2022-05-31 (Tue)

本日のキーワード : 隷従への道、ハイエク、自由主義、集産主義、倫理観、国家理性
The Jewish Hand in World War Three
第三次世界大戦におけるユダヤ人の役割 ②
Free Speech versus Catastrophe
言論の自由vs破滅

Context and Run-Up
背景と経緯 (一)
To fully understand the Jewish hand in the Russia-Ukraine conflict, we need to review some relevant history. Over the centuries, there have been constant battles over the lands of present-day Ukraine, with Poles, Austro-Hungarians, and Russians alternately dominating. Russia took control of most of Ukraine in the late 1700s and held it more or less continuously until the break-up of the Soviet Union in 1991; this is why Putin claims that the country is “part of Russia.”
ロシアとウクライナの紛争にユダヤ人が関与していることを理解するためには、まず歴史を振り返ってみる必要がある。現在のウクライナの土地は、ポーランド人、オーストリア・ハンガリー人、ロシア人が交互に支配し、何世紀にもわたって争いが絶えなかった。1700 年代後半にロシアがウクライナの大部分を支配し、1991 年のソビエト連邦崩壊までほぼ支配を続けた。そのため、プーチンはこの国を 「ロシアの一部」 と主張している。

1866 年のロシア帝国の最大版図
For their part, Jews have experienced a particularly tumultuous relationship with Russia, one that ranged from disgust and detestation to a burning hatred. As it happened, Jews migrated to Russia in the 19th century, eventually numbering around 5 million. They were a disruptive and agitating force within the nation and thus earned the dislike of Czars Nicholas I (reign 1825 to 1855), Alexander II (1855 to 1881, when he was assassinated by a partly-Jewish anarchist gang), and especially Nicholas II (1894 to 1917)—the latter of whom was famously murdered, along with his family, by a gang of Jewish Bolshevists in 1918. Already in 1871, Russian activist Mikhail Bakunin could refer to the Russian Jews as “a single exploiting sect, a sort of bloodsucker people, a collective parasite”. The assassination of Alexander initiated a series of pogroms that lasted decades, and which set the stage for a lingering Jewish hatred of all things Russian.
特にユダヤ人とロシアとの関係は、嫌悪感から激しい憎悪に至るまで、波乱に満ちたものであった。折悪しく、19 世紀、ロシアに移住したユダヤ人は約 500 万人にのぼった。そのため、ニコライ 1 世 (在位 1825 〜 1855 )、アレクサンドル 2 世 ( 1855 〜 1881、ユダヤ系無政府主義者に暗殺される)、そして特にニコライ 2 世 ( 1894 〜 1917 ) からは嫌われることになった。- ニコライ 2 世は 1918 年にユダヤ人ボルシェビスト (マルクス主義者) の一味に家族もろとも殺害されたことは有名である。1871 年にはすでに、ロシアの活動家ミハイル・バクーニンが、ロシアのユダヤ人を 「単なる搾取集団、ある種の吸血民族、集団寄生虫」 と表現している。アレクサンドロスの暗殺は、数十年に及ぶ一連のポグロムを引き起こし、ユダヤ人のロシアに対する憎悪を長引かせることになった。

ミハイル・バクーニン
For present purposes, though, we can jump to the 2004 Ukrainian presidential election (I note that Ukraine also has a prime minister, but unlike most European countries, he typically has limited powers). In 2004, it came down to “the two Viktors”: the pro-Western V. Yushchenko and the pro-Russian V. Yanukovych. The first round was nearly tied, and thus they went to a second round in which Yanukovych prevailed by around three percentage points. But amid claims of vote-rigging, Western Ukrainians initiated an “Orange Revolution”—backed by the Ukrainian Supreme Court—that annulled those results and mandated a repeat runoff election. The second time, the tables were turned, and the pro-West Yushchenko won by eight points. The West was elated, and Putin naturally mad as hell.
しかし、ここでは、2004 年のウクライナ大統領選挙に話を移そう (ウクライナには首相もいるが、多くのヨーロッパ諸国と異なり、首相は通常、限られた権限しか持っていない)。2004 年の大統領選挙では、「 2 人のヴィクトル」 に絞られた。親欧米のV・ユシチェンコと、親ロシアのV・ヤヌコビッチである。第 1 ラウンドはほぼ同点だったため、第 2 ラウンドに突入し、約 3 ポイントの差でヤヌコビッチ氏が勝利した。しかし、不正投票があったとして、西部ウクライナ人が 「オレンジ革命」 を起こし、ウクライナ最高裁の支援を受け、この結果を無効にして再選挙を行うことになった。2 回目の選挙では、親欧米派のユシチェンコが 8 ポイント差で勝利した。欧米は歓喜し、プーチンは当然、怒った。

ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ

ヴィクトル・ユシチェンコ
The following years witnessed financial turmoil and, unsurprisingly, constant harassment from Russia. By 2010, Ukrainians were ready for a change, and this time Yanukovych won handily, over a Jewish female competitor, Yulia Timoshenko—notably, she had “co-led the Orange Revolution.” Russia, for once, was satisfied with the result.
その後数年間は財政難が続き、当然のことながら、ロシアからの嫌がらせも絶えなかった。2010 年になると、ウクライナ人は変化を求めるようになり、今度はヤヌコヴィッチがユダヤ系女性の競争相手であるユリア・ティモシェンコを抑えて圧勝した。- 彼女は 「オレンジ革命」 の共同指導者であった。ロシアは一応、この結果に満足した。

ユーリヤ・ティモシェンコ
But of course, in the West, Europe and the US were mightily displeased, and they soon began efforts to reverse things yet again. Among other strategies, they apparently decided to deploy the latest in high tech and social media. Thus in June 2011, two of Google’s top executives—Eric Schmidt and a 30-year-old Jewish upstart named Jared Cohen—went to visit Julian Assange in the UK, then living under house arrest. It is well-known, incidentally, that Google is a Jewish enterprise, with Jewish founders Sergei Brin and Larry Page running the ship.
しかし、欧米では、もちろん、大層不愉快に思い、すぐに、再び、事態を逆転させるための努力を始めた。そして、最新のハイテクとソーシャルメディアを駆使した作戦に打って出たのである。2011 年 6 月、Google のトップであるエリック・シュミットと 30 歳のユダヤ系新進気鋭のジャレッド・コーエンの 2 人が、当時軟禁状態にあったジュリアン・アサンジを英国に訪ねていったのである。ちなみに、グーグルはユダヤ人創業者のセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジが経営するユダヤ系企業であることはよく知られている。

エリック・シュミット

ジャレッド・コーエン

ジュリアン・アサンジ
The nominal purpose of the trip was to conduct research for a book that Schmidt and Cohen were working on, regarding the intersection of political action and technology—in plain words, how to foment revolutions and steer events in a desired direction. As Assange relates in his 2014 book When Google Met Wikileaks, he was initially unaware of the deeper intentions and motives of his interviewers. Only later did he come to learn that Schmidt had close ties to the Obama administration, and that Cohen was actively working on political upheaval. As Assange wrote, “Jared Cohen could be wryly named Google’s ‘director of regime change’.” Their immediate targets were Yanukovych in Ukraine and Assad in Syria.
この旅行の目的は、シュミットとコーエンが執筆中の 「政治的行動とテクノロジーの交わり」 という本のための調査であった。- つまり、いかにして革命を起こし、望ましい方向へ出来事を導くか、ということだ。アサンジは、2014 年に出版した 『グーグルとウィキリークスが出会ったとき』 で語っているように、当初は取材相手の深い意図や動機に気づかなかったという。シュミットがオバマ政権と密接な関係にあり、コーエンが積極的に政変に取り組んでいたことを知ったのは、後になってからのことだ。アサンジが書いたように、「ジャレッド・コーエンは、皮肉にもグーグルの “政権交代担当” と名付けられるかもしれない。」 彼らの当面のターゲットは、ウクライナのヤヌコビッチとシリアのアサドだった。




☆『The Jewish Hand in World War Three』 The Unz Review • An Alternative Media Selection
☆投資家サーベイ結果発表 「岸田政権、支持しますか?」
本日の書物 : 『隷従への道』 フリードリヒ・ハイエク 日経BP
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【集産主義体制に必ず備わっている重要な特徴が二つある】。【一つは、ある集団の目的が広く受け入れられる必要があること】。【もう一つは、目的達成のためなら、その集団に最大限の権力を与えたいという強い願望が支配的になること】である。


ここから生じる【固有の倫理観】は、自由主義の倫理観といっちするところもあれば、ひどくちがうところもあるのだが、【ある一つの点で、果たして倫理観の名に値するのかどうか疑わしくなるほど決定的に異なっている】。それは、【個人が自分の良心に従って行動する自由がない】ということだ。さらに言えば、【彼らにとっての原則はあっても、どんな場合にも頼るべき、あるいは頼ってよい規範が一切存在しない】。このため、集産主義の倫理観は、私たちが知っているものとは甚だしくちがっている。彼らにとっての原則はあるにしても、私たちからすればあるようには思えない。
【自由主義】と【集産主義】における【倫理規範のちがい】は、【法の支配に関して述べたこととよく似ている】。【個人主義に基づく倫理規範】は、成分法と同じく、多くの点で厳密さを欠くとしても、【全てに適用できる絶対的なもの】である。すなわち、個々の行為の目的とは無関係に、ある種の一般的な行為を規定または禁止する。だます、盗む、暴力をふるう、信頼を裏切る、といったことは、実害のあるなしにかかわらず悪である。誰も痛手を被らなくとも、あるいは崇高な目的のために行われたとしても、悪いことには変わりはない。やむを得ず必要悪を犯す場合でも、やはり悪は悪だ。【目的は手段を正当化するという主張は、個人主義の倫理観からすれば倫理の否定にほかならない】。【ところが集産主義の倫理観では、これが究極のルールとなる】。筋金入りの集産主義者にとって、【彼らの言う 「全体の幸福」 に役立つことであれば、してはならないことは文字通り何もない】。「全体の幸福」 こそが彼らにとって唯一の価値基準である。【集産主義の倫理観】を単純明快に表す概念に【 「国家理性 (レゾン・デタ) 」 】というものがある。これは【国家の存在を至上のものとみなす原理】で、【国家が恣意的に決める条件以外には、行動を縛る原則はない】。個々の行為は、国家の目的に適いさえすればよいのである。【集産主義国家】においては、【国家理性によって国同士の関係で容認されることが、そのまま個人の関係にも適用される】。そこでは、【社会が定めた目的や指導部が命じる目的に必要とされることなら、市民は何をしてもよいし、個人の良心がそれを妨げてはならない】。』

1902 年のレンベルクの惨劇 ~ 自国民に対し武器を使用 (して殺傷) する現ウクライナ政府との共通点
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、資本主義を研究する学問である経済学において、偉大なる経済学者の一人であるフリードリヒ・ハイエクが、ナチズム (あるいはファシズム) と社会主義・共産主義の類似性を明らかにしつつ、 それらの集産主義体制が必然的に全体主義へと至ってしまう危険性について警鐘を鳴らした、非常に有名な書物で、本書を通じて、『 「法の支配」 に基づく自由民主主義』 がいかに大切なものであるのかを改めて理解することができ、財務官僚如きにコントロールされ、「法の支配」 を無視した勝手な決定を次々と行っている (例 : ウクライナへの軍事物資支援 = 戦争行為)、トコトン無能な “岸田政権” も、実は、ハイエクが警鐘を鳴らしたものに、まさしく繋がっているという現状が良く分かるようになる、当ブログお薦めの良書になります。無能で危険極まりない岸田一派は、政権のみならず、政界そのものから抹消することが、私たち日本国民の喫緊の課題となりますので、是非広く日本国民の皆様にお読みいただきたいと思います。

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 1,002,218(1,002,166)÷83,324,435(83,281,183)=0.0120・・・(0.0120) 「1.20%(1.20%)」

イタリア : 166,032(165,952)÷17,257,573(17,247,552)=0.0096・・・(0.0096) 「0.96%(0.96%)」

日本 : 30,336(30,305)÷8,632,778(8,614,387)=0.0035・・・(0.0035) 「0.35%(0.35%)」

さて、これまでの流れを、簡単に確認しておきますと、まず、出発点として、カール・マルクス (1818 - 1883) が生まれる約 200 年ほど前の時代 (日本で言えば、戦国時代から江戸時代初期にかけての時代) に、ドイツの神秘主義者であるヤーコプ・ベーメ (ヤコブ・ベーメ、1575 - 1624) という名の人物がいて、その後の 「ドイツ思想」 に決定的な影響を与えた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」・「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 なるものが世に生まれることになります。(詳しくはこちらから💓)

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
そのベーメの言っていたことというのは、次のようなものでした。
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである (詳しくはこちらから💓)
そして、その影響を受けたのがプロイセン (ドイツ) の哲学者イマヌエル・カント (1724 - 1804) で、彼が言っていたことは、次のようなものでした。

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない (詳しくはこちらから💓)
また、ドイツ観念論を代表する思想家ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770 - 1831) も影響を受けていて、そんな彼が言っていたことは、次のようなものでした。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる (詳しくはこちらから💓)
で、この流れを受け継いでいるのがカール・マルクスであり、ウラジミール・レーニン (1870 - 1924) で、彼らが言っているのは次のようなことです。

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである

ウラジーミル・イリイチ・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう (詳しくはこちらから💓)
このように、ドイツで生まれた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想が生み出されることとなります。ここで重要な点は、そもそも全知全能なる神が創り賜うた世界にあって、なぜ悪が存在するのか、という疑問から生じた 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 が、ユダヤ・キリスト教的 “善悪二元論” をより一層強化し、世界を完全に良くするために 「悪なるもの」 を消し去らねばならない、といった浅はかな思考へと陥る人々を生じさせたことです。多くの一般的な人々も陥りやすい誤った思考ですが、特に 「極左おパヨク」 と呼ばれる連中は、その影響をもろに受けてしまうほどの 「おバカ」 で、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することで、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の対象物として “罪” を創り出し、その罪に対する償 (つぐな) い・贖 (あがな) いを果たねばならない、と妄信させることによって、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 の下で、人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し ( ← これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて 「権威主義的な統制社会の再構築」 を目指す連中の思う壺となっていて、それはまさに現在、私たちが普通に目にすることができる状況にあります。つまり、もはや隠そうともしていない、という状況にあるということです。

その 「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 については、ドイツ出身の社会学者・歴史学者かつマルクス主義者であり、エリート理論の信奉者で、さらにはファシズム (全体主義者) でもあったロベルト・ミヒェルス (ロベルト・ミヘルス) が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy) を確認をしてきましたが、そこにもやはり 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 の影響を見ることができます。(詳しくはこちらから💓)

ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
また、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー) 」 と同根の言葉である 「オリガルヒ (oligarch) 」 につきましても、ロシア (詳しくはこちらから💓) やウクライナ (詳しくはこちらから💓) の事例から、そこには少なからぬ 「ユダヤ人 ( = ユダヤ教徒)」 (こちらもご参照💓) が存在していることも判明しました。

さらには、ウクライナとユダヤ人 ( = ユダヤ教徒) と特異な関係を、ウマン (ウーマニ) 巡礼の形成の歴史を通じて確認しました。 (詳しくはこちらから💓)

そこで、現在 “ユダヤ人” (民族としては定義され得ない、単なる宗教信者のグループ) という存在に着目し、より一層理解を進めるために、様々な論文を見ているところとなります。

☆『分水嶺レンベルク : 象徴としての地誌』伊狩 裕

それでは早速、続きを見て参りましょう。
『 2.
・・・マーラーがやってくる 9 か月ほど前の 1902 年 5 月、レンベルク (※ウクライナ語でリヴィウ、ドイツ語でレンベルク (Lemberg)、ポーランド語でルヴフ (Lwów) ) の建設労働者たちは、社会民主主義者の指導のもと、長時間労働と低賃金、そして他所からやってきた者たちの雇用に反対して 2 週間以上にわたるストライキを行った。その一部始終を目の当たりにしたフランコは、即座にウィーンの週刊誌 「ディ・ツァイト」 6 月 7 日号に、このストライキの顛末を次のように書き送る。

グスタフ・マーラー

リヴィウ (レンベルク、ルヴフ) の位置
この争いにおける当局の姿勢はたいへん消極的であった。当局は平穏を望んでいるだけであり、争議の調停など端から彼らの頭にはなかった。当局は社会民主主義者の指導者たちを恃み、「おとなしくしていればきっとよいことがある」 と労働者たちを説得するよう、指導者たちに繰り返し厳命した。もちろんよいことなど何一つ起こりはしなかった。ストライキをしている人々の困窮は嵩じた。耳触りの良い言葉や約束に対する信頼は次第次第に低下していった。ついに 6 月 1 日土曜日にストライキは調停されそうであった。建設企業の代表は譲歩の姿勢を示した。最重要課題は一致を見た。翌朝、すべての陣営の代表が集まり、再度合意し、最終的な契約にサインすることとなった。果たしてその日曜日、企業側の代表者たちはまったく姿を見せず、それに関して一言もなかった。怒った労働者たちは総督府に陳情団を送り、総督に対して、ストライキを行っている労働者たちの絶望的な状況と、約束を破った企業側の振る舞いを訴えた。総督はできる限りの手を尽くすことを約束し、指導者たちに群衆を静めるよう再度求めた。〔…〕 どれくらいの人数が建設労働者のストライキに直接参加していたのかは分からない。500 人、1,000 人、あるいは 1,500 人であったとしても、月曜日にリング広場や大きなストゥジェレツキー広場に密集していた夥しい人々のなかではストライキ参加者はごく少数であった。レンベルクにおいてこれほど多くの貧困と悲惨と絶望とが一度に見られたことはこれまでになかった。建設労働者のストライキは、完全に発症してしまった病ではなく、はるかに深刻で憂慮すべき病の比較的無害な兆候にすぎなかった。なぜならこれは掌握しやすく規制することが可能であったからである。その病の病原菌は、ガリツィアにおいて何十年も前から文字通り培養されてきたのである。

1914年におけるオーストリア=ハンガリー帝国中のガリツィア・ロドメリア王国

現代ヨーロッパにおけるガリツィアの位置

ガリツィアの 「病の病原菌」 とは、すでに見たとおり、農村、石油地帯を覆っていた貧困である。ガリツィア東部の農村地帯においても、低賃金での労働を強いられていた農業プロレタリアートが、1900 年に大土地所有者の土地の耕作を拒否しストライキを行っていた。
レンベルクの建設労働者のストライキは、結局実力によって鎮圧されることになる。
当局は夥しい群衆に向かって騎兵の一個中隊を出動させ、ヴェンツとかいう名の極めて偏狭な警部に指揮させたのであった。軽騎兵の出現はとてつもないパニックを引き起こした。〔…〕 それに続いて起きたことは筆舌を超える。密集する群衆に襲いかかる軽騎兵、投石が雨霰となって軍隊を迎え撃ち、3 度にわたる熾烈な攻撃ののちついに軍隊はストゥジェレツキー広場から放逐され、バリケードが急拵えされると、新たな軍隊が投入され、群衆に向けての 4 回の小銃の一斉射撃、そのあとまた四散する人々、門に身を隠している人々に対する新たな、見境のない発砲、通行人の虐殺、こうしたすべては将来、詳細に叙述されるだろう。今はすべてが矛盾に満ちた細部の描写、噂と歪曲のなかで錯綜している。死者たちばかりが静かである。その数は現在のところ 4 人。幾人かの重傷者たちがその数を増やすことになろう。重傷者はおよそ 50 人。軽傷者は処罰を恐れてもちろん申し出てはいない。殆どの死者と負傷者はストライキとは全く関係ない。その中には学童たち、商人、露天商たちが含まれている。何人の造反者が逮捕されたのかは分からない。
「当局は関わりを否認し」、「ヴェンツ氏は服務規程に基づいて行動したと断言し」、「総督府は公式の通信社を通じて、一連の出来事を、取るに足りないささやかな突発事であると述べ、ただし、若干の治安紊乱者が非人間的なやり方で幾人かの軽騎兵を虐待し、二三の労働者が軍に向かって発砲したことは遺憾である」 と総括し、1902 年 6 月のレンベルク における建設労働者のストライキは終熄した。「迅速に成熟しつつある資本主義的諸関係」 の矛盾に支えられたレンベルクの近代化であった。 』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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