2021-05-03 (Mon)

本日のキーワード : 文字、漢字、ひらがな、カタカナ
文字(もじ)とは、言葉・言語を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 秦の始皇帝が行った【漢字の統一】は、当然のことながら、【書き言葉と話し言葉】の【乖離】、つまり【分断】をもたらすものであった。【漢文】は、中国語を表記するという役割を失い、【まったく別の言語体系】というべきものになった。
そもそも始皇帝にとっては、帝国内の【行政文書の統一】しか念頭になかったのだから、それも当然のことである。
言語は生き物であると言うが、こと【漢文】においては、【変化はあってはならないもの】になってしまった。いつでも、どこでも通用する(といっても、漢文の「解読法」を心得た一部の知識人だけにとってではあるが)ことこそが、漢文の使命なのである。
つまり、【漢文とは人為的に制定された言語】であり、しかも【変化を許されない言語】なのである。もちろん、【そのような言語は世界中探しても、どこにも存在しない】。
このような【漢文がもたらす弊害の大きさ】は、あらためて指摘するまでもないだろう。…ほとんどの中国人にとって【漢文】は【理解不能】である。漢文は中国人の財産でなく、【一部の人間のもの】でしかなかった。
そして、【中国人たちは近代になるまで、自分たちが「話している言葉」を書き表わす手段がなかった】。つまり【中国人】は【20世紀になるまで、自前の「文字」がなかった】のである。

現代中国語をいくらマスターしても、それが漢文解読能力に繋がらないのは、そのためである。いまの中国語の表記は、話し言葉をなるべく忠実に表記しようということから生まれた(その試みが成功しているかどうかは、ここではあえて問わない)。つまり、漢文とはまったくその根本から異なっているのである。
【日本人】は【中国を指して「文字の栄える国」などと言う】が、【それはまったくの間違い】なのである。』

マルクスやフロイドに繋がる系譜 ~ 主体に始まり主体に終わるという論法
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 572,361(572,109)÷32,100,846(32,063,938)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 119,539(119,238)÷3,971,114(3,962,674)=0.0301・・・(0.0300) 「3.01%(3.00%)」

日本 : 9,968(9,936)÷571,904(568,584)=0.0174・・・(0.0174) 「1.74%(1.74%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。


☆『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
2 アイデンティティ論の現在
2.2 主体は解体したか
・・・ここで以上の主体をめぐるさまざまな議論をもう一度見直してみるならば、まず、そのどれもが、主体性という問題を、基本的には、各個人が社会や他の人々に左右されずに有している独自の意思や言動と見なしていることが浮かび上がってくるに違いない。その典型は近代啓蒙主義的な主体観だが、社会学の論争や、啓蒙主義的な主体の 「次」 を模索する議論においても、それらが想定し積極的に評価しようとしているのは、この意味での主体性である。つまりこれまでの議論は、それがどんなものであれ、主体をそれ自体で独立した存在と見なすという与件を捨てきってはいないのである。そこで実際に論議されていたのは、その意味での主体性が、個人の行動のどこまでを覆っているのかという、いわば主体性の度合いでしかなかったとも言える。このことは、我々がいまだに、主体性とはそもそも何のことなのかについて、本格的な問い直しをしていないことを意味しているだろう。
もちろん、この前提に異を唱える議論もすでに多くなされている。たとえば、その一つは、フッサール、ハイデッガー、メルロ = ポンティなどの議論を受け継ぎ、間主体性、間身体性、世界内存在などの言葉を積極的に用いながら論じている一群である。そこでは、これらの用語に端的に示されているように、主体性の生成には他との関係こそが必須であり、むしろ他との関係という機制(※しくみ、機構)にこそ、主体性という問題の根元があるという主張がなされている。ホール (Hall 1992) は、こうした議論の系譜をマルクスやフロイドにまでたどっているが、スパイロ (Spiro 1993) も述べているように、そもそも近代西洋においても、主体観は啓蒙主義一色に染まっていたわけではなく、いわば関係主義的なそれも盛んに論じられ続けてきた。また同様の考え方は、近年のアイデンティティ論においても引き継がれている (Hall 1995) 。それは、そもそもアイデンティティとは、他との差異がなければ成立しないという議論である。にもかかわらずこの差異が、近代の論理の浸透のもとで自他の異同という考え方へと転換していくことによって、主体の同質性・純正性・本質性という考え方が生み出され、ひいては主体を自立的な個体として設定することになってしまったという批判が、この種の議論の主眼となっている。
とはいえ、こうした議論の広がりにかかわらず、いまだに主体論が近代的な幻想から解放されていないように見えるのは、それらの批判や再考論においても、実は、従来と変わりない与件が、もう一つ存在しているためではないかと考えられる。それは、これらの議論がいかに従来の主体観を批判または否定し、そこに他者との関係などの観点を新たに導入しようが、その考察は最終的には、主体や自分という問いに到達・回帰してしまうという点である。
このことは、たしかに、主体を主題とする議論なら当然のことだと言われるかもしれない。しかし、主体性という問題が、他者との関係や差異として論ずべきものなら、議論の中心もそこに移るべきではないだろうか。実際、現在注目されている他者との関係や差異という言葉は、新たな主体性を考察し描写するための道具や形容詞にとどまっているように見える。間主体性、間身体性、主体の脱中心化、断片化、ハイブリッド化、多元的アイデンティティ、さらにはエイジェンシーなど、そのすべては、主体(従来の主体の批判)に始まり主体 (新たな主体の模索) に終わるという論法の域を出ておらず、いまだに主体こそがすべての議論の中心をなしている。そして、こうした主体への最終的なこだわりこそ、主体をいつのまにか個として実体化し、そこに本質という観念を滑り込ませてしまった原因であり結果であると思われる。つまり主体論とは、その問題定立のあり方にまで遡るならば、それが他者との関係や差異という問題を論ずることそのものであるというパラダイムへと、今や、より積極的に移行すべき時期に来ていると考えられるのである。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキング


- 関連記事
-
- 「道教」 は、老子の教えに基づいたものではなく、長い歴史を持つ “秘密結社” です! (2021/05/10)
- ほとんどの日本人が知らない “儒教の本来の姿” (2021/05/09)
- 中国は儒教の国、という間違った思い込み (2021/05/08)
- 日本人の中国理解がいっこうに深まらない最大の原因 (2021/05/07)
- グルメな中国人にとって非常にポピュラーなこと (2021/05/06)
- 日本の庶民階層と中国の庶民階層との違い (2021/05/05)
- ただひたすらに “模倣” を繰り返す中国人が持つ、その世界観 (2021/05/04)
- 20世紀になるまで、自前の「文字」がなかった中国人 (2021/05/03)
- 「漢文 = 中国語」 と勘違いしている日本人 (2021/05/02)
- 「日本」「日本人」というアイデンティティが誕生したのは、いつ頃でしょうか? (2021/05/01)
- 建国以来、20世紀に入るまで日本は、中国と正式に国交を持ったこともありませんし、持とうと思ったこともありません! (2021/04/30)
- 日本人は中国や中国人のことをなにも知らない (2021/04/29)
- 現代まで受け継がれている支那伝統の “朝貢(ちょうこう)” ~ 権力者による 「国内向けのコマーシャル」 (2021/04/28)
- もしも、13億人の中国人が一緒になったら、どうなるの? ~ 日本人と中国人では結果がまったく異なる『三本の矢』 (2021/04/27)
- いわゆる “中国語” の実態は、てんでばらばら(笑) (2021/04/26)