2021-05-08 (Sat)

本日のキーワード : 個体主義、個人主義、全体主義、アイデンティティ
個体主義(こたいしゅぎ)とは、世界は個体からなり、それらだけが真実在であって、普遍的なものは第二義的、非本質的なものにすぎないとする立場。個体を個々人ととれば、個人主義を意味する。
個人主義(こじんしゅぎ、英: individualism、仏: individualisme)とは、国家や社会の権威を否定して個人の権利と自由を尊重する立場。あるいは共同体や国家、民族、家の重要性の根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く思想。ラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する。対語は、全体主義・集団主義。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 さて、これらのエピソードに登場したのはすべて【道教の神】であるが、わざわざ道教の話を選んで紹介したわけではない。【中国人】のほとんどは、【儒教の神ではなく、道教の神に祈る】のである。
【中国人の宗教】は何だと質問されれば、皆さんはどうお答えになるだろう。おそらくほとんどの方は儒教と答えることだろう。中国はあの偉大な孔子様の生まれた土地であり、その教えは人々の心に深く根付いていると考えるのは当然である。世界の宗教分布などという資料を見ても、【中国から朝鮮半島にかけては儒教徒が大半を占めるという記述】は今日でも多々、見受けられる。実のところ、私もそう思っていたひとりである。
そんな私に意外な事実を教えてくれたのは、ワシントン大学で客員教授をしていたころの同僚であった中国人の教授である。その人が、あるとき、私に向かってこんなことを言った。
「【日本人は中国人を儒教徒だと思っている】でしょう。いや、日本人だけじゃない。アメリカ人もフランス人も、みなそう思っている。とんでもない。たしかに【表面は儒教徒】かもしれないが、【本質は道教徒】なんです」
それまで中国人は儒教徒だと信じて疑わなかった私は、この言葉にひどく驚いた。【過去の文献を読むかぎり、中国は儒教の国のように見える】。
だが、考えてみれば、【文字で書かれた文献】に残っているのは【皇帝や知識人たちの姿、それも理想化された姿】であって、【大多数の庶民の本当の姿ではない】。つまり、【儒教は知識人階級の宗教】であって、【一般の人々には縁のないもの】である。』

「二元論的」に見るのではなく、「多元論的」に見るということ
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 576,616(575,815)÷32,382,541(32,333,463)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 121,033(120,807)÷4,035,617(4,022,653)=0.0299・・・(0.0300) 「2.99%(3.00%)」

日本 : 10,281(10,199)÷599,250(593,264)=0.0171・・・(0.0171) 「1.71%(1.71%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。


☆『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
3 新たなアイデンティティの語り
3.1 個体主義から関係性へ
・・・たしかに、デュモンの 『個人主義論考』 (デュモン1993) でも明確に指摘されているように、個体主義は西洋的な思考一般に根深く浸透している知の枠組の一つであって、それを解体することは容易ではない。しかしながら、近年の構築主義的な視点を徹底させるならば、個体とはどんなものであれ、あくまでも作られたものであって、ゆえに個体間の関係も可変的で部分的でしかない。つまり、安定的な規則 ・基準も、それに基づいた安定的な関係も個体も、根源的にはけっして存在しないことになるわけだが、とするならば、これまで看過されてきた関係性という問題とは、まさにこの関係の一時性や部分性をどう評価し語り直していくか、にかかってくる。
この点に関しては、同様の問題意識に立ち、近年 「根源的民主主義」 の提唱者としても名高いムフやラクラウの議論が非常に興味深い。彼らは、その議論の過程で、「敵対性」 という関係に注目した (ラクラウ&ムフ2000: 3 章)。敵対性は、これまでしばしば論理的矛盾や現実的対立として理解されてきたが、彼らによれば、それだけでは不十分であるという。そもそも矛盾および対立とは、敵対性を、概念的または現実的にすでに可知化 ・対象化されたもの同士の関係と見なした上での議論である。ところが実際には、論理的な矛盾も現実的な対立も見られないのに、敵対関係が生まれ、事実上の対立へと化していくことも少なくない。このことを理解するには、そこに構築主義的な視点を導入する必要があるという。つまり、すべては不完全かつ多義的な性格に浸透されているという視点を前面に出すならば、個々具体的に発現する関係とは、そうした多義性のなかで偶発的になされる重層的な決定の産物にすぎないことになる。ゆえに、それを完全に可知化 ・対象化することはできず、或る対立が別の文脈ではそうではなくなることも、その逆もあり、その意味では、敵対性とはすべての関係に必然的に内在していることが浮かび上がってくるのである。

このことから、ラクラウとムフは、敵対性とは 「みずからを完全に構成することの不可能性」 (ラクラウ&ムフ2000: 200) の徴候であると述べ、そうした社会の不確定性へと議論を進めていく。ただしここで若干立ち止まって、この敵対性が、関係を、従来のように規則や基準へと還元しない概念であることにさらに着目するならば、それは、まさに関係の関係性そのものを評価する言葉であるとも言えるだろう。そこには、敵対性と表裏をなすという意味での 「友人関係」 という言葉を加えることもできる。つまりどんな関係も、互いがそれぞれに重層的で多義的であるがゆえに、その間も重層的かつ偶発的に関係が決定されていくという意味では、「敵/友」 関係を基盤としていると考えられるのである。そこからは、固定的な 「我々/彼ら」 関係のみに帰結しない関係を模索することも可能になってくる。ムフはさらに、他者とは、異同の指標によって排除へとつながる 「敵 enemy」 ではなく、敵対関係にはあるが相手を認め合い時には連帯しうる相手としての 「対抗者 adversary」 と見なしていくべきだという議論も展開している (ムフ1998: 8)。これは、「 我々/彼ら 」 関係という二律背反的な連帯/排除の関係から、「 敵/友 」 関係という多義性と偶発性を重視する関係観への積極的な転回である。

そしてこの関係観は、たしかに 「ゆっくり休める夜」 (ホール1990: 79) を保証する安定的な社会やアイデンティティを生み出すものではないが、だからといって何の足場もなく混乱した社会像へとつながってしまうわけでもないことにも注意したい。むしろそれは、我々がその時々の関係において行う 「決定」 の重要性を示唆しており、この決定という考え方には、まさに従来の主体論を根本的に再考するきっかけが含まれている。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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