2014-10-15 (Wed)

ポポロ広場(Piazza del Popolo)は、ローマにある広場。巡礼者のローマへの入口に当たる。ポポロは「市民」の意味。古くから交通の要所であり、ローマの入口に当たる広場である。中央にオベリスクが建てられ、南に向かって3本の道路が放射状に伸びている。バロック期には広場に面してドームを載せた2つの教会堂(双子教会)が建設された。さらに19世紀になって、噴水の整備、建物の改築などが行われ、現在見る姿になった。

カズラエのフラミニア街道
『 ローマ人のつくった道は、現在のローマ市内でも、
「コルソ通り(ヴィア・デル・コルソ)」や「リペッタ通り(ヴィア・リペッタ)」、
ポポロ広場から北に向かって走る「フラミニア街道(ヴィア・フラミニア)」を見ればわかるように、
地勢が許すかぎり一直線に走っている。
アッピア街道に至っては、四十三キロもの距離が、
自動車で走っていてもあきれ返るくらい一直線でつづく。

フラミニア街道の地図(青)。紫の線は新フラミニア街道
そのうえ、平野でも平らにならし、
湿地帯では無数の木の杭を打ちこんだ上に土手を築き、
街道はその上を走るようにつくられていた。
また、下を通るのが川であろうとただの谷であろうと、
降りてまた上るのを嫌うがゆえに道と同じ高さに橋をかけてしまう。
水もないのにかける橋を、彼らは「陸橋」と呼んでいた。
このようなことまにまで執着したのは、ローマ人が、
道とは可能なかぎり早く目的地に着くためのもの、と考えていたからである。

…全ての道はローマに通ず、よりも、すべての道はローマより発す、としたほうが
適切ではないかと思うくらいだが、それはローマが帝国の心臓で…
そして、心臓から肉体のすみずみにまで血液を送り出す動脈が、ローマ街道であった。
首都ローマを出たときは十二本であったローマ街道は、酷寒の北海から酷暑のサハラ砂漠、
大西洋からユーフラテス河、イギリスからシリア、
ドイツやバルカンからエジプトまでも網羅していた
ローマ帝国全域に広がっていくうちに、
全線敷石舗装を義務づけられた幹線だけでも三百七十五本を数え、
その全長は八万キロに達するようになる。
これに砂利舗装だった支線までも加えた大血管網が、
ローマ帝国という生身の人間の肉体に張りめぐらされていたということだ。
そして、これらの街道すべてのファースト・ランナーが、アッピア街道であったのだった。』

アッピア街道
2000年前からローマ人は、高速道路の発想を持っていたんですね♥
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