2021-05-06 (Thu)

本日のキーワード : グルメ、中国人、食人
食通(しょくつう)とは、料理の味や料理の知識について詳しいこと。またそれを詳しく知っている人物のことである。フランス語を用いてグルメ (gourmet) ともいわれる。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【中国の歴史家】にとっては、【慢性的な飢餓】など【書く必要もないこと】なのである。それは第一に庶民のことであって、【皇帝の正統とは何ら関係のないこと】である。そして、【慢性的な飢餓】など、【中国においてはあまりに当然のこと】だから、【あえて書くまでもない】のである。「太陽が東から昇って、西に沈んだ」と記す歴史家がいないのと同じことだったわけである。
【中国の歴史書】が【書き残すのは、よほど極端な飢餓が発生したような場合のみ】である。つまり、【「人相食(ひとあいは)む」(人肉を食べる)ほどの飢餓】であれば「書くに値する」が、普通の飢餓を書く必要などない。
【漢文に書かれたことを鵜呑みにしていては駄目】だ ―― それよりも【「なにが書かれていないか」に注目しなければ、本当の中国は見えてこない】 ―― 私は、彼女の言葉で初めて、それを痛感したのである。
「人相食む」という言葉が出たので、【中国の食人風習】について一言しておきたい。【中国人】においては【人肉を食べること】は【しばしば行われてきたこと】で、【「人相食む」というのはけっして比喩的表現ではない】。
【中国の歴史は、食人の歴史と言っても過言ではない】。古代に遡れば、殷の紂王は二人の諸侯を殺し、塩漬け肉と干し肉にしたとあるし、また周の文王の息子をスープにして、それを父・文王に食べさせたともある。
殷の紂王の話は伝説としても、漢の高祖(劉邦)が項羽と天下を争ったとき、項羽が劉邦の父を捕まえ、「劉邦よ、お前が降伏しないのであれば、お前の父を煮て食ってしまうぞ」と脅かした。すると、劉邦は平然として「おれにも一杯、そのスープを分けてくれ」と言ったという。
中国では、仇敵の肉を食べて、そのうっぷんを晴らすという話は多い。彼らにとっては、敵の肉を食べ、またその皮を敷いて寝るのは、ひじょうに愉快な話に属すらしい。
また、【人肉】は【栄養食の中でも最も優れたものとされた】ので、しばしば親孝行な息子が父母の病気を治すために、自分の股の肉を切り取って食べさせたという「美談」も数多い。そのくらい、【中国人にとって食人はポピュラーなことである】のだから、【食料が欠乏し、ついになにもなくなってしまえば、ただちに共食いを始める】。』

今の自分と昔の自分 ~ 同じ? 違う?
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 574,853(574,280)÷32,268,569(32,225,012)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 120,544(120,256)÷4,009,208(3,994,894)=0.0300・・・(0.0301) 「3.00%(3.01%)」

日本 : 10,052(10,052)÷580,666(580,666)=0.0173・・・(0.0173) 「1.73%(1.73%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。


☆『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
2 アイデンティティ論の現在
2.3 異同は関係性か
・・・そもそも同一と思われているものも、先述の構築主義的な視点から見れば、歴史的文化社会的な産物であり、あくまでも或る具体的な文脈のなかで、一時的かつ部分的に同じものとして出現し認識されたものである。たとえば、今の私と昔の私が同じであるということ、私が日本人であるということ、さらには私と彼女が日本人として同じであるということ等々、これらの関係では、そのどれをとっても完全に同一律が成立しているわけではない。それらは互いに部分的には同じかもしれないが、当然のことながら違いも大きく、可変的でもある。しかし、それでも同一だという主張がなされるのは、そこにはたとえ一部ではあっても恒常的に同じものがあるはずであり、それこそを肝要と見なす考え方が、議論の最初から暗黙の前提として与えられているためである。
この恒常的な同一性を重視するという与件は、まさに本質という概念に相当し、それが既述の啓蒙主義的な主体観と同根の臆見(おっけん/いい加減におしはかった考え)であることは明らかだろう。同じか否かという判断は、主体を本質視しているからこそ重視され、同時に、その判断は主体をさらに本質化していく。異同という指標は、いかに一時的 ・部分的等々の保留を付けようとも、同じものである 「我々」 と、異なるものである 「彼ら」 という分類 ・分断を容易に生み出し、そこに本質という物語を滑り込ませ、その分類 ・分断をさらに根拠づけてしまう危険性を有しているのである。
そして、この異同の判断とは、その区別の基準をどこかに想定しながらなされていることに気づくならば、そこには、さらに重要な問題が浮かび上がってくる。それは、異同という関係とは、果たして関係性と言えるものなのか、という問いである。
実際、判断基準が存在する (と期待されている) ということは、それが誰のものであれ、すべてがその基準によってすでに計算され決定されている (と期待されている) ことを意味している。とするならば、そこで一義とされているのは、関係性ではなく基準や規則であるに違いない。そもそも関係性という問題は、基準 ・規則が不確定で計算が不可能であるからこそ、論ずべき問題として表面化してくるものではないだろうか。エピグラフのラクラウとムフの言葉を繰り返すならば、「関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる」。つまり、けっして事前に計算することはできず、一回ごとの交渉のなかで個別に決定されるしかないからこそ (あるいは、関係をそうした視点で考えるからこそ)、その関係が関係性として意味を持ってくるのである。にもかかわらず、そこに異同という指標を介入させるならば、その途端、問題はそれを判断する基準 ・規則へと還元され、関係性は喪失してしまう。そしてそこに残されるのは、せいぜい異同の基準が誰のものかという、基準の正当性をめぐる争いでしかなく、その結果が、上記のような 「アイデンティティ政治」 の現状であると推察される。それはけっして、関係性をめぐる争いではない。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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