2021-05-07 (Fri)

本日のキーワード : 先入観、漢文、中国人
先入観(せんにゅうかん)は、対象認識において、誤った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。そこから脱するには、すべての不確実なものを一度は疑うべきだとデカルトは述べている。人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。広義(広域)的には、「既成概念」や「固定観念」なる言葉も この類に含まれる。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 話を戻そう。【日本人】は、そのような【漢文を一所懸命に読んで、中国や中国人を理解しようとしてきた】。そして、中国は古来から変わらず、信義に篤く、礼を尊ぶ文化人の国であると信じてきた。
これでは、実際の中国や中国人を見れば、ショックを受けるのは当然である。
漢文に書かれていた、【美化された中国人】と、【現実の中国人】との【ギャップ】に出会ったとき、たいていの日本人は中国人を嫌いになり、もう二度と中国に行きたくないと思うようになる。また、それとは逆に「こんなはずはない」と言って、【漢文を通じて築き上げた中国人イメージ】のほうが正しく、現実の中国人のほうが「間違っている」と思う人も珍しくない(中国史学者の中には、そういうタイプの人間が多い)。
これだけ情報化が進み、往来も便利になったというのに、【日本人の中国理解がいっこうに深まらない最大の原因は、ここにある】と私は考えている。つまり、【日本人は中国人に会う前からイメージを膨らませすぎ】ていたために、【客観的な観察ができない】。情が先に立ってしまっているから、【理が働かない】のである。
【漢文に書かれている中国・中国人像】は、いわば【「ユートピア」物語】である ―― そのように理解してこそ、真の中国が見えてくる。そのことを、私は読者にぜひ助言したい。』

きわめて個体主義的な発想の「啓蒙主義的主体観」、「社会学的社会観」
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 575,815(574,853)÷32,333,463(32,268,569)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 120,807(120,544)÷4,022,653(4,009,208)=0.0300・・・(0.0300) 「3.00%(3.00%)」

日本 : 10,199(10,052)÷593,264(580,666)=0.0171・・・(0.0173) 「1.71%(1.73%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。


☆『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
3 新たなアイデンティティの語り
3.1 個体主義から関係性へ
さてこうしてみると、我々は今こそ、関係性という概念を積極的に評価していくことによって、アイデンティティ概念を新たに定位し直していく必要があるだろう。
そもそも我々はこれまで、社会であれ個人であれ、それらを或る全体性をもつ個体として想定する傾向が高く、その意味ではきわめて個体主義的な発想に支配されてきたと言える。もちろんその典型は、既述の啓蒙主義的な主体観や社会学的な社会観に見られるが、ここで言う全体性 ・個体性とは、それ自体の独立性や完結性だけを意味するものではない。
たとえば、社会学的な議論における個人は、けっして独立した存在ではなく、社会の一部分として他の個人とともに社会を形成していると見なされているため、一見、個人の部分性や関係性を前提としているように思われる。しかしながら、そこでの個人と個人との関係は、社会によってすでに規定されているか、規定されるべきものとされており、とするならば、そこで一義的な問題となっているのは、既述のように、関係性ではなく規則である。そして個人は、そうした基準や規則を内在化した (すべき) 存在、すなわち社会化された (されるべき) 単位となり、やはり個体的に扱われていると言えるだろう。ここからは、個人を社会の雛形と見なす構図が浮かび上がってくるが、しかもこの構図が、主体が実は 「従属」 であったという近代の機制(※しくみ、機構)と同じものであることに気づくならば、そもそも近代的な主体性という概念とは、こうした個体的発想を前提として生まれ、それを強化する装置であったと推察することもできる。
この発想のもとでは、関係性という問題は、個体間をただ調整するための規則 ・基準という形でしか想定されえず、実際、今のところはそうした議論にとどまっている。もちろん、規則や基準のない個体間の関係もある。しかしその場合も、いずれは規則 ・基準が見出されることが期待され、関係性はせいぜい、あらかじめ規則によって調整されている個体間と、これから調整すべき個体間の二つに下位区分されるにすぎなくなっていくのである。
そしてこの区分が、異同という指標に対応していることも、もはや明白だろう。すでに調整されている個体同士とは、同じ基準を持つという意味では同じものである。一方、基本的に調整できないものは、互いに違うものと見なされる。もちろんそこに何らかの調整の基準が見出せれば、両個体は上位の基準 (個体) へと組み込まれていくが、そうでなければ、独立する個体のまま互いに争い排除しあうことになる。この動きは、主体の本質性 ・独自性という、さらなる個体主義のイデオロギー装置によって正当化され激化していくことも少なくない。近年のアイデンティティ問題の根源とは、このように個体を基準とし個体化を目指そうとする動きにあると言うこともできる。

では、こうした個体主義的な発想を廃して、関係性そのものを十全に評価していくことはできないのだろうか。個体主義に囚われない関係性とは、一体どんなものなのだろうか。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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