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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

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    「オバマケア」 という中産階級にとっての悪夢

    A storm is coming 57

    本日のキーワード : 医療保険、オバマケア、悪夢



    医療保険(いりょうほけん、Health Insurance)とは医療機関の受診により発生した入院費や手術費といった医療費についてその一部又は全部を保険者が給付する仕組みの保険である

    高額の医療費による貧困の予防や生活の安定などを目的としている長期の入院や先進医療による治療などに伴う高額の医療費が被保険者の直接負担となることを避けるために被保険者の負担額の上限が定められたり逆に保険金の支給額が膨らむことで保険者の財源が圧迫されることを防ぐため被保険者の自己負担割合や自己負担金が定められていたり予め保障範囲が制限されていたりすることが多い





    本日の書物 : 『 「アメリカ」 の終わり “忘れられたアメリカ人” のこころの声を聞け』 山中 泉 方丈社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【オバマケア】の名前は日本でも知っている人が多いのではないだろうか。低所得層の人たちにも全員医療保険への加入を義務付けるということで、国民皆保険のない【アメリカで素晴らしい業績を上げたというようなイメージ】ではないだろうか。多くのアメリカ人も、大きな期待を持ったことは事実である。ただ【実際オバマケアになってから、ミドルクラスの毎月の保険料支払い額】は【約 2 倍に跳ね上がってしまった】

     米国の医療保険は、保険の種類にもよるので簡単には言えないが、【 4 人家族で、家族全員をカバーする場合は平均で月に 1,200 ドル ( 14 万円) くらい】にはなる。こうなると、ミドルクラスでもなかなか保険に入ることができない状況になっていた。

     そしてオバマケアは、アメリカでもカナダや北欧、日本のような国民皆保険制度を導入しようということで開始したものである。高齢者や貧しい人には政府系の低額の保険もあるのだが、【オバマケア】では【米国民すべての人が必ず保険に入らなければならないという法律】を作った

     これによって何が起きたかというと、アメリカには数多い黒人やマイノリティを中心とする生活保護を受けている多くの【低所得家庭と無所得家庭の人たちの保険料】を、【ミドルクラスが負担するという結果になってしまった】ミドルクラスが今まで払っていた【毎月の保険支払い額が、最低でも倍になった】のである。…



     現在、【アメリカの個人破産】の【一番の要因】【約半数を占める理由】は、【保険のない人が医療機関で高額のガン治療や手術を受けて、支払いができず個人破産を申請するというケース】である。私はいつも日本の国民皆保険制度は日本の宝であるというのが持論だが、このような米国の事情を知ればおわかりいただけるだろうか。【これがオバマケアの現実なのである】。』

    日の丸

    旧ソ連邦ウクライナのユダヤ教地下活動


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、現在のアメリカで起こっている現実について、非常に正しく理解されている方々の御一人である著者が、主要メディアの “素っ惚け” “しらばっくれ” によって多くの人々が知らない事実列挙している書物で、また、主要メディアの “歪曲” “捏造” によって多くの方々が事実誤認している出来事真実を明らかにされている書物になります。2016 年から始まった本物の「陰謀」について理解する上でもまずはアメリカの現実を正しく把握することが必須となりますが、まさにそのために打って付けの御薦めの良書です。

    読書7-77

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    chinasuibotu.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 621,568(621,199)÷36,660,942(36,623,835)=0.0169・・・(0.0169) 「1.69%(1.69%)」
    chinasuibotu1.jpg

    イタリア : 128,432(128,413)÷4,440,669(4,435,006)=0.0289・・・(0.0289) 「2.89%(2.89%)」
    chinasuibotu2.jpg

    日本 : 15,423(15,413)÷1,148,614(1,130,783)=0.0134・・・(0.0136) 「1.34%(1.36%)」
    chinasuibotu3.jpg

















    egdusyed.jpg
    【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology  (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)

    さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」出発点として、その後人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にあるユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっているそんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。



    ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。

    その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。

    では、なぜそれを目指そうとするのでしょうか?

    それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとである連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

    ポイント 女性

    その「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」については、これまたドイツ出身の社会学者・歴史学者であり、マルクス主義者で、エリート理論の信奉者で、ファシズム(全体主義者)でもあったロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について確認をしてきましたが、そこにもやはり「キリスト教神智学(Christian theosophy)」「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」の影響を見ることができました。

    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

    この「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」同根の言葉「オリガルヒ(oligarch)」 というものがあります。現代のロシアに見られるもの(ロシアに限ったものではありませんがw)ですが、いまから数十年前にマルクス主義が生み出した “社会主義・共産主義の幻想” が瓦解・崩壊する過程で作り出されたもので、その理解を一層深めるために少し視点を変えてウクライナにおけるユダヤ人に焦点をあてて次の論文を参照しながら考えているところとなります。

    gdytesoka.jpg
    『ウマン巡礼の歴史 : ウクライナにおけるユダヤ人の聖地とその変遷』 赤尾 光春



    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 3.ウマン巡礼の歴史

    3 - 2 分散期 (1917 - 1985)

     第一次世界大戦と十月革命それに引き続く内戦とウクライナのソ連邦への加盟によって国外からブレスラフ・ハシディームがウーマニを訪れるのは事実上不可能となったがそれによって彼らは両極の立場に二分された

     すでに数千人のブレスラフ信奉者を生んでいたポーランドでは国境の閉鎖に伴い新年のキブツを地元ポーランドで行うという現実的な妥協策が講じられた。ポーランドのハシディームは、ウーマニの指導者に書簡を送り、新年に自分らのキブツを形成してもよいか、そしてナフマンが行う救いの光に照らして、このキブツはどれほどの価値があるといえるか、と問い合わせた。当時の精神的指導者であったラビ・アブラハム・シュテルンハルツ [Rabbi Abraham Sternhartz 1862 - 1955] は、それに答えて書簡を送った。

    「 ポーランドで我らの会衆が集うことは、無論良い。だが新年の救済 [tikun] に関しては、ただウマンにのみ集まることを、切に望まねばならない。新年はウマンで、他のいかなる場所であってもならぬ、ナタンはそう語ったではないか。」

     ウマン以外でのキブツがやむを得ぬものであり、その価値が二次的なものであることは明らかだったが、ブレスラフ・ハシディームの多くは、ウマン巡礼を断念せざるを得なかった。ポーランドにおいてはその後ハシディームの集中する地点であったルブリン [Lublin] に集結するようになりそれはナチス・ドイツによるポーランド侵攻まで続けられた

     一方、いかなる困難にも屈せず、ナフマンの絶対的な命令に照らしてウーマニへやって来るつわもの達の系譜が現れた。ポーランドのブレスラフ指導者が、生命の危険から、国境を非合法的に越えることを堅く禁止していたにもかかわらず、1930 年代の始めまで、国境を越えようと試みるハシディームは後を絶たなかったという (104)。

     ソ連邦における宗教活動は20 年代初頭から共産党のユダヤ人部会 [Evsektsiia] の反宗教キャンペーンによって徹底的に骨抜きにされたシナゴーグをはじめユダヤ人男子初等学校 [heder] や沐浴場 [mikveh] といったユダヤ教の公共施設はことごとく閉鎖されユダヤ教に基づいた生活様式を頑なに守ろうとする者たちは地下活動を余儀なくされたこうしたユダヤ教の地下活動の中心にあったのがハバード・ハシディズムと並んでウーマニを中心とするブレスラフ・ハシディームであった。ブレスラフは、ハバードに比べ規模こそ圧倒的に小さかったものの、こうした地下活動は 30 年代の終わりまで続いたソ連領内からユダヤ教の施設が次々と消え去る時代にあってウーマニのクロイズとミクヴェは法外な税金が支払われて維持されたばかりか新年のキブツもまた密かに続けられた。30 年代のブレスラフ・ハシディームに関しては、彼らの送金元であったアメリカの親戚に宛てて書き送った手紙から、その一端を知ることができる(106)。文面からは、送金された金銭がハシディームの生活や各種の宗教的な儀礼のために充てられていただけでなく、新年のウマン巡礼の費用として各地のハシディームに分配されていたことなどが窺える (107)。1935 年に送られた手紙には新年のウマン巡礼について、以下のような記述が見られる。

    「 ハシディームの中には新年に来なかった者もおりました。死んだ者や、その時々に差し支えがあって、来られない者もありました。ともあれ、キエフ、モスクワ、レニングラード、それにクリヴォイログから四人の新しいラビ、17 歳から 24 歳までの若者、それに三人の幼子を連れた人などが訪れました。カフカースからはるばるやって来た者も一人います。」

     こうした言葉から、海外からの送金によってなんとか巡礼を果たすことができた極貧のハシディームだけでなく、ウマン(ウーマニ)のキブツについて聞き知った噂をたよりに、ブレスラフに所属しないユダヤ人も訪れていたことがわかる。飢餓と粛清の時代にあってウマン (ウーマニ) とはソ連邦に暮らす敬虔なユダヤ人にとって束の間の避難所であり希望の街でありまた共産主義支配下におけるユダヤ教の地下活動の象徴でもあったといえるだろう

     しかしながらこうした献身的な努力も空しく、1935 年には前述した二人の指導的なハシディーム、ラビ・ベンデルとラビ・ローゼンが逮捕され (109)、翌年ウーマニのクロイズは遂に閉鎖された。ついで 1938 年には 27 人のブレスラフ・ハシディームが逮捕され、シベリアに流刑されている (110)。ところが驚くべきことに、残された者たちは、それでもなお、個人のアパートで新年のキブツを敢行し続けた。ナチス・ドイツの占領期間を除き、ウーマニでキブツが途絶えることはなかったのである (111)。


    注 (87)
     この半永久的な闘争は、「我が炎は救世主の到来まで燃え続かん」 というナフマンの有名な言葉に集約されており、後にこの言葉を象徴する 「永劫の蝋燭」 [Ner Tamid] が墓の前に灯されることになった。Nathan, Khayey mohara”n, I:46.

    注 (104)
     中でも 30 年代に国境を越え、ウマン巡礼を果たしたツファット出身の Rabbi Shmuel Horowitz (? - 1972) の話は想像を絶するものである。ポーランドで各地を点々とし、密入国の情報を集めた彼は、最終的にポーランド在住のハシディームの一人とともに徒歩で国境を越え、数々の危険を乗り越えて 1930 年にウーマニに辿り着いた。密告の恐怖に慄きながら約二年半滞在した挙げ句、スパイ容疑で当局に見つかり身柄を拘束された。彼は約三ヶ月獄中で過ごし死を覚悟していたが、宗教的シオニズムの先覚者で当時パレスチナの首席ラビであった Rabbi Abraham Isaac Kook (1865 - 1935) による外交的努力のおかげで解放され、イスラエルの地に生還することができた。S. H. Horowitz, Yemey shmuel II (Jerusalem, 1992), pp.334-457.

    注 (107)
     また、ナフマンの墓に灯されていた 「永遠の蝋燭」 を絶やさないように、オリーブ油がしばしば所望されていた点は興味深い。注 87 を参照。

    注 (109)
     ウーマニの監獄で数ヶ月過ごした後、二人は刑の宣告を受けるためキエフの内務人民委員 [NKVD] の建物に移送された。しかし、そこで裁判に当たっていた長官がユダヤ人であり、しかも義理の父親がブレスラフ・ハシディームの一人であったことが判明し、この奇縁によって二人は無罪放免となった。Fried-man, ‘Ish khasideykha, pp. 162-188.

    注 (110)
     その内の三人はウーマニで獄死、残りはシベリア流刑に処され、三人 (或いは四人) が生還した。数の相違は以下の二つの書物における記述のズレによる。Gershoni, Yehudim veyahadut bivrit hamo’atsot, p.134; G. Fleer, Uman Kakh nifretsa haderekh, p.22.

    注 (111)
     キエフの内務人民委員の監獄から解放されてモスクワに落ち延びたラビ・ベンデルは、1938 年にも極秘にウマン巡礼を果たした。「私は行くことよりも行かぬことの方を恐れる」。反対する家族に彼はこう言ったという。Friedman, ‘Ish khasideykha, pp.243-295. 』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。









    続きは次回に♥




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