの 3 回の拡張は紀元前 2 世紀の間に行われたことが指摘された (200)。1980 年代以降、他にも多数の研究者によって、トビト記の形態、書かれた目的、時代背景などについての多彩な研究がなされた。これらの研究の結果トビト記の書かれた背景については諸説があるが「トビト記は、第二神殿時代の紀元前 3 〜 2 世紀に (201)、ディアスポラの地の何処かで (202)、ユダヤ人によって、元々はアラム語かヘブライ語で書かれた物語であった」 というのが現在の研究者の多数意見である
     トビト記の著者がパレスティナのユダヤ人であったのかディアスポラのユダヤ人であったのかについては意見が分かれているが物語がディアスポラの起源とされるアッシリアでの捕囚を舞台としていることからこの書物がディアスポラへの多大な関心のもとに書かれていることは否定しようがないそしてこの書はその後の歴史において奇しくもヘレニズム時代におけるディアスポラ最大のユダヤ人共同体を形成したアレクサンドリアで成立した七十人訳によって保存・伝承されて今日に至っているのである (203)。
     トビト記は「イスラエルの民が最初に故郷から引き離されたアッシリア捕囚を舞台設定としつつ、後の時代状況の中で、ユダヤの民によって語られ読まれた物語」 である


    (193) プロテスタント教会が旧約正典をヘブライ語聖書内の文書に限定することによってトビト記の正典性を否定したのに対し、ローマ・カトリック教会はトリエント公会議 ( 1546 年) において、他の中間時代の文書と共に 「第二正典」 としてトビト記の正典性を再確認した。

    (194) この用語には 単に正典外文書との意味だけではなく、異端文書との含意もある。そこには、七十人訳が初期キリスト教によって重用されたことに対する、ラビ・ユダヤ教の護教的な動機が背後にあることが考えられ (長窪、前掲書、280 頁)、初期ユダヤ教から原始キリスト教団とラビ・ユダヤ教に至る決して一枚岩ではない影響関係が窺われる。クムランからトビト記のアラム語とヘブライ語の断片 ( 4Q196 - 200 ) が見つかったことからは、当時ユダヤ人の間でこの文書が相当に知られていたことがわかる。

    (195) Martin Luther, D. Martin Luthers Werke Die Deutsche Bibel 12.Bd (Weimarer Weimar: H.Böhlau , 1972, p.

    (196) Carey A. Moore, Tob it : a new translation with introduction and commentary commentary, The Anchor Bible Bible, New York: Doubleday, 19961996, p. 15 .

    (197) Moore, op.cit., pp. 15 - 7.

    (198) トビト記に影響を与えているとされる民話としては 「感謝する死者の物語」 「モンスターの花嫁」 「アヒカル物語」 「コンスの書」 などが挙げられる。

    (199) Paul Deselaers, Das Buch Tobit: Studien zu seine r Entstehung, Komposition und Theologie, OBO43 OBO43, Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht Ruprecht, 1982.

    (200) Merten Rabenau, Studien zum Buch Tobit. BZAW220BZAW220, Berlin : W. de Gruyter Gruyter, 1994 . 今日では、Rabenau の主張の方が受け入れられている。本稿では現在より広く受け入れられている見地に従い、 GⅡに属するシナイ写本を基本的な底本としつつ、必要に応じて他のテクス トも参照する。

    (201) マカバイ戦争の影響が認められないこと、およびトビ 14 : 5 の記述による。

    (202) パレスティナ説の主張もある。

    (203) キリスト教による七十人訳の重用とそれに対するラビ・ユダヤ教の反応については注 194 を参照。 』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。













    続きは次回に♥




    ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
    ↓↓↓↓↓↓↓

    にほんブログ村 本ブログへ
    にほんブログ村


    人気ブログランキング



    PVアクセスランキング にほんブログ村

    関連記事

    コメント






    管理者にだけ表示を許可する