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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  科学・数学 >  そもそも “ヒトの寿命” には、その限界が存在するのでしょうか?

    そもそも “ヒトの寿命” には、その限界が存在するのでしょうか?

    A storm is coming 21

    本日のキーワード : 寿命、最大寿命、平均寿命



    寿命(じゅみょう)とは命がある間の長さのことであり生まれてから死ぬまでの時間のことである

    本日の書物 : 『LIFESPAN (ライフスパン) : 老いなき世界』 デビッド・A・シンクレア 東洋経済新報社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 千年また千年と歴史を刻む過程で、【人間の平均寿命は確かに少しずつ延びてきた】。それは懐疑派も認める。かつて私たちの大半が 40 歳まで生きられなかったのに、それができるようになった。50 歳にも達しなかったのが、届くようになった。ほとんどが 60 歳を見ずに人生を終えていたのに、60 の声を聞けるようになった。この理由としては、【安定した食料ときれいな水を利用できる人の数が増えたことが大きい】。また、【平均値】は上から引っ張られたというより、【主に下から押し上げられた】といえる。つまり、【乳幼児のうちに命を落とす者が減ったために全体の寿命が長くなった】。単純な算数である。

     【しかし、平均寿命が上昇を続ける一方で、最大寿命のほうはそうなっていない】。記録をひもとけば、100 歳に達した人はいるし、それより何年か長く生きた人もいた。だが、110 歳に届く人はごくわずかしかおらず、115 歳を迎える人となると限りなくゼロに近い。

     地球にはこれまで 1,000 億人以上が暮らしてきたが、120 歳を超えたと表立って認められるのは過去に 1 人しかいない。フランスのジャンヌ・カルマンである。ジャンヌが 1997 年に亡くなったとき、122 歳だったというのが科学界の定説だ。ところが、最近になってこれに疑問が投げかけられている。ジャンヌの娘が相続税を払いたくないがために、母親とすり替わっていたという疑惑が浮上したのだ。もっとも、真実がどうだったかはたいして問題ではない。たとえ 120 歳前後にまで届く人がいるとしても、【圧倒的大多数は、正確にいえば全体の 99.98 %は、100 歳を待たずに人生を終えている】のだ。

     だから、この先もコツコツと平均値を上げていけるにせよ、【最大値は動かせないという声があるのは無理もないこと】だ。ネズミやイヌなら簡単に最大寿命を延ばせても、私たち人間はそうはいかない。すでに長く生きすぎているのだ。懐疑派はそう主張するだろう。

     【それは間違っている】

     もう 1 つ考えないといけないのが、【寿命を向上させること】と【元気でいられる時間を長くすること】は【違う】という点だ。私たちは【その両方の実現を目指すべき】である。痛みや病や、虚弱や体の不自由に苦しむことがすでに生活のすべてになっているのに、ただ死なさずにおくだけのために人生をさらに何十年も長引かせるのは、道義的にいって許されることではない。』

    日の丸

    (問題) 今のアメリカのオリガルヒの正体は?


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、『老化』 に対して私たちが思い描くイメージあるいは先入観を、その根底から覆す可能性があるということを主張する著者によって書かれた書物で、ひょっとすると、現代を生きる私たちが近い将来に目の当たりにするかもしれない 「コペルニクス的転回」 が、果たしてどういった科学的な考え方に立脚して現在進行形で進んでいるのかについて、分かりやすい表現で解説がなされている良書になります。

    読書 5-22

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    gjgjhnbjhgdd.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 601,978(601,802)÷33,550,465(33,540,159)=0.0179・・・(0.0179) 「1.79%(1.79%)」
    gjgjhnbjhgdd1.jpg

    イタリア : 127,291(127,270)÷4,253,460(4,252,976)=0.0299・・・(0.0299) 「2.99%(2.99%)」
    gjgjhnbjhgdd2.jpg

    日本 : 14,385(14,373)÷786,157(785,692)=0.0182・・・(0.0182) 「1.82%(1.82%)」
    gjgjhnbjhgdd3.jpg











    egdusyed.jpg
    【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology  (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)

    さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」出発点として、その後人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にあるユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっているそんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。



    ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。

    その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。

    では、なぜそれを目指そうとするのでしょうか?

    それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとである連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

    ポイント 女性



    その「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」については、これまたドイツ出身の社会学者・歴史学者であり、マルクス主義者で、エリート理論の信奉者で、ファシズム(全体主義者)でもあったロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について確認をしてきましたが、そこにもやはり「キリスト教神智学(Christian theosophy)」「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」の影響を見ることができました。

    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

    この「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」同根の言葉「オリガルヒ(oligarch)」 というものがあります。現代のロシアに見られるもの(ロシアに限ったものではありませんがw)ですが、いまから数十年前にマルクス主義が生み出した “社会主義・共産主義の幻想” が瓦解・崩壊する過程で作り出されたもので、その過程を理解するために次の論文を参照しながら理解を深めようとしているところになります。

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    『ロシアにおけるオリガルヒヤについて ― その形成期における権力との癒着を中心に ―』 中澤 孝之



    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 3. 「オリガルヒヤ」という言葉の出現

     ノーベル賞受賞作家ソルジェニーツィンが論文で 「ロシアのオリガルヒ的体制」 を指摘したのは 1996 年 11 月であった。しかし、その場合、「150 人 - 200 人のうちの強固で閉鎖的なオリガルヒヤ」 という表現で、いわば、ノメンクラトゥーラの意味合いで使われていた。そして、今日的な意味でこの言葉が使われ始めたのは 97 年 12 月 1 日以来のことであった。

     ニジエゴロド見本市で、エリツィン大統領は 「国民資本主義の建設路線」 を宣言するはずだったが、これをしなかったため、燃料エネルギー相兼任を 11 月 20 日に外されたばかりのネムツォフ第 1 副首相が 「ノーヴァヤ・ガゼータ」 紙とのインタビューで、国民資本主義と対比させる形で、「ルシコフ (モスクワ市長) のノメンクラトゥーラ官僚資本主義」 および 「ベレゾフスキーのオリガルヒヤ資本主義」 批判を展開した。その後、ネムツォフは機会あるごとに、オリガルヒヤ批判を強めていく。98 年春には、ネムツォフが 「オリガルヒヤ資本主義との闘い月間」 を宣言した後、マスコミで誰が最初に 「オリガルヒヤ」 なる言葉を使ったかが問題となった。イズベスチヤ紙 (5 月 14 日) は同紙評論員アレクサンドル・プリヴァロフは 「半年前から」 使っていると書いたが、評論家アンドレイ・ファージンが最初だという説も出た。このころ、“貴族階級” の別称として 「オリガルヒヤ」 が使われ、その対象として、В ・オクロフ (エリツィンの長女エレナの夫で、アエロフロート社長)、Т ・ジアチェンコ (エリツィンの二女で、97 年 6 月から大統領顧問)、Ш ・タルピシチェフ (エリツィン側近の一人で、テニスコーチ) やА ・コルジャコフ (大統領警護局長) などが挙げられた。

     また、98 年 4 月にウラジーミル・メドヴェージェフ・ロシア石油ガス産業家同盟総裁 (下院議員) が 「今日のロシア連邦」 という議会内配布雑誌に 「政府はいかにオリガルヒを育てたか。彼らは国に何をしたのか」 という論文を寄稿したことで、「オリガルヒ」 なる用語が注目された。メドヴェージェフ総裁はその中で、95 年から 97 年にかけて行われたチュメニ石油とシブネフチの民営化を指導した国家資産委員会のОЛИТАРХИЗАЦИルЯ (オリガルヒヤ化) を 批判 した。

     オリガルヒ (ないしはオリガルヒヤ) という言葉がいっせいにロシアの新聞を飾ったのは98 年 5 月 - 6 月ごろであった。エリツィン大統領が近く 「97 年 9 月に会った 6 人の銀行家に加えた何人かのオリガルヒ (オリガルフの複数) と会見する」 と 5 月 28 日付け各紙が予測記事を掲載した。そこに挙げられたのは、Р ・ヴャヒレフ (ガスプロム)А・チュバイス (ロシアЕЭС = 統一エネルギー機構) およびВ ・アレクペロフ (ルクオイル) であった。5 月 28 日キリエンコ首相В ・グシンスキーА ・スモレンスキーМ ・ホドルコフスキーВ ・ポターニン招いた


    ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン
    ボリス・ニコラエヴィチ・エリツィン

    ウラジーミル・オレゴヴィッチ・ポターニン
    ウラジーミル・オレゴヴィッチ・ポターニン

    ヴァギト・ユスフォヴィチ・アレクペロフ
    ヴァギト・ユスフォヴィチ・アレクペロフ

     98 年 6 月 2 日にエリツィン大統領は新聞の予測どおり 10 人のオリガルヒと会見した。Р ・ヴャヒレフВ ・ボグダノフ (スルグトニェフチ)В・アレクペロフМ ・ホドルコフスキーВ ・ポターニンМ ・フリードマンВ ・マルキンВ ・グシンスキーА ・スモレンスキー (СЪС)А・チュバイスだった。このうち、ボグダノブとマルキンがこの種の会合に招かれたのは初めてで、チュバイスはロシアЕЭС社長としては初めての出席であった。インコムバンクのВ ・ヴィノグラードフは、出張中 (А ・リフシツの言葉) という口実で、欠席した。この会合の出席者をイズベスチヤ紙を除くほとんどの新聞が括弧なしでオリガルヒと呼んだ一部の新聞はチュバイスが自らを 「新米のオリガルフ (オリガルヒの単数) 」 と称したと伝えたこの大統領と有力企業家たちの会談をきっかけにオリガルヒないしはオリガルヒヤなる言葉がロシアで定着することになった

    アナトリー・ボリソヴィチ・チュバイス
    アナトリー・ボリソヴィチ・チュバイス

     こうして、オリガルヒヤ (オリガルヒ) とは 「ロシアの工業企業、マスコミ、銀行資本を支配し、運営する市民および組織のグループを意味するようになった。ネムツォフは次のようにオリガルヒヤについて解説している。「私がオリガルフの概念を常用させ、ベレゾフスキー、グシンスキー、スモレンスキー、ホドルコフスキーなどの名前を挙げた。私は 『ロシアの将来 - 民主主義かオリガルヒズムか』 という論文を書いた。国際会議でも発言したのだが、現代ロシアの理解において、この言葉は、一生懸命働いたからではなく職権乱用かさらに犯罪的な形式で権力と非公式なつながりを有したために豊かになった大企業家たちを意味する

    女性 ポイント これ

     ちなみに、98 年 6 月 2 日の会合について、その直後、スモレンスキーはコメルサント誌とのインタビューで 「昔流に言えば、いわゆる経済政治局とでも言うべきものが出来上がった」 と感想を述べた。大統領を除いた 「経済政治局」 の会議が 3 日にガスプロム本部で、4 日には、モスクワ郊外で開かれ、その結果、10 人は政府の政策への支持を表明した文書 「ロシアのビジネス代表のアピール」 に署名し、公開した。さらに、6 月 16 日にオリガルヒヤたちは大統領府長官ユマシェフおよびキリエンコ首相と相次いで会談したが、グシンスキーは出張中ということで、参加しなかった。その代わりに、ベレゾフスキーが加わった。6 月 18 日の交渉で、オリガルヒヤ、閣僚それぞれ 10 人による経済相互コンサルタント機関評議会の創設合意した。オリガルヒヤと政権の癒着は決定的であった。』




    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。









    続きは次回に♥




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