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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  経済学 >  資本主義の根本原理に基づく 『私有財産制』 は、すべての人々に自由を保障する最強の制度です!

    資本主義の根本原理に基づく 『私有財産制』 は、すべての人々に自由を保障する最強の制度です!

    A storm is coming 272

    本日のキーワード : 隷従への道、ハイエク、私的所有権、資本主義、、自由、平等、カール・マルクス、ewkefc



    Breaking the Spell
    呪縛を解く ⑬

    The Holocaust: Myth and Reality, Overview of the book by Dr. Nicholas Kollerstrom
    ホロコースト : ニコラス・コラーストロム博士の著書 「神話と現実」 の概要

    Breaking the Spell

    Fairy Tales From Hell
    地獄からのおとぎ話 (一)

    Let us begin here by reminding the reader of what was said at the outset about the infamous pictures from Bergen-Belsen – the ones that are taken as being symbolic of the entire Holocaust narrative itself; they are real, but they are, at the same time, misrepresentations.
    ここで、冒頭で述べたベルゲン・ベルゼンの悪名高い写真、つまり、ホロコースト物語全体を象徴するものとして受け取られている写真について、読者に思い出して頂きましょう。それらは本物ですが同時に虚偽の表現でもあるのです。

    Bergen-Belsen, located in northwestern Germany, was originally a prisoner of war camp that was turned into a concentration camp in 1943. The camp was liberated by British soldiers on April 15, 1945 who just happened to have been accompanied by a large contingent of journalists. It is likely due to the presence of these real eyewitnesses that it has never been claimed that there were ‘gas chambers’ at Bergen-Belsen. However, this did not stop subsequent Western media from portraying the pictures taken there of the thousands of emaciated bodies, of having been gassing victims. The latter’s deaths, it is pertinent to note, resulted from an outbreak of typhus in the closing stages of the war which itself was largely due to the Allied bombing that had fatally disrupted German infrastructure and which had prevented the re-supplying of both food and Zyklon B to many of the camps. [In fact, the camp was so infested with typhus that the British were eventually forced to burn it to the ground.]
    ドイツ北西部に位置するベルゲン・ベルゼンは、もともと捕虜収容所であったが、1943 年に強制収容所となった。1945 年 4 月 15 日、イギリス兵によって解放されたが、その時たまたま多くのジャーナリストが同行していた。ベルゲン・ベルゼンに 「ガス室」 があったと主張されることがなかったのは、こうした本物の目撃者の存在があったからだろう。しかしその後の欧米のメディアはそこで撮影された数千の痩せ細った死体の写真をガス処刑の犠牲者であったと報じることを止めなかったその死因は (このことは注目に値する)、 戦争末期の発疹チフスで連合軍の爆撃がドイツのインフラを致命的に破壊し多くの収容所への食糧とチクロンBの再供給を妨げたことが大きな原因であった[ 実際、この収容所にはチフスが蔓延しており、イギリスは最終的にこの収容所を焼き払うことを余儀なくされた ]

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    Here we have the entire ‘extermination’ thesis seemingly turned on its head; a proposition that might at first blush seem outlandish did we not have yet another primary source document to support it. As Kollerstrom points out,
    ここに、「絶滅」 論がすべて覆されたように見える。この命題は、それを支持する別の一次資料がなければ、一見、突飛なことのように思えるかもしれない。コラーストロム氏が指摘しているように、

    “Two and half million tons of US/UK bombs destroyed infrastructure and hope. The camps became death camps. We get a glimpse of the unfolding catastrophe from the Red Cross Report [published in 1948]….Thus the German authorities were at pains to relieve the dire situation as far as they were able. The Red Cross are quite explicit in stating that food supplies ceased at this time due to the Allied bombing…and in the interests of interned Jews they had protested on March 15th, 1944 against the ‘barbarous aerial warfare of the Allies’…..In dealing with the Red Cross’ comprehensive three-volume Report, it is important to stress that the delegates of the International Red Cross found no evidence whatever at the camps in Axis-Europe of a deliberate policy to exterminate Jews. In all its 1,600 pages the Report never hints at any human gas chambers.”
    250 万トンの米英軍の爆弾がインフラと希望を破壊した収容所は死のキャンプと化した。赤十字の報告書 (1948 年発行) から、展開される破局を垣間見ることができる…このためドイツ当局はこの悲惨な状況をできる限り緩和しようと懸命であった赤十字社は連合軍の爆撃によってこの時期に食糧供給が停止されたことを明確に述べているそして抑留されているユダヤ人の利益のために1944 年 3 月 15 日に 「連合国の野蛮な空中戦」 に対して抗議している赤十字の包括的な 3 巻の報告書を扱うにあたって国際赤十字の代表団が枢軸ヨーロッパの収容所においてユダヤ人を絶滅させる意図的な政策があったという証拠を何一つ発見しなかったことを強調することが重要であろう1,600 頁におよぶ報告書のどこにも人間ガス室が存在することをほのめかしてはいないのである。」

    Is Zelensky a Cousin of George Soros?

    And what I neglected to mention earlier in regard to the British Intel Decrypts was that, in August 1943, the head of the British Psychological Warfare Executive, Victor Cavendish-Bentick, sent a secret telegram from the Foreign Office to both Washington and Moscow saying, effectively, that despite the rumours they were hearing, there was not the slightest evidence to support the notion that gas chambers were being utilized to kill anyone let alone millions of people.
    そして、先ほどイギリスの情報解読に関して言及するのを失念していたのですが、1943 年 8 月イギリスの心理戦実行部隊の責任者ビクター・キャベンディッシュ = ベンティックは外務省からワシントンとモスクワに秘密電報を送り耳にしている噂にもかかわらずガス室が数百万人どころか誰かを殺すために利用されているという考えを裏付ける証拠は何一つないと事実上述べていることです。

    Also mentioned prior is the eyewitness testimony of Auschwitz commandant, Rudolf Hoss, whose torture-extracted testimony was a pillar for the prosecution at Nuremberg. Apart from the later evidence attesting to his torture, many key components of his testimony were, even at the time known to be falsified – or should have been for any other than a kangaroo court – as they contradicted known, contemporary facts regarding the camps themselves. Thus, Hoss gave affidavit to the court that he had visited Treblinka in June of 1941, where, he said, 80,000 Jews had been “liquidated” in the previous six months. The problem with all this is that Treblinka did not start receiving Jews until late July, 1942. In short, his ‘eyewitness’ account is a whole year and half too early! Indeed, none of the transit camps, including Sobibor and Belzec, even started up until May of 1942. To further complicate the lives of future orthodox holo-historians was Hoss’ insistence that diesel was used as the means of killing – and which, once such methodology was later discovered to be highly improbable if not impossible, was to bedevil the official narrative ever after as abandoning it meant abandoning Hoss’ testimony in its entirety.
    また、アウシュビッツの司令官ルドルフ・ホスの目撃証言についても触れておこう。彼の拷問によって引き出された証言は、ニュルンベルクでの検察側の主張の主柱だった。彼の拷問を証明する後の証拠は別として、彼の証言の多くの重要な構成要素は、当時でさえ、改竄されていることが知られており (あるいは、カンガルー法廷以外では、そうであるべきだった)、収容所そのものに関する既知の現代的事実と矛盾していたのである。かくして、ホスは1941 年 6 月にトレブリンカを訪問しそれまでの 6 ヶ月で 8 万人のユダヤ人が 「処理」されたという宣誓供述書を裁判所に提出している。ここで問題なのはトレブリンカがユダヤ人を受け入れ始めたのは 1942 年 7 月下旬であったということである要するに彼の 「目撃者」 証言は丸 1 年半も早すぎるのである実際ソビボルやベルゼクを含む通過収容所のどれもが1942 年 5 月までは稼働さえしていなかったのである正統派ホロコースト歴史家の研究をさらに複雑にしたのはディーゼル (ディーゼルエンジンからの一酸化炭素ガスの使用) は殺人の手段として使われたというホスの主張だったそのような方法論は不可能ではないにせよ極めてあり得ないことが後に判明したためこの主張が公式見解を揺るがすことになったこの主張の放棄はホスの証言の全てを放棄することになるからだ

    Hitler.jpg 習近平思想の着想者であり、中国的特徴を持つ社会主義の提唱者である習近平総書記

    パペット岸田・林

    『Breaking the Spell』 The Unz Review • An Alternative Media Selection

    投資家サーベイ結果発表 「岸田政権、支持しますか?」



    本日の書物 : 『隷従への道』 フリードリヒ・ハイエク 日経BP



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【私有財産制】は財産を持つ人だけでなく【持たない人にとっても自由を保障する最強の制度である】が【このことを現世代は忘れてしまったようだ】ばらばらに行動する多くの人によって生産手段が所有・管理されているからこそ完全な権力を掌握する人は一人もいないし誰もが自分のことは自分で決められるのであるすべての生産手段が一人の手に握られるとしたらそれが名目上は 「社会」 であれ独裁者であれその一人が全員に対して完全な権力を振るうことになる。…

    無知なewkefc118

    こちらもご参照💓

    資本主義の根本原理 = 「私的所有権」 ~ 繁栄のための資本主義、貧困と没落のための社会主義

    ヒトラーが公言していた事実 ~ 「ナチス思想は “マルクス主義” と同系統である」 → 知ってたwwwwwwww

    子供 笑う 女性

     根っからの共産主義者として知られていたマックス・イーストマンのような人がいまになってこの真実に気づいたのは、痛ましくもあるが勇気づけられもする。イーストマンは最近の論文で次のように書いている。

     「 遅きに失したきらいはあるがいまや次のことはあきらかだと私には思われる。それは【私有財産制を廃止すれば無限の自由と平等が実現するとマルクスは期待した】が【この制度こそ、有限ながらも自由と平等を人類にもたらしてきた主要因だった】ということである奇妙にもこのことを初めて理解したのはマルクスだった歴史を考慮し【自由市場を伴う資本主義の発展こそが民主主義と自由の前提条件】だと教えてくれたのはマルクスであるだが未来を展望したときもしそうだとしたら自由市場を捨て去れば他の自由も失われるだろうとは彼は考えなかった」 』

    日の丸

    川がなかった? ガリツィア・ロドメリア王国の首都・レンベルク (※ ウクライナ語でリヴィウ)


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、資本主義を研究する学問である経済学において、偉大なる経済学者の一人であるフリードリヒ・ハイエクが、ナチズム (あるいはファシズム) と社会主義・共産主義の類似性を明らかにしつつ、 それらの集産主義体制が必然的に全体主義へと至ってしまう危険性について警鐘を鳴らした非常に有名な書物で、本書を通じて『 「法の支配」 に基づく自由民主主義』 がいかに大切なものであるのかを改めて理解することができ財務官僚如きにコントロールされ「法の支配」 を無視した勝手な決定を次々と行っている (例 : ウクライナへの軍事物資支援 = 戦争行為)トコトン無能な “岸田政権” も、実はハイエクが警鐘を鳴らしたものにまさしく繋がっているという現状が良く分かるようになる当ブログお薦めの良書になります無能で危険極まりない岸田一派は、政権のみならず政界そのものから抹消することが私たち日本国民の喫緊の課題となりますので、是非広く日本国民の皆様にお読みいただきたいと思います。

    読書 10-004

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    wlasdoll.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 1,000,004(999,655)÷82,680,909(82,510,876)=0.0120・・・(0.0121) 「1.20%(1.21%)」
    wlasdoll1.jpg

    イタリア : 165,494(165,346)÷17,116,550(17,071,649)=0.0096・・・(0.0096) 「0.96%(0.96%)」
    wlasdoll2.jpg

    日本 : 30,126(30,087)÷8,428,219(8,391,424)=0.0035・・・(0.0035) 「0.35%(0.35%)」
    wlasdoll3.jpg









    さて、これまでの流れを、簡単に確認しておきますと、まず、出発点として、カール・マルクス (1818 - 1883) が生まれる約 200 年ほど前の時代 (日本で言えば、戦国時代から江戸時代初期にかけての時代) に、ドイツの神秘主義者であるヤーコプ・ベーメ (ヤコブ・ベーメ、1575 - 1624) という名の人物がいて、その後の 「ドイツ思想」 に決定的な影響を与えた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 なるものが世に生まれることになります。(詳しくはこちらから💓

    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)

    そのベーメの言っていたことというのは、次のようなものでした。

    世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである詳しくはこちらから💓

    そして、その影響を受けたのがプロイセン (ドイツ) の哲学者イマヌエル・カント (1724 - 1804) で、彼が言っていたことは、次のようなものでした。

    イマヌエル・カント
    イマヌエル・カント

    たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない詳しくはこちらから💓

    また、ドイツ観念論を代表する思想家ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル (1770 - 1831) も影響を受けていて、そんな彼が言っていたことは、次のようなものでした。

    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

    世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる詳しくはこちらから💓

    で、この流れを受け継いでいるのがカール・マルクスであり、ウラジミール・レーニン (1870 - 1924) で、彼らが言っているのは次のようなことです。

    カール・マルクス
    カール・マルクス

    私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである

    ウラジーミル・イリイチ・レーニン 1
    ウラジーミル・イリイチ・レーニン

    われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう詳しくはこちらから💓

    このように、ドイツで生まれた 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想が生み出されることとなります。ここで重要な点は、そもそも全知全能なる神が創り賜うた世界にあって、なぜ悪が存在するのか、という疑問から生じた 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 が、ユダヤ・キリスト教的 “善悪二元論” をより一層強化し、世界を完全に良くするために 「悪なるもの」 を消し去らねばならない、といった浅はかな思考へと陥る人々を生じさせたことです。多くの一般的な人々も陥りやすい誤った思考ですが、特に 「極左おパヨク」 と呼ばれる連中はその影響をもろに受けてしまうほどの 「おバカ」 で、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することで、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の対象物として “罪” を創り出し、その罪に対する償 (つぐな) い・贖 (あがな) いを果たねばならない、と妄信させることによって、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 の下で人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し ( ← これが、ポリコレw)人々の “自由” を奪う極めて 「権威主義的な統制社会の再構築」 を目指す連中の思う壺となっていて、それはまさに現在私たちが普通に目にすることができる状況にあります。つまり、もはや隠そうともしていないという状況にあるということです。

    Hunter Biden Soros Linked to Biolabs in Ukraine





    その 「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」 については、ドイツ出身の社会学者・歴史学者かつマルクス主義者であり、エリート理論の信奉者で、さらにはファシズム (全体主義者) でもあったロベルト・ミヒェルス (ロベルト・ミヘルス) が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy) を確認をしてきましたが、そこにもやはり 「キリスト教神智学 (Christian theosophy) 」 ・ 「ベーメ神智学 (Boehmian theosophy) 」 の影響を見ることができます。(詳しくはこちらから💓

    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

    また、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー) 」 と同根の言葉である 「オリガルヒ (oligarch) 」 につきましても、ロシア詳しくはこちらから💓) やウクライナ詳しくはこちらから💓) の事例から、そこには少なからぬ 「ユダヤ人 ( = ユダヤ教徒)」こちらもご参照💓) が存在していることも判明しました。

    A storm is coming 245





    さらには、ウクライナとユダヤ人 ( = ユダヤ教徒) と特異な関係を、ウマン (ウーマニ) 巡礼の形成の歴史を通じて確認しました。 (詳しくはこちらから💓

    ウーマニ

    そこで、現在 “ユダヤ人” (民族としては定義され得ない、単なる宗教信者のグループ) という存在に着目し、より一層理解を進めるために様々な論文を見ているところとなります。

    dgesyda.jpg
    『分水嶺レンベルク : 象徴としての地誌』伊狩 裕

    ガリツィアのユダヤ人―ポーランド人とウクライナ人のはざまで

    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 1.
     ・・・だがレンベルク (※ウクライナ語でリヴィウ、ドイツ語でレンベルク (Lemberg)、ポーランド語でルヴフ (Lwów) ) の歴史を遡るとこの町は決して初めから川を欠いていたたわけではなかった。13 世紀中葉にウクライナ人によってその礎が築かれたこの町の起源を、歴史家クリプヤケーヴィチは次のように伝えている。


    リヴィウはその始まりをハーリチ・ヴォロディーミル王ダニーロに負っている。タタールから国を守るために、ダニーロはハーリチ、ヴォリーニ、ホルムシチナのさまざまな場所に強大な城塞、すなわちホロドを築いた。こうして王はポルトヴァ川が流れる谷間の丘にも城を築き、それを未だ年若い息子レフの名にちなみリヴィウと名付けた。



    リヴィウ(レンベルク)の位置
    リヴィウ (レンベルク、ルヴフ) の位置

     ダニーロも、500 年余りのちにハプスブルク家所領ガリツィア・ロドメリア王国の首都となるこの町を、他の町の例にもれずそもそもは川すなわち 「ポルトヴァ川」 のほとりに卜 (ぼく) したのであった。さらにクリプヤケーヴィチは、「ポルトヴァは西に対して、町の自然の要塞であった」、「ポルトヴァは大きな川であり、かなりの水量があり、しばしば氾濫し、郊外に大きな被害をもたらした」 と述べ、1511 年、1514 年、1770 年、1853 年、1872 年の大きな氾濫を書き留めている。「 1770 年には水は低いところにあったビアホールと、重要な人物たちが埋葬されていた教会の地下室に浸入し、水が引くと遺体が腐り始め、町では疫病が蔓延しそうになり」、1853 年には、「水は二人の子供を飲み込み、一人は助けられたが、一人は溺死し」、1872 年の氾濫が 「ポルトヴァ最後の氾濫となった」 と述べているが、「最後」 とはすなわち、その後、19 世紀末から 20 世紀初めにかけてポルトヴァは、ヴルタヴァやヴィスワのように伝説を生むこともないまま暗渠化され、二度と氾濫することはなかったからである。

    1914年におけるオーストリア=ハンガリー帝国中のガリツィア・ロドメリア王国
    1914年におけるオーストリア=ハンガリー帝国中のガリツィア・ロドメリア王国

     だが埋設以前のポルトヴァの規模に関する記述は一様ではない。「大きな川であり、かなりの水量があり、しばしば氾濫した」 というクリプヤケーヴィチの記述とはまったく相反する証言も残されている。18 世紀末のレンベルク大学博物学教授ハケットは、埋設される 100 年ほど前にすでに、ポルトヴァはとうてい川と呼べるような代物ではなくそれどころかレンベルク (※ウクライナ語でリヴィウ) にはそもそも 「川がない」 とまで断じている。


    この町にはたったひとつ地形のうえで奇妙な点があるすなわちここには水がないということである水がないとはすなわち川がないという意味であるこの事実すなわち一王国の首都に川がないなどというのはヨーロッパではほかに例がない。レンベルクにはペルテフという名の川があるということは、すべての地理学の書物に記されているが、しかしそれは真っ赤な嘘である。ペルテフはとても小さな小川なので、夏には鼠が、泳ぐまでもなく走り回っている。ほとんど水車を回すことも出来ないこの細い哀れな小川の深さは、せいぜいのところ 2 ツォルしかない。その源は町の近くの砂山にあり、この小川は数マイル流れるとブークという名の小さな川に注いで再び失われてしまうのだ。



    現代ヨーロッパにおけるガリツィアの位置
    現代ヨーロッパにおけるガリツィアの位置

     これは 1770 年の氾濫から 20 年余り後の記述であるが、博物学者ハケットは、その名を挙げていながらポルトヴァを川とは認めない。同じ頃、1800 年に警部としてレンベルクに赴任し、その後レンベルク大学で統計学を教えたローラーも、レンベルク (※ ウクライナ語でリヴィウ)には 「川がない」 としたうえ、次のように小さな、水量の少ないポルトヴァについて書き残している。


    そもそもこの首都は周囲に川がないので輸送に適した場所ではない。ペルテフはとても小さいので、新たに取水口が作られたにもかかわらず、大きな火災が起きた場合ほとんど水量が足りず、消火ポンプを満たすことができない。


    adsdsyedus.jpg

     「かなりの水量がある大きな川」と、深さ「せいぜいのところ 2 ツォル」 で鼠が河床を走り回る 「細い哀れな小川」 とを同一の川として納得するのは難しいが、おそらくレンベルクの地形がポルトヴァに二つの顔を与えたのであろう。ダニーロがこの町を建設したのは 「ポルトヴァ川が流れる谷間」 であったという。「レンベルクは深い谷のなかにあり、周囲を山や丘で囲まれ」、降雨は四方から谷底に集中し、雨量が多くなるとポルトヴァは一気に水嵩を増し、たびたび数メートルの堤を越え町に被害をおよぼしたが、他方、乾季にはほとんど干上がったということなのであろう。』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。











    続きは次回に♥




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