2021-06-17 (Thu)

本日のキーワード : 主意主義、決定論、マルクス主義者、ファシスト
主意主義(しゅいしゅぎ、英: voluntarism)とは、人間の精神(魂)中で、意志の働きを(知性・理性や感情よりも)重視する哲学・神学・心理学・文学上の立場のこと。知性・理性の働きを重視する主知主義(英: intellectualism)や、感情の働きを重視する主情主義(英: emotionalism)と対置される。
ただし、これはあくまでも相対的な立ち位置を表現するものであって、そこに絶対的な基準は無く、「何(どのような思想的立ち位置の人・集団)と対比されるか」に、その位置付けが依存していることに注意が必要。
決定論(けっていろん、英: determinism、羅: determinare)とは、あらゆる出来事は、その出来事に先行する出来事のみによって決定している、とする立場。
対立する世界観や仮説は「非決定論」と呼ばれる。

本日の書物 : 『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』 梶井 厚志 松井 彰彦 日本評論社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 本書では、主として【2人の経済主体の間の取引ないし交流】において発生する【戦略的な関係】を【人間関係の基本】と考えています。【経済分析】は、対象となっているさまざまな【経済現象】を、まず【2人の間のゲーム、あるいはその応用として捉える】ところからはじまります。議論は抽象的ですが、一部の例外を除き、【数学的には、2、3の数字の大小を根気よく比較できれば、理解できるよう工夫】しました。古典的な消費者・生産者理論がほとんど言及されないことに違和感を覚えられる方もいるかもしれません。しかし、私たちは【簡単なゲーム理論をつかった分析】で、【ミクロ経済分析の基礎を解説することは可能】であると考えています。そして【従来の教科書が議論のベンチマークとする古典的競争市場の理論】は、【むしろゲーム論的分析を学んだ後の方がより深く理解できる】と、私たちは考えています。さらに付け加えれば、従来の標準的なミクロ経済学を学んだことのある読者も、この本によって新しい視点を与えられるでしょう。
本書は【「ゲーム理論」の教科書】としても用いることができます。ただし、本書の性格上、ゲーム理論の中でももっともよく経済分析に用いられている手法のみを扱っています。また使用した事例やモデルは経済学的なものに限られます。』

主意主義的思考と決定論的思考との混在
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、実際に大学生が教わる 「ミクロ経済学」 が、どういった考え方を学ぶものなのか、を一般的な教科書とはまったく違った形で記述されている正真正銘の教科書で、これまで 「ミクロ経済学」 に一度も触れたことがない人や、もう一度勉強してみようという人にお勧めの書物になります。また、社会人で、論理的な思考を身に付けたいという方々にもお勧めで、論理的な思考である 「ゲーム理論」 の考え方が、非常に分かりやすく理解できる良書になります。

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 597,854(597,616)÷33,373,002(33,361,139)=0.0179・・・(0.0179) 「1.79%(1.79%)」

イタリア : 126,588(126,523)÷4,233,698(4,232,428)=0.0299・・・(0.0298) 「2.99%(2.98%)」

日本 : 13,606(13,531)÷764,184(762,964)=0.0178・・・(0.0177) 「1.78%(1.77%)」



☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、ドイツで生まれた「キリスト教神智学(Christian theosophy)」・「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」を出発点として、その後、人為的に造り出された “幻想” であるところのマルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想を経て、ソ連崩壊とともに死滅したかに思われたものの、現在に至るまで一貫して受け継がれていく “信仰” が存在していて、その根底にある、ユダヤ・キリスト教的な 「贖罪(しょくざい)」 の意識により、さまざまな “アイデンティティ” を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物として “罪” を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になっている、そんな 「極左おパヨク」 に繋がる一連の系譜について確認して参りました。
ここで御理解頂きたいのは、そんなおバカな 「極左おパヨク」 は、飽くまでも、ある連中が果たそうとしている、ある目的の達成のための道具でしかないということです。
その目的とは、さまざまな “アイデンティティ” を意図的に粗製濫造することで、社会分断を行い、到底達成不可能な目標である “平等 (equality)” を強要(←全人類の均一化・同質化などは不可能であることは自明です!)し、多くの人々に対して自己抑圧的な態度の徹底を促し(←これが、ポリコレw)、人々の “自由” を奪う極めて権威主義的な統制社会の再構築を目指す、というものです。
では、なぜ、それを目指そうとするのでしょうか?
それは、「寡頭制 (oligarchy/オリガルキー)」のもとで、ある連中にとって非常にコントロールしやすい社会が構築できるからです。

さて、本日からは、ドイツ出身の社会学者・歴史学者であるロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)が提唱した仮説である 『寡頭制の鉄則』 (iron law of oligarchy)について、一層理解を深めるために、次の論文を参考にしながら考えて参りたいと思います。

ロベルト・ミヒェルス(ロベルト・ミヘルス)

☆『「寡頭制の鉄則」再考 : R・ミヘルスにおけるDemokratieとDemokratismus』 金山 準
予め理論の概要について、Wikipediaから以下に転記させて頂きます。
『 理論の概要
● あらゆる組織 ・集団 (共同体、団体) は、規模が拡大すれば必ず少数の指導者による支配が実現される。
● 組織 ・集団は、目的を実現するために多数の成員を集め、社会における発言権を強化しようとする。
● 成員が増加して規模が拡大していくにつれて、巨大な組織 ・集団の運営が複雑化 ・専門化していく (官僚制化)。
● 一般の成員は、複雑化 ・専門化した組織・集団を管理する技能を持たないため、少数の指導者たちに運営を任せ、依存するようになる。
● このことが少数の指導者たちが強大な権限を確保させ、一般成員の支配を可能とする。
● そして指導者たちは、地位を保持するために、自らを批判する者たちを排除しようとする (このことをミヒェルスはボナパルティズムと呼んでいる)。指導者らは、自らが一般の成員から選ばれたことを根拠にして、自らが民主制に則っていると主張する。そのうえで、批判する者を「反民主的」ないし 「反体制的」 「社会転覆を画策している」 などのように中傷する。
● さらに一般成員からの批判に対しては、指導者が辞意を表明して組織崩壊を暗示させることにより批判をねじ伏せ、その地位を強化していく。
● たとえ、一般成員の批判によって既存の指導者たちが辞任に追い込まれても、結局は指導部が入れ替わるだけで、本質的に寡頭制のしくみ自体は変わることがない。
以上の事柄は、巨大化した組織 ・集団が目的を実現するためには強い団結と統一した集団行動が必要不可欠となり、その結果一般成員 (大衆) は、少数の指導者に強大な権限を与え、それに服従しなければならなくなるということを示している。つまり、民主主義・平等社会実現のために、組織 ・集団内において民主主義 ・平等主義を捨て去らねばならないということである。
したがって、少数者による支配はあらゆる組織 ・集団において貫徹される不可避の鉄則となるというのが、ミヒェルスの寡頭制理論の概要である。』

それでは早速、見て参りましょう。
『 Ⅰ. はじめに
ロベルト・ミヘルス Robert(o) Michels (1876-1936) の 『現代デモクラシーにおける政党の社会学 Zur Soziologie des Parteiwesens in der modemen Demokratie 』 (初版1911年。以下本稿では 『政党』 と略記する) は、組織 Organisation における 「寡頭制の鉄則 das eheme Gesetz der Oligarchie 」 テーゼによって現代まで 20 世紀政治学の古典とされる。たとえば S. M. リブセットは 『政党』 英語版序文において、本書を 「 20 世紀でもっとも影響力の大きい書物のひとつ」 と称した。しかしそのリプセットの言とほぼ同時期に、S. ノイマンは本書を 「広く引用されるが、まれにしか読まれない」 古典と評してもいる。実際、『政党』 についてはこれまで、「マキャヴェリアン」 ・エリート理論 ・組織理論や実証的政治学の嗜矢、「多元主義」 デモクラシー論の嗜矢など、多様なレッテル貼りがなされてきたものの、本書はきわめて複雑な構成と内容をもち、その論理構造の把握は必ずしも容易ではない。むしろ現在に至るまで、『政党』 と 「鉄則」 を貫く内的論理についての統一的見解はないといってよい。
本稿の目的は、ミヘルスの 「鉄則」 の理論的意義と 「鉄則」 導出の論理を、『政党』 を中心としてミヘルスに内在的に再検討することである。それはまた、20 世紀後半の 「多元主義」 デモクラシー論へとつながる 「エリート論」 や、20 世紀の政治学について通常語られる 「科学化」 という文脈にはおさまらないミヘルス像を提示することとなるだろう。ミヘルスはしばしば、20 世紀の政治科学における (時代的限界をもった) 先駆者と見なされてきた。もちろんそれはそれとして正しいのかもしれないが、本稿ではむしろ、そのような単線的把握では捉えられない側面にこそ、ミヘルスを検討する意義が存すると考えている。ただしこのことは、ミヘルスを単なる 「非合理主義的」 サンディカリストとしてのみ解することを意味しない。むしろここで重要な点は、彼のそのような (ファシズムへの接近をも予感させる) 側面こそが、「鉄則」 の発見と彼の 「科学的政治学」 とに不可分に結び付いていたという点である。この点が、本稿の根本的なモチーフとなる。そして以上の視点よりミヘルスを再考することは、単にミヘルスだけの問題にとどまらず、20 世紀初頭の西欧において広範な潮流となった「反実証主義 antipositivism 」 の問題系を再考する上での一つの手がかりを提供するものとなるだろう。
ミヘルスについては、『政党』 や 「鉄則」 の政治学的意義とは別に、ケルンの富裕な商家に生まれ、ウェーバーの弟子であるマルクス主義者として知的経歴を出発し、やがてサンディカリズムやモスカらのエリート論を経由してファシストとして死ぬ、という 「特別な人生経験」 の面からも研究者の関心を引いてきた。このようにきわめて複雑で多様な経歴自体についての検討は、本稿の目的ではない。ただし、このような個人史をもつミヘルスとその政治学の根本的な性格について、ごく単純化するなら研究史上二つの大きな流れがあったといってよい。すなわち、「心情 (信念) 倫理家」 ・サンディカリスト ・ソレル的主意主義者 ・「ロマン主義的政治家」 という像 (リンス、レーリッヒ、ミッツマン) と、モスカの政治学やウェーバーの 「価値自由」 理念に影響を受けた主知主義的 ・実証主義的 「科学者」 という像 (ビーサム) の二つの対極的な解釈である。
実際このような対立軸は、ミヘルス自身の議論の中にも見てとることができる。例えばミヘルスは 『政党』 第四部第二章で、(ミヘルス自身もそうであったところの) 社会主義運動に身を投じるブルジョア階級出身の知識人について、二つの類型を挙げている。第一に、ただ客観的な目的のみを追求し、「他のすべての事物を科学および科学の成果のために犠牲にすることができる」 科学者。第二に、「あらゆる不正に対する高貴な嫌悪」、「弱者 ・貧者への共感」、「偉大な理念の実現への献身」 などの感情に貫かれた、「情熱家」。ミッツマンやレーリッヒの解釈からすれば第二の類型が、ビーサムからすれば第一の類型が、ミヘルス自身の姿を示しているということになるのだろう。
しかし本稿では、このいずれかの側面だけによって 『政党』 ないしミヘルスを解釈することは不可能であると考えている。むしろこの両側面の併存こそが、彼の政治学における決定的に重要な特徴である。近年の研究のなかでもっとも重要と思われる P ・フェッラーリスの見解もまた、単純なサンディカリスト = ミヘルス像に反駁し、「実証主義的な青年」 ミヘルスは、「科学的客観主義と、政治的 ・社会的な義務についての主観的な感覚」 を同時に備えていた、とするものである。彼によれば、「理論的社会主義」 と 「実践的社会主義」 という関心は、交互に入れ替わりつつ繰り返しミヘルスに現われるモチーフであるという。フェッラーリスの研究はその文献学的な意義とともに、理想主義と実証主義とが単純に対立するものではないことを当時の知的状況に即しつつ示した点で重要である。ただし彼は、ミヘルスにおけるこの両側面がいかなる論理によって結合しているのか充分突き詰めて論じていないし、そもそも青年期 (1901-1907年) のミヘルスを検討対象とした彼の研究においては、主著 『政党』 は直接的な議論の対象ではない。それに対して本稿の関心は、この両側面が、主著 『政党』 においていかなる論理によって併存し、結合しているのか、という点にある。主意主義と科学的決定論という軸で言えば、後述するように、主意主義的思考と決定論的思考は必ずしも共存し得ないわけではない。むしろミヘルスにおいて、両者は時に、緊張とともに強い親近性をももったのであり、この点こそが 『政党』 の根本的な構造を成している、と本稿では考えている。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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