2022-04-04 (Mon)

本日のキーワード : ユダヤ史観、マルクス史観、予定説史観
中国共産党㊴
History
沿革 (九)
Deng and successors
鄧小平とその後継者
Tiananmen Square massacre
天安門事件
In the months prior to the fall of the Berlin Wall, pro-democracy movements worldwide flourished and socialism fell into disrepute. The CCP faced the challenge of large-scale protests in Beijing's Tiananmen Square and in more than 400 other cities between April 15, 1989, and June 4, 1989.
ベルリンの壁が崩壊する数カ月前、世界中で民主化運動が盛んになり、社会主義が失墜していった。1989 年 4 月 15 日から 6 月 4 日にかけて、北京の天安門広場をはじめ、400 以上の都市で大規模な抗議活動が行われ、中国共産党はその難局に直面することになった。
After Zhao Ziyang became the party General Secretary, the economic and political reforms he had championed came under increasing attack. His proposal in May 1988 to accelerate price reform led to widespread popular complaints about rampant inflation and gave opponents of rapid reform the opening to call for greater centralization of economic controls and stricter prohibitions against Western influence. This precipitated a political debate, which grew more heated through the winter of 1988-89.
趙紫陽が党総書記に就任した後、彼が唱えた経済・政治改革は、次第に攻撃にさらされるようになった。1988 年 5 月、趙紫陽が物価改革の加速を提案したところ、インフレが蔓延し、改革急進派は経済統制の一元化や欧米の影響力の禁止を主張するようになった。これをきっかけに、1988 年から 89 年にかけての冬、政治的な論争はさらに過熱した。
The death of Hu Yaobang on April 15, 1989, coupled with growing economic hardship caused by high inflation, provided the backdrop for a large-scale protest movement by students, intellectuals, government employees, journalists, workers, police officers, members of the armed forces, and other members of a disaffected urban population. University students and other citizens camped out in Beijing's Tiananmen Square to mourn Hu's death and to protest against those who would slow reform. Their protests, which grew despite government efforts to contain them, called for an end to official corruption and for defense of freedoms guaranteed by the Chinese constitution. At least one million residents of Beijing were taking part in the protests. Protests also spread to many other cities, including Shanghai, Chengdu, and Guangzhou. By late May, Tiananmen Square was overcrowded and beginning to face health and hygiene problems.
1989 年 4 月 15 日の胡耀邦の死去と、高インフレによる経済的苦境の深刻化を背景に、学生、知識人、公務員、ジャーナリスト、労働者、警察官、軍隊など、都市に住む不穏な人々の大規模な抗議運動が起こった。北京の天安門広場には、大学生をはじめとする市民が、胡耀邦の死を悼み、改革を遅らせようとする者たちに抗議の意を込めて、野営した。彼らの抗議行動は、政府の封じ込め工作にもかかわらず拡大し、官僚の腐敗を終わらせ、中国憲法が保証する自由を守るよう訴えた。少なくとも 100 万人の北京市民が抗議行動に参加していた。抗議は上海、成都、広州など他の多くの都市にも広がった。5 月下旬になると、天安門広場は混雑し、衛生面でも問題が出始めた。
Disagreements about how to respond split the top Party leadership and forced out the Party General Secretary at the time, Zhao Ziyang. The decisions by Wang Zhen, Li Peng, and Paramount Leader Deng Xiaoping led them to conclude that the survival of their regime was at stake. Martial law was declared on May 20, 1989 and at least 30 divisions were mobilized. As many as 250,000 troops were eventually sent to the capital.
その対応をめぐって党のトップが分裂し、当時の党総書記であった趙紫陽を追い出すことになった。王震、李鵬、最高指導者の鄧小平の判断は、政権の存続が危ういという結論に至った。1989 年 5 月 20 日、戒厳令が発令され、少なくとも 30 個師団が動員された。最終的には 25 万人もの軍隊が首都に送り込まれた。
The 27th Army of Shanxi Province, whose troops were described as 60 percent illiterate and primitives, were responsible for most of the atrocities at Tiananmen Square. The 27th Army “snipers shot many civilians on balconies, street sweepers etc for target practice” and used expanding dum-dum bullets. The 27th Army was chosen because its troops were considered “the most reliable and obedient”.
山西省第 27 軍は、その部隊の 60 %が文盲で原始人と言われ、天安門広場での残虐行為のほとんどに責任があった。第 27 軍は 「狙撃兵が射撃練習のためにベランダや道路清掃人などの多くの民間人を撃った」 し、膨張式ダムダム弾を使用した。第 27 軍が選ばれたのは、その部隊が 「最も信頼でき、従順である」 と見なされたからである。
Late on June 3, 1989 and early on the morning of June 4, PLA units were brought into Beijing using automatic weapons, advancing in tanks, armored personnel carriers (APCs), and trucks from several directions toward Tiananmen Square. They used armed force to clear demonstrators from the streets.
1989 年 6 月 3 日深夜から 4 日早朝にかけて、中国共産党の部隊が自動小銃を使用して北京に入り、戦車、装甲兵員輸送車 (APC)、トラックなどで数方向から天安門広場に向かって進撃してきた。武力でデモ隊を路上から排除した。
At 4:30 am protesters, joined by some PLA members, were given one hour to leave the Square, however five minutes later the 27th Army's armoured personnel carriers opened fire before running the crowd over at 65 kph [40 miles per hour]. “Students linked arms but were mown down. APCs then ran over the bodies time and time again to make, quote ‘pie’ unquote. Their remains were collected by bulldozer later that morning, incinerated, and then hosed down drains.
午前 4 時 30 分、中国人民解放軍メンバーも加わった抗議者たちは、1 時間以内に広場から退去するよう命じられましたが、5 分後、第 27 軍の装甲兵員輸送車が発砲し、時速 65 キロ (時速 40 マイル) で群集を轢き殺したのです。「学生たちは腕を組んだが、倒された。その後、APCは何度も何度も遺体の上を走り、いわゆる 「パイ」 を作った。彼らの遺体は、その日の朝、ブルドーザーで集められ、焼却された後、排水路に流された。
The 27th Army was ordered to spare no one. Wounded girl students begged for their lives but were bayoneted. A three-year-old girl was injured, but her mother was shot as she went to her aid, as were six others.
第 27 軍は、誰一人として免れさせないことを命じられた。負傷した女学生たちは命乞いをしたが、銃剣で突かれた。3 歳の少女が負傷したが、助けに行った母親が撃たれ、他の 6 人も撃たれた。
1,000 survivors were told they could escape but were then mown down from specially prepared machine gun positions.
1,000 人の生存者は逃げられると言われたが、その後、特別に用意された機関銃の陣地から殺戮された。
Army ambulances, who attempted to give aid, were shot up, as was a Sino-Japanese hospital ambulance. With the medical crew dead, the wounded driver attempted to ram attackers but was blown to pieces by an anti-tank weapon.
救護にあたった陸軍救急車も、日中友好医院の救急車も銃撃された。乗員が死亡し、負傷した運転手は襲撃者に突っ込もうとしたが、対戦車砲で吹き飛ばされた。
In another incident, the troops shot one of their own officers. “27 Army officer shot dead by own troops, apparently because he faltered. Troops explained they would be shot if they hadn’t shot the officer.”
また、別の事件では、部隊が自軍の将校を射殺した。「第 27 軍の陸軍将校が自軍に射殺されました。彼がもたついたためと思われます。部隊は、もし将校を撃たなければ撃たれていたと説明した。」
The true scale of the murders went unreported in Western media for nearly 30 years, as globalists negotiated trade agreements and welcomed the PRC into the World Trade Organization. Western sources, including Wikipedia, toe the Chinese Communist Party line on many events and details, including casualty statistics.
グローバリストが貿易協定を交渉し、中国を世界貿易機関に迎え入れたため、殺人の本当の規模は 30 年近く欧米メディアで報道されなかった。ウィキペディアを含む西側の情報源は、犠牲者の統計を含む多くの出来事や詳細について、中国共産党の路線に従ったものである。
In an object lesson about the duplicity of socialist slogans, buzzwords, and phrases geared toward seducing the youth and the naive - China's People's Army killed 10,000 of China's own people. In fact, China's People's Army has killed more of China's own people than any foreign enemy in its entire history.
社会主義のスローガン、流行語、若者や世間知らずを誘惑するためのフレーズの二枚舌について、客観的な教訓を与えてくれるものだ。実際、中国人民軍はその全歴史において、どの外国の敵よりも多くの自国民を殺害してきた。
After June 4, while foreign governments expressed horror at the brutal suppression of the demonstrators, the central government eliminated remaining sources of organized opposition, detained large numbers of protesters, and required political reeducation not only for students but also for large numbers of party cadre and government officials.
6月4日以降、外国政府がデモ参加者への残忍な弾圧に恐怖を表明する一方で、中央政府は残っていた組織的な反対勢力を排除し、多数のデモ参加者を拘束し、学生だけでなく多数の党幹部と政府高官に政治再教育を要求した。



☆“Chinese Communist Party” Conservapedia
☆投資家サーベイ結果発表 「岸田政権、支持しますか?」
本日の書物 : 『戦争と国際法を知らない日本人へ』 小室 直樹 徳間書店
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【アウグスティヌスは、初期点 (現在点) として地の国 (civitas terrena) を考える】。この国は、人びとは自らのためにのみはかる【自己愛の国】である。それを原理とする、いわば【利己主義的国】である。この国は【闘争の国】である。
この【地の国からはじまって神の国 (civitas dei) にいたる展開過程が世界史である】。【神の国】とは、霊にしたがって【平和を好む人々の国】である。【人類が救われる国】である。
【これがアウグスティヌス史観の模型 (モデル) である】が、【この模型 (モデル) に、他の予定説史観を代入することは容易である】。
【ユダヤ史観】では、【 「地の国」 】は、大帝国の辺境の【賤民的境遇にある今の状態】である。【 「神の国」 】は、解放されて【世界の主となる状態】である。
【マルクス史観】では、【 「地の国」 】とは、【支配階級が被支配階級に搾取する国 (例 : 資本主義) 】である。【 「神の国」 】とは、【階級が消えて人間が自由になる国】である。
【ユダヤ史観、マルクス史観、いずれも終末観をそなえている】。
「神の国は近づいた」 とイエスは説くが、いま、地上に実現しているものではない。ただし、【地上において 「神の国」 を代表しているのが教会である】。ひとは、「教会をつうじて神の国に入る」 という意味で、まことに 「教会の外に救いはない」 (extra ecclesiam nulla salus) である。
【アウグスティヌスは、人間の意思に自由はなく、人間が善をなし得るのは神の恩恵 (グレイス) によるのみであることを、くりかえし強調する】。
このことから、【教会は客観的権威をもっているという教義が生まれる】。すなわち、教会で行われた場合、聖礼典 (秘蹟 (サクラメント) ) は、これを行った【聖職者の個人的特性 (例 : 善人か悪人か) には依存しないという教義】である。カトリック教会が聖であるのは、その聖職者で聖であるという主体的理由に拠るのではなく、それが神の国の代表であるという客観的根拠に拠るからである。
【このアウグスティヌス理論は、カトリック教会が自分自身を絶対化する根拠となった】。カトリック教会が、ヨーロッパ社会に不抜の根を下ろし、人びとの全生活を支配しつくすために大いに役立った。【それと同時に、かぎりない腐敗への道をひらくことにもなった】のであった。
カトリック教会は、この理論にわるのりして、【その権威は、使徒ペテロに拠るのであって、法王や司教の個人の権威ではないことを言いたてるようになった】。
【この主張の系 (コロラリー/当然の結論) として、カトリックは、教会も修道院も、とめどもなく腐敗していった】。
【しかし、ルターやカルヴァンなどが、心から責めたのはこのことではない】。
【カトリック教会】が、「内心における信仰」 だけを絶対としないで、【なんらかの外面的行動でも救済されるという教義を立てたから】である。』

第三帝国の反ユダヤ政策の日和見主義
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、ロシアによるウクライナ侵攻という歴史的な出来事を理解する上で必要不可欠な要素であるにもかかわらず、特に戦後の日本人に欠けている、「戦争・国際法・国際政治・国際経済」 の基礎に歴として存在しているのが 「キリスト教」 という宗教である、という歴史認識を、著者独特の表現で事の本質を見事に射貫く解説がなされている書物になります。「宗教」 あるいは 「哲学」、はたまた 「法律」 というものを、いわゆる “文系アタマ” の人々は、主観的な感覚・感情によって “自分勝手な” 解釈をしがち (例 : ☆入試国語選択問題の「正解」について――早稲田大学教育学部の説明責任) なのですが、「宗教」 にも 「哲学」 にも 「法律」 にも、「数学」 的 (= 論理的) な要素が多分に含まれていて (というか、それそのものですがw)、“自分勝手な” 解釈は何ら意味をなさないものである、ということが本書を通じて広く日本国民全体で共有できるように、という願いを込めて当ブログはお薦めさせて頂きます。

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 976,241(975,277)÷79,899,266(79,861,484)=0.0122・・・(0.0122) 「1.22%(1.22%)」

イタリア : 158,582(158,436)÷14,229,495(14,153,098)=0.0111・・・(0.0111) 「1.11%(1.11%)」

日本 : 27,614(27,499)÷6,285,894(6,238,527)=0.0043・・・(0.0044) 「0.43%(0.44%)」

さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」・「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの、現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にある、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっている、そんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。
ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。
その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い、到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。
では、なぜ、それを目指そうとするのでしょうか?
それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとで、ある連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

その「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」については、これまたドイツ出身の社会学者・歴史学者であり、マルクス主義者で、エリート理論の信奉者で、ファシズム(全体主義者)でもあったロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について確認をしてきましたが、そこにもやはり「キリスト教神智学(Christian theosophy)」・「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」の影響を見ることができました。

ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
また「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」と同根の言葉である「オリガルヒ(oligarch)」につきましても、ロシアやウクライナの事例を参照して、それがいまから数十年前に、マルクス主義が生み出した “社会主義・共産主義の幻想” が瓦解・崩壊する過程で作り出されたものであることを確認し、そこには少なからぬ 「ユダヤ人 (=ユダヤ教徒)」 が存在していることも判明いたしました。さらには、ウクライナとユダヤ人 (=ユダヤ教徒) と特異な関係を、ウマン (ウーマニ) 巡礼の形成の歴史を通じて確認することができました。
そこで、現在 “ユダヤ人” (民族としては定義され得ない、単なる宗教信者のグループ) という存在に着目し、より一層理解を進めるために、、次の論文を見ているところとなります。

☆『ナチ・ドイツにおける経済の脱ユダヤ化 ― 1938年十一月ポグロムの社会経済的背景 ―』 山本達夫
それでは早速、続きを見て参りましょう。
『 第 7 章 経済の脱ユダヤ化とアーリア化
1.ユダヤ営業経営への外国為替・原料わりあての削減
「経済におけるユダヤ人の平等」 の原則を否定した最初の行政措置は,1937 年 11 月 27 日付ライヒ経済大臣回覧通達 「ユダヤ営業経営への外国為替および原料のわりあて」 〔史料編 8 ) 〕 *558 ) である。この回覧通達において 「ユダヤ営業経営は無条件でドイツ企業の後景に退かなければならない」 という原則が明示された。
ライヒ経済大臣は同回覧通達の冒頭,1936 年 6 月 8 日付ライヒ外国為替管理局の秘密指令によって,輸入監視局には 「経済活動の発展が期待できる企業に特別に外国為替わりあてを付与する権限」 が付与されていると伝えた。輸入監視局は 「ドイツ企業の影響力を拡大させるためにユダヤ営業経営の関与を抑制する可能性」 を有しているので 「ユダヤ人輸入業者に対するドイツ人輸入業者の優位を確立」 するよう要請したのである。そのさい必要な措置として,ユダヤ営業経営へのわりあて量の継続的な検査が指示された。「ユダヤ営業経営に対する外国為替わりあて額が,経済状況の進展にともなって,ユダヤ営業経営における原料消費の減少,および既に生じているか将来予想される顧客の流出を考慮に入れた場合,妥当なものであるかどうか」 を調査するためだという。
ユダヤ営業経営の狙い撃ち措置であった。ユダヤ営業経営を無条件でドイツ企業の後景に退かせる政策を実施すれば 「ユダヤ営業経営における原料消費の減少」 や 「顧客の流出」 が生じることは明らかであった。ユダヤ営業経営の業績を低減させたうえで減退に見合った新たなわりあて量を算出せよというのが回覧通達の趣旨である。現行のわりあて量が削減される以上,当然ユダヤ営業経営の輸入わりあての増加は見送られ,ユダヤ営業経営は外国為替の追加わりあてからも除外されることになる。
ライヒ経済大臣が輸入監視局に命じた具体的な指示はつぎの通りである。
① ユダヤ営業経営のわりあて (加工,購入,在庫維持,取り引きわりあて) を一律に10 %削減すること。
② 原料配分にさいしての特典または特別配分を,ユダヤ営業経営にしないこと。
③ 同等の資格の場合はドイツ人を無条件で優先させること。
④ ユダヤ営業経営へのわりあてが十分に消費されなかったり,顧客が流出したりした場合は,10 %を超えてわりあてを削減すること。
こうした措置によって,輸入監視局は相当量の原料と外国為替を蓄えることになる。ライヒ経済大臣は 「わりあての削減部分はドイツ企業に委ねられ」,「特別な目的に役立てられる」 とした。① 育成する価値のあるドイツ企業を支援すること,② ユダヤ人の占拠率が高い経済部門においてドイツ企業を新規に設立することがあげられていた。
この関連では 「公共の利益」 についても触れられており,国境地帯の企業への特別わりあてについて言及された。国境地帯 Grenzlandgebiete というのは,① ズデーテン・ドイツ地方,② オストマルク,③ バイエルン・オストマルク地方,*559 ) ④ ザクセン地方,*560 ) ⑤ ライヒ東部国境地帯,*561 ) ⑥ シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州,*562 ) ⑦ 西部のライン州,*563 ) ザールラント,バイエルン・プファルツ *564 ) をさし,経済的な低開発地域とみなされていた。 *565 ) ライヒ経済省第Ⅱ B 部長 (原料管理部) は1937 年 12 月 29 付で 「国境地帯へのわりあて」 と題する省内通達 *566 ) を発令している。そこには,国境地帯の原料供給状況を 〔本国と〕 同等にする目標が未達成であり,原料供給の不足のために国境地帯から労働力が流出している状況がのべられていた。ライヒ経済省第 Ⅱ B 部長はこれを 「国政上の重大な危険」 とし,ユダヤ営業経営へのわりあて削減によって節約された分量を国境地帯の支援のために役立てるよう命じたのである。
以上のドイツ企業優先措置は,すべてドイツの輸出振興という枠内で講じられるものであった。「ドイツの輸出を損なう場合」 は削減措置を見合わせるとされた。「輸出企業」 の特別あつかいはその後も経済の脱ユダヤ化の基本方針となっている。たとえば,1938 年 10 月 27 日付けライヒ経済大臣回覧通達 〔史料編 33 ) 〕 *567 ) では 「 1937 年に輸出額が 10 万マルクを超過した企業の脱ユダヤ化にさいしては,認可付与の前に経済大臣の承認を得なければならない」 とされている。また,反ドイツ・ボイコットの原因となりかねない 「外国籍のユダヤ営業経営」 はわりあて削減措置の対象からあらかじめ除外されたのである。こうした例外の設定には第三帝国の反ユダヤ政策の日和見主義的性格があらわれている。
*558 ) Der Reichs- und Preussische Wirtschaftsminister. II R 40180/37. Berlin, den 27. Dez. 1937. Betr. Devisen- und Rohstoffzuteilungen an jüdische Unternehmen. in: BA. R 8 I / 76.
*559 ) Hof, Marktredwitz, Weiden, Schwandorf, Cham の労働局管区, ドナウ川北岸の労働局管区の一部 Straubing, Deggendorf, Passau.
*560 ) Oelsnitz, Plauen, Auerbach, Schwarzenberg, Annaberg, Stolberg, Marienberg, Freiberg, Dippoldiswalde, Pirna, Bautzen, Löbau, Zittau のアムツハウプトマンシャフト 〔ザクセンの古称〕 ),
*561 ) a ) Hoyerswerda 地区をのぞくシュレーズィエン州, b ) ブランデンブルク州においては Merzeritz, Schwerin, Züllichau-Schwiebus, Ost-Sternberg, Landesberg 地区, c ) ポンメルン州においては Posen- Westpreußen 行政地区, Bütow, Rummelsburg, Lauenburg, Dramburg, Neu-Stettin, Stolp 地区,d ) オストプロイセン州.
*562 ) Flensburg, Süd-Tondern 国境地区.
*563 ) Düsseldorf, Aachen, Trier の行政地区のライン左岸地方およびBirkenfeld 地区.
*564 ) Zweibrücken およびPirmasens 地区.
*565 ) Der Reichswirtschaftsminister an die obersten Reichsbehärden usw., III WO 19080/38, Betr.: Vergebung öffentlicher Aufträge; bevorzugte Berücksichtigung auftragsbedürftiger Grenzgebiete vom 17. Okt. 1938, in: BA. R 8 I Reichsstelle für Textilwirtschaft, 76.
*566 ) Der Leiter der Unterabteilung II B, II R 43799/37. Berlin, den 29. Dez. 1937. Betr. Rohstoffzuteilungen an die Grenzgebiete. in: BA. R 3101-11605, 68.
*567 ) Der Reichswirtschaftsminister. III Jd. 2/6610/38. Betrifft: Durchführung der Anordnung des Beauftragten für den
Vierjahresplan vom 26. April 1938 (RGBl. I S. 415) -Entjudung von Ausfuhrunternehmen.-. Berlin, den 27. Okt. 1938. in: GWB 624. 』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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