2021-05-09 (Sun)

本日のキーワード : 以和爲貴、十七条憲法、聖徳太子、アイデンティティ
以和爲貴(和を以て貴しと為す)とは、「皆で仲良くやりなさいよ」だとか「角をたてずにみんな仲良く」という意味ではなく、「立場や価値観の違いは尊重した上で、共通の目標のために力を出し合う」、「納得のいくまで、とことん話し合う」という意味。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 儒教という言葉をどう定義するかにもよるが、【宗教としての儒教】は、【ニ世紀末の後漢時代に事実上滅びている】。本来の儒教は、先祖を祀ることを重んじ、その儀礼をいちいち定めた信仰であった。いわば【葬式専門の学派】だったらしく、葬式や副葬の儀礼についてはひどくうるさい。墨家の文献に 『非儒篇』 というのがあり、その中に当時の儒家について書かれている部分があるが、それによると、【儒家】というのは【人が死ぬとやって来て、屋根に上がってホイホイと魂を呼んだり、鼠の穴をほじくって出てこいと叫んだりする】ので、【バカバカしくてしょうがない】とある。どうやら【これが儒教の本来の姿、つまり一般民衆の生活に根ざした姿】であったようだ。
二章でも述べたように、一八四年に【黄巾の乱】が起こって【後漢帝国が崩壊】し、【元来の “漢族” は事実上絶滅した】わけだが、【その漢族の信仰する儒教も、ここで 「死んだ」 のである】。それまでの儒教は後漢の国教になったほどであり、隆盛を極めていた。しかし、その隆盛ぶりも、黄巾の乱で皇帝の権威が失墜し、【秘密結社の信仰する道教】が勢力を得ると、あたかも夢まぼろしのごとくになってしまったのである。
ここで、「宗教としての」 という言葉を付けたのにはわけがある。つまり 「宗教ではない」 儒教はこれ以後も残ったからである。』

他者との可知化できない関係性を尊重し、そこに参画しようとすること ← すでに聖徳太子が指摘していること
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 577,077(576,616)÷32,415,345(32,382,541)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 121,177(121,033)÷4,044,762(4,035,617)=0.0299・・・(0.0299) 「2.99%(2.99%)」

日本 : 10,342(10,281)÷605,150(599,250)=0.0170・・・(0.0171) 「1.70%(1.71%)」



☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。


☆『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
3 新たなアイデンティティの語り
3.1 個体主義から関係性へ
・・・決定という概念とは、決定する主体とは何かという問いを喚起するため、一見、従来どおりの自律した本質的な主体観を呼び覚ますかのように見えるかもしれない。決定の場において、決定しようとする主体が、何らかの形で立ち上がってくることは否定できない。しかしその場合の主体は、構築主義的な視点に依拠するならば、決定のすべての過程を支配しうるものではなく、その決定が行われようとしている場、すなわち、他者に直面して、その他者との関係の場に参画しようとする瞬間に限定されたものである。
つまり、そこで起きる決定そのものは、これまで何度も論じてきたように、その関係に内在する多義性 ・偶発性の所産であり、誰にも可知化しえないものである。そしてその結果も、双方の (事前の) 主体に影響していくため、その意味では、それぞれの主体は永遠に不完全でしかありえない。しかしながら、その一方で、決定の場に向かおうとする時には、いかなる主体も何らかの足場 ・位置が必要となるはずであり、それがなければ、そこで他者との関係性を生むことも、何らかの決定をすることもできなくなってしまう。決定がないということは、そこに生ずるかもしれない関係性を規則へと還元し、結局は主体を従属化させていくことはすでに論じてきたとおりである。「主体を主体の位置に効果的に縫合するためには、主体が 「呼びかけられている」 だけでなく、主体がその位置に投資することが必要」 なのである (ホール2001: 16)。
とするならば、この決定の場そのものに参画するということ、すなわち、他者との可知化できない関係性を尊重し、そこに参画しようとすることこそが、主体性のより根源的な意味であり、我々は、そのためにも主体を、さまざまな他者との間に関係性を作り上げていく位置 ・契機として定位し直していく必要が出てくるのではないだろうか。先述のラクラウとムフは、この次元での主体には 「主体」 ではなく 「主体位置 subject positions」 という言葉を当てている。
そしてその位置が、やはり所与のものではなく、歴史的にさまざまな他者との間で構築されてきたことに気づくならば、我々はようやく構築主義的な転回を名実ともに果たしうる段階にきたと言えるだろう。つまり、主体 (位置) の歴史的構築性とは、けっして主体の無根拠性を意味しているのではなく、むしろ、主体を関係性に向かって起動させ、より根源的な主体性を十全に発揮させるためには不可欠であると考えられるのである。主体は、それ自体が歴史的に作られていく多種多様で可変的な位置だからこそ、さまざまな他者との間で豊かな関係性を生み出し、決定を行っていくことができるのではないだろうか。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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