2021-06-26 (Sat)

本日のキーワード : 詰め込み教育、受動的、能動的、本質
詰め込み教育(つめこみきょういく、 英語: cramming)とは、もっぱら暗記による知識量の増大に比重を置く、あるいは知識の増大を目指す教育方法のこと。
多量の勉強による基礎学力の早期習得を目指す教育や、短期間にできるだけ多くの事柄の学習を目指す教育(一夜漬け)のことを指す場合もある(後者の場合、知識の増大に比重を置いたり、目標とするとは限らない)。単に学習カリキュラムの内容の増減(や変化)の観点からのみ、「詰め込み教育」と「ゆとり教育」が対語として用いられる場合もある。
本日の書物 : 『すごいインドビジネス』 サンジーヴ・スィンハ 日本経済新聞出版
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ついこの間まで、【「読み書き」さえままならなかったインド人】が、なぜ【世界中の企業で重要なポストを占めるようになっている】のでしょうか。
それには、大きく分けて【三つの要因】が介在しています。
一つ目は、【「教育」】です。前項で説明したように、初等教育が普及したことももちろん大きく影響していますが、それだけではグローバル企業でのインド人の活躍は説明できません。【ポイントは「教育スタイル」にあります】。
例えば、【日本の教育スタイル】は、よく【「知識詰め込み型」】と言われます。初等・高等の区別に関係なく、【「知識を与えれば、後から理解がついてくる」というスタンス】で教育が行われています。【専門分野の教育】にも【同じ】ことが言えます。
一方、【インド】は【それとは正反対の教育スタイル】で、知識を与えることではなく、【本質的な概念を理解したり論理的思考を身につけたりするための教育に重点】が置かれています。「ゼロ」の概念を発見したのがインド人であることは有名ですが、かねてから【インド人】は、【本質を見抜いて新たな考え方や視点を作り上げること】を【得意】にしてきました。
初等・中等教育では暗記も重視されていますが、それでも【受け身一方の授業スタイルではなく、活発に質問するなど、能動的に授業を受けること】が【インド人の特徴】です。』

社会主義の三位一体説
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、日本人があまり知らないインドビジネスの潜在力 ・可能性を分かりやすく解説して下さっている書物で、日本経済新聞などによくある中国のプロパガンダ記事に騙されてばかりの日本のサラリーマン経営者には特におすすめで、我が国を上回るスピードで高齢化が進み、且つ、国民一人あたりGDPが 1 万ドルの壁を破れずにピークアウトし、ここから衰退の一途である中国経済とは正反対に、まだまだエネルギッシュな若年層が人口の多くを占め、且つ、国民一人あたりGDPも 2,000 ドル程度と十分な伸びしろがあるインド経済の凄さとその可能性を理解することができる良書になります。

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 600,159(599,907)÷33,480,811(33,469,185)=0.0179・・・(0.0179) 「1.79%(1.79%)」

イタリア : 127,101(127,038)÷4,247,032(4,245,779)=0.0299・・・(0.0299) 「2.99%(2.99%)」

日本 : 14,150(14,083)÷777,978(776,560)=0.0181・・・(0.0181) 「1.81%(1.81%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」・「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの、現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にある、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっている、そんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。
ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。
その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い、到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。
では、なぜ、それを目指そうとするのでしょうか?
それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとで、ある連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

さて、現在、ドイツ出身の社会学者・歴史学者であるロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について、一層理解を深めるために、次の論文を参考にしながら考えているところになります。

ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

☆『「寡頭制の鉄則」再考 : R・ミヘルスにおけるDemokratieとDemokratismus』 金山 準
予め理論の概要について、Wikipediaから以下に転記させて頂きます。
『 理論の概要
● あらゆる組織 ・集団 (共同体、団体) は、規模が拡大すれば必ず少数の指導者による支配が実現される。
● 組織 ・集団は、目的を実現するために多数の成員を集め、社会における発言権を強化しようとする。
● 成員が増加して規模が拡大していくにつれて、巨大な組織 ・集団の運営が複雑化 ・専門化していく (官僚制化)。
● 一般の成員は、複雑化 ・専門化した組織・集団を管理する技能を持たないため、少数の指導者たちに運営を任せ、依存するようになる。
● このことが少数の指導者たちが強大な権限を確保させ、一般成員の支配を可能とする。
● そして指導者たちは、地位を保持するために、自らを批判する者たちを排除しようとする (このことをミヒェルスはボナパルティズムと呼んでいる)。指導者らは、自らが一般の成員から選ばれたことを根拠にして、自らが民主制に則っていると主張する。そのうえで、批判する者を「反民主的」ないし 「反体制的」 「社会転覆を画策している」 などのように中傷する。
● さらに一般成員からの批判に対しては、指導者が辞意を表明して組織崩壊を暗示させることにより批判をねじ伏せ、その地位を強化していく。
● たとえ、一般成員の批判によって既存の指導者たちが辞任に追い込まれても、結局は指導部が入れ替わるだけで、本質的に寡頭制のしくみ自体は変わることがない。
以上の事柄は、巨大化した組織 ・集団が目的を実現するためには強い団結と統一した集団行動が必要不可欠となり、その結果一般成員 (大衆) は、少数の指導者に強大な権限を与え、それに服従しなければならなくなるということを示している。つまり、民主主義・平等社会実現のために、組織 ・集団内において民主主義 ・平等主義を捨て去らねばならないということである。
したがって、少数者による支配はあらゆる組織 ・集団において貫徹される不可避の鉄則となるというのが、ミヒェルスの寡頭制理論の概要である。』

それでは早速、続きを見て参りましょう。
『 Ⅳ. 「寡頭制の鉄則」 再考
本稿 Ⅱ、Ⅲ で検討してきた分析の結論が、有名な 「寡頭制の鉄則」 であるのだが、しかし 「鉄則」 とは、単なる悲観的な認識とは論理的に異なるはずである。寡頭制化を示す事実をどれ程集積しようとも、それをもって社会の一般法則が自明に導出されることにはならないからである。「鉄則」 という断定には、寡頭制化を示す分析や認識とは別の、何らかの方法論的前提が必要である。この点を問うのが本章の目的である。またこのことは、保守的決定論と倫理主義 ・主意主義との関係という、『政党』 において、またミヘルスにおいて最も重要な問題 (本稿 1 参照) を検討することにもつながる。この二側面については、例えばウェーバーもまた、その有名なミヘルス宛書簡で、以下のように述べている。
批判的な部分においては、この論文はきわめて正当であり申し分ないものだと思います。しかし ―― あなたはなおなんと多くの諦めに耐えねばならないのでしょう? 「人民の意志」、「人民の真の意志」 などといった概念は、はるか以前からもはや私には存在しておりません。それらは幻想にすぎないのです。
この書簡はウェーバー研究においては、サンディカリストの理想主義的 ・「心情 (信念) 倫理」 的態度に対して、政治に対するウェーバーのリアリズムを強調するという文脈でしばしば用いられる。この書簡で論じられているのは 『政党』 ではなく、『政党』 の骨格となった 1908 年の論文についてであるが、「正当」 な批判と 「多くの諦め」 という対は、『政党』 評としても的確である (デモクラシーや 「人民の意志」 という理念への強いコミットメントがなければ、そもそも 「多くの諦め」 も必要ない)。この二側面の内容、ならびに両者の不可分な関係性が、ここでの検討課題である。
3. 科学と精神
以上を踏まえた上で、上に挙げたミヘルスの結論を再度確認する。
歴史におけるデモクラシーの潮流は、不断に打ち寄せる波に似ている。それは、繰り返し岩にぶつかって砕ける。しかも絶えず新たな波が押し寄せる。その景観は、鼓舞と絶望の要素を同時に含んでいる。……青年の癒し難い理想主義と、老人の不治の支配欲との問の恐ろしい葛藤劇は、果てしなく続く。絶えず新しい波が同じ岸壁に襲いかかる。これが、政党の歴史の最も奥深くに見ることのできる本質である。
これが事実認識としてはモスカのそれに近いことは確認した。しかし以上の検討を踏まえるなら、まったく別の点に着目することが可能である。「波」 が 「鼓舞と絶望の要素を同時に含む」 という表現は、『政党』 の構造を端的に示している。本書においては、デモクラシーを求める強い実践的意識と悲観的認識とが強度の緊張関係を保ちつつ、その一方で両者が相乗的な関係にある。
『政党』 末尾では、Pessimismus ないし pessimistisch の語が使われているが、これは、以上で検討してきたミヘルス政治学の根本的な構造を、彼自身が端的に特徴づけた概念ということができる。もちろん、単なる悲観的世界観や歴史観であれば、この時代に限らず特段珍しいものではない。しかし彼の 「ペシミズム」 は、それらとは決定的に異なる特質と機能をもち、それが彼の主意主義と社会科学との関係とを根本的に規定している。その点について、以下二つの特徴に分け確認する。
第一に、「寡頭制の鉄則」 の 「鼓舞と絶望の要素を同時に含む」 性格が 『政党』 の根本にあることは以上で確認したが、ここでミヘルスにおいては、絶望や不幸の原因を社会から一掃する可能性は全く問題にされていないし (本稿 Ⅱ 参照)、そうすることが必ずしも望ましいとは考えられていない。たとえばそれは、彼の主意主義的 ・倫理主義的立場に明らかである (本稿 Ⅲ- 2 参照)。そこでは、労働者の生活水準向上が、社会主義にとって 「もっとも本質的な危険」 になりうるとされていた。彼の社会主義観にとってもっとも重要なのは、革命的理念 ・感情であり、不幸や絶望は、その理念を純化する機能をもつからである。
またここで第二に重要な点は、ミヘルスが述べる不幸や悲惨とは、誰にも明白な形で存在する実体的な不幸とは異なる、ということである。彼の述べる絶望や不幸とは、「科学的懐疑」 によって、いわば暴露 ・発見されたものである。たとえば彼は、『政党』 第二版出版の翌年に刊行された論文において以下のように主張する。
最終目的に立ち向かう大衆の革命的精神は、経済的な悲惨さとその苦しむ者の内に突然発生する希望の喜びとの綜合の成果であった。……。悲惨な状態に関する認識が、その悲惨な状態を最終的に一掃できるという可能性についての認識や想定と理念的な競合状態にあるとき、地上に現れた神の国に可能な限り早く参入しようという、燃えるような渇きが発生する。
「最終目的に立ち向かう大衆の革命的精神」 にとって、「悲惨な状態に関する認識」 は不可欠ものである。そしてもちろん、ここで述べられる 「大衆の革命的精神」 が、ミヘルス自身の 「非妥協主義的」 立場と対応していることは明白だろう。すなわち、悲惨や不幸に対する科学的認識 (「寡頭制の鉄則」) こそが、「革命的精神」 とデモクラシー実現への 「燃えるような渇き」 (Demokratismus) を喚起する。よって彼の倫理主義は、科学的認識を排除しないし、むしろそれを要請する。実際同論文においてミヘルスは、ベルンシュタインを参照しつつ、社会主義は 「科学」 としては認識に、そして 「運動」 としては経済的 ・道徳的関心に基づかねばならないという、「社会主義の三位一体 Dreieinigkeit」 を主張してしいる。
同様に、『政党』 においてもミヘルスは、「科学をまどわし、大衆をあざむく若干のあまりにも軽薄で表面的なデモクラシーの幻影をあばくことが、もっぱら重要であった」 と 『政党』 の意図を強調している。つまり、ミヘルスの述べる 「ペシミズム」 とは単なるナイーヴな悲観的認識をまったく意味しない、むしろそれは 「科学的懐疑」 であり、その 「科学的懐疑」 によって発見された 「悲惨な状態に関する認識」 が、それへの反抗としての主意主義を強固とする。さらにその主意主義は、翻って再度 「懐疑」 の徹底性を要求する。そのような主意主義と 「科学的懐疑」 をデモクラシーに特化して徹底した成果が 『政党』 であった。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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