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    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  経済学 >  ミクロ経済学で考える “囚人のジレンマ”

    ミクロ経済学で考える “囚人のジレンマ”

    JOSEPH STEALIN

    本日のキーワード : 囚人のジレンマ、価格引き下げ競争



    囚人のジレンマ(しゅうじんのジレンマ、英: prisoners' dilemma)とはゲーム理論におけるゲームの1つお互い協力する方が協力しないよりもよい結果になることが分かっていても協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなるというジレンマである各個人が合理的に選択した結果(ナッシュ均衡)が社会全体にとって望ましい結果(パレート最適)にならないので社会的ジレンマとも呼ばれる

    1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案したランド研究所のメリル・フラッドとメルビン・ドレシャーの行った実験をもとにタッカーがゲームの状況を囚人の黙秘や自白にたとえたためこの名がついている

    囚人のジレンマではゲームを無期限に繰り返すことで協力の可能性が生まれる囚人のジレンマは自己の利益を追求する個人の間でいかに協力が可能となるかという社会科学の基本問題であり経済学政治学社会学社会心理学倫理学哲学などの幅広い分野で研究されているほか自然科学である生物学においても生物の協力行動を説明するモデルとして活発に研究されている

    本日の書物 : 『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』 梶井 厚志 松井 彰彦 日本評論社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 次に表 1.3 を見てみましょう。

    表 価格競争

    これは【お互いに同じ価格をつけた場合】の計算結果です。お互いに正の純利益を得るための最低価格は 90 円です。まずお互いに 90 円をつければ共に 170 個ずつ売れるので 8,500 円の粗利益が出、純利益が 500 円となります。それに対し、ともに 80 円をつければ純利益は −800 円と赤字になってしまいます。しかし、【もしともに 90 円をつけている状態からどちらか一方が 10 円値下げをすれば市場を全部とれます】から販売量は独占のときと同じ 360 個となって 6,400 円の純利益が出ます (表1.1)。 ともに 90 円をつけている状態はともに正の利潤が得られる最低価格とはいえ【均衡とはならない】わけです。

    表 価格と儲け

     【赤字になっても価格競争は続く】ということがわかりましたが、それでは【なぜ赤字になっても営業を続けるのでしょうか】。それは主人が計算した【固定費用は、短期的には動かしようのないコストだから】です。確かに、パン屋の主人が、長い目で見て自分自身に費やすべき 6,000 円を費用の一部と計算したのは、パン屋の業績を長い目で見て評価するためには正しいのですが、店をたたんだからといって、すぐに他の仕事が見つかってその 6,000 円が回収できるというわけではありません。ですから、巻き込まれてしまった【価格競争を勝ち抜くためには、この 6,000 円は忘れてしまう必要があります】。50 円という低価格でも、売り上げ 1 単位あたり 10 円の正の粗利益は出ていますから、店閉まいをするわけにはいかないのです。もちろん、長期的に赤字が続くようであれば、店じまいしたほうが望ましいでしょう。

     【ゲーム理論】は【この価格競争の状態の本質】を【囚人のジレンマ】というゲームでうまく表現しています。』

    日の丸

    マルクス主義者が言う “科学” は、どれもこれも出鱈目ということ!


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、実際に大学生が教わる 「ミクロ経済学」 が、どういった考え方を学ぶものなのか、を一般的な教科書とはまったく違った形で記述されている正真正銘の教科書で、これまで 「ミクロ経済学」 に一度も触れたことがない人やもう一度勉強してみようという人にお勧めの書物になります。また、社会人で、論理的な思考を身に付けたいという方々にもお勧めで、論理的な思考である 「ゲーム理論」 の考え方が非常に分かりやすく理解できる良書になります。

    読書 4-107

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    planccpban.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 599,748(599,596)÷33,460,039(33,453,275)=0.0179・・・(0.0179) 「1.79%(1.79%)」
    planccpban1.jpg

    イタリア : 127,002(126,976)÷4,244,872(4,243,482)=0.0299・・・(0.0299) 「2.99%(2.99%)」
    planccpban2.jpg

    日本 : 14,023(13,991)÷775,624(774,237)=0.0180・・・(0.0180) 「1.80%(1.80%)」
    planccpban3.jpg























    egdusyed.jpg
    【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology  (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)

    さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」出発点として、その後人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にあるユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっているそんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。



    ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。

    その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。

    では、なぜそれを目指そうとするのでしょうか?

    それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとである連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

    ポイント 女性



    さて、現在、ドイツ出身の社会学者・歴史学者であるロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について、一層理解を深めるために次の論文を参考にしながら考えているところになります。

    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)
    ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

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    『「寡頭制の鉄則」再考 : R・ミヘルスにおけるDemokratieとDemokratismus』 金山 準

    予め理論の概要について、Wikipediaから以下に転記させて頂きます。

    『 理論の概要

    ● あらゆる組織 ・集団 (共同体、団体) は、規模が拡大すれば必ず少数の指導者による支配が実現される。
    ● 組織 ・集団は、目的を実現するために多数の成員を集め、社会における発言権を強化しようとする。
    ● 成員が増加して規模が拡大していくにつれて、巨大な組織 ・集団の運営が複雑化 ・専門化していく (官僚制化)。
    ● 一般の成員は、複雑化 ・専門化した組織・集団を管理する技能を持たないため、少数の指導者たちに運営を任せ、依存するようになる。
    ● このことが少数の指導者たちが強大な権限を確保させ、一般成員の支配を可能とする。
    ● そして指導者たちは地位を保持するために自らを批判する者たちを排除しようとする (このことをミヒェルスはボナパルティズムと呼んでいる)。指導者らは自らが一般の成員から選ばれたことを根拠にして自らが民主制に則っていると主張するそのうえで批判する者を「反民主的」ないし 「反体制的」 「社会転覆を画策している」 などのように中傷する
    さらに一般成員からの批判に対しては指導者が辞意を表明して組織崩壊を暗示させることにより批判をねじ伏せその地位を強化していく
    ● たとえ、一般成員の批判によって既存の指導者たちが辞任に追い込まれても結局は指導部が入れ替わるだけで本質的に寡頭制のしくみ自体は変わることがない

    以上の事柄は巨大化した組織 ・集団が目的を実現するためには強い団結と統一した集団行動が必要不可欠となりその結果一般成員 (大衆) は少数の指導者に強大な権限を与えそれに服従しなければならなくなるということを示しているつまり民主主義・平等社会実現のために組織 ・集団内において民主主義 ・平等主義を捨て去らねばならないということである

    したがって少数者による支配はあらゆる組織 ・集団において貫徹される不可避の鉄則となるというのがミヒェルスの寡頭制理論の概要である。』


    女性 ポイント ひとつ

    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 Ⅳ. 「寡頭制の鉄則」 再考

     本稿 Ⅱ、Ⅲ で検討してきた分析の結論が、有名な 「寡頭制の鉄則」 であるのだが、しかし 「鉄則」 とは単なる悲観的な認識とは論理的に異なるはずである。寡頭制化を示す事実をどれ程集積しようともそれをもって社会の一般法則が自明に導出されることにはならないからである「鉄則」 という断定には寡頭制化を示す分析や認識とは別の何らかの方法論的前提が必要である。この点を問うのが本章の目的である。またこのことは保守的決定論と倫理主義 ・主意主義との関係という『政党』 においてまたミヘルスにおいて最も重要な問題 (本稿 1 参照) を検討することにもつながる。この二側面については、例えばウェーバーもまた、その有名なミヘルス宛書簡で、以下のように述べている。


     批判的な部分においては、この論文はきわめて正当であり申し分ないものだと思います。しかし ―― あなたはなおなんと多くの諦めに耐えねばならないのでしょう? 「人民の意志」、「人民の真の意志」 などといった概念は、はるか以前からもはや私には存在しておりません。それらは幻想にすぎないのです。


     この書簡はウェーバー研究においては、サンディカリストの理想主義的 ・「心情 (信念) 倫理」 的態度に対して、政治に対するウェーバーのリアリズムを強調するという文脈でしばしば用いられる。この書簡で論じられているのは 『政党』 ではなく、『政党』 の骨格となった 1908 年の論文についてであるが、「正当」 な批判と 「多くの諦め」 という対は、『政党』 評としても的確である (デモクラシーや 「人民の意志」 という理念への強いコミットメントがなければ、そもそも 「多くの諦め」 も必要ない)。この二側面の内容、ならびに両者の不可分な関係性が、ここでの検討課題である。

    1. 政治科学と決定論

     『政党』 の結論は以下の通りである。


     歴史におけるデモクラシーの潮流は不断に打ち寄せる波に似ている。それは、繰り返し岩にぶつかって砕ける。しかも絶えず新たな波が押し寄せるその景観は鼓舞と絶望の要素を同時に含んでいる。……青年の癒し難い理想主義と老人の不治の支配欲との間の恐ろしい葛藤劇は果てしなく続く絶えず新しい波が同じ岸壁に襲いかかるこれが政党の歴史の最も奥深くに見ることのできる本質である


     「波 Gewoge」 の比喩ミヘルスの著作の決定的な場面に幾度か登場するが、寄せては返す波というイメージイタリア ・エリート論における 「ヴィーコ的」 歴史観に共通する特徴である (corsi e ricorsi)。パレートやモスカとミヘルスの関係について本稿で詳論する用意はないが、実際この認識がモスカの循環史観やパレートの 「エリートの周流」 とかなり相似している点は見やすい。たとえばモスカの基本的な認識は、次のようなものである。


     実際、文明人の歴史全体は、政治権力を独占してその維持を相続によって伝達しようとする支配的分子の傾向と、古い勢力を移動させ新しい勢力の反乱を起こそうとする傾向との闘争に帰着するといってもさしつかえないだろう。そして、この闘争は上層階級と下層階級の一定部分とのあいだの侵入と侵出の終わりなき争乱を生みだす。


     ビーサムによれば、彼の 「鉄則」 導出にはモスカとウェーバーの社会科学モデルが大きな影響を与えたという。それは端的には、一般法則の追求 (モスカ)「価値自由」 (ウェーバー) の理念である。両者からの仔細な影響関係については別のかたちでの検討を要するが、少なくともこの二つの社会科学的理念についてはミヘルス自身もたしかに明示している。『政党』 の冒頭には 「科学を愛し、誰をも害せず」 という辞が掲げられているが、議論の中でも彼はしばしばあらゆる価値理念や理想は相対的なものでありそれらの領域を論じることは 「科学としての政治学」 の領分ではないことを強調している「科学としての政治学」 にふさわしい問題設定とは彼によれば以下の通りとなる


     問題はいかにして理想的なデモクラシーを実現しうるかということではない。むしろどの程度までデモクラシーが (a) そもそも可能であるか、(b) 現在のところ実行できるか、そして (c) 望ましいか、ということであるこの場合 (c) は、政治および世界観の領域に属するものとしては、ここでのわれわれの関心事ではないこの問題設定を科学としての政治学の基本問題とすべきである


     結果彼の 「鉄則」、すなわち 「あらゆる人間集合は下位階級をつくりだす内在的傾向をもっているという法則は、すべての社会学的法則と同様に、善悪の彼岸にある」 とされることになる。これを見るかぎりミヘルスは、自身の 「鉄則」自然法則にも似た一般法則であり価値判断とは無縁な純粋に科学的なものとして考えていたようにも見える。

     また当然ながらこのような科学的法則は一般法則であるがゆえに実践的 「意志 Wille」 による変更を許さない。『政党』 以外の著作でも、寡頭制化の傾向は、「意志の作用のみによって変更できるものではない。われわれがここで扱わねばならないのは 『自然法則』 であり、それは善悪を超えている……。われわれの任務は純粋に科学的であり、政治的なものではない」 と強調されるつまり第一義的には 「鉄則」 は、実践的な 「意志」 の範囲を越えたものとして存在する。』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。









    続きは次回に♥




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