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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  支那 >  20世紀になるまで、自前の「文字」がなかった中国人

    20世紀になるまで、自前の「文字」がなかった中国人

    We all know

    本日のキーワード : 文字、漢字、ひらがな、カタカナ



    文字(もじ)とは言葉・言語を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと

    本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 秦の始皇帝が行った【漢字の統一】は、当然のことながら、【書き言葉と話し言葉】の【乖離】つまり【分断】をもたらすものであった【漢文】は、中国語を表記するという役割を失い、【まったく別の言語体系】というべきものになった。

     そもそも始皇帝にとっては、帝国内の【行政文書の統一】しか念頭になかったのだからそれも当然のことである。

     言語は生き物であると言うが、こと【漢文】においては、【変化はあってはならないもの】になってしまった。いつでも、どこでも通用する(といっても、漢文の「解読法」を心得た一部の知識人だけにとってではあるが)ことこそが漢文の使命なのである。

     つまり、【漢文とは人為的に制定された言語】であり、しかも【変化を許されない言語】なのである。もちろん、【そのような言語は世界中探しても、どこにも存在しない】

     このような【漢文がもたらす弊害の大きさ】はあらためて指摘するまでもないだろう。…ほとんどの中国人にとって【漢文】は【理解不能】である漢文は中国人の財産でなく【一部の人間のもの】でしかなかった

     そして、【中国人たちは近代になるまで、自分たちが「話している言葉」を書き表わす手段がなかった】つまり【中国人】は【20世紀になるまで、自前の「文字」がなかった】のである。

    子供 笑う 女性

     現代中国語をいくらマスターしても、それが漢文解読能力に繋がらないのは、そのためである。いまの中国語の表記は、話し言葉をなるべく忠実に表記しようということから生まれた(その試みが成功しているかどうかは、ここではあえて問わない)。つまり、漢文とはまったくその根本から異なっているのである。

     【日本人】は【中国を指して「文字の栄える国」などと言う】が、【それはまったくの間違い】なのである。』

    日の丸

    マルクスやフロイドに繋がる系譜 ~ 主体に始まり主体に終わるという論法


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々にまさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが非常によく理解できると思います(笑)

    読書 女性 4-23

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    tmlzxasdwq.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 572,361(572,109)÷32,100,846(32,063,938)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」
    tmlzxasdwq1.jpg

    イタリア : 119,539(119,238)÷3,971,114(3,962,674)=0.0301・・・(0.0300) 「3.01%(3.00%)」
    tmlzxasdwq2.jpg

    日本 : 9,968(9,936)÷571,904(568,584)=0.0174・・・(0.0174) 「1.74%(1.74%)」
    tmlzxasdwq3.jpg















    egdusyed.jpg
    【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology  (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)

    さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります

    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
    ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)

    世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

    イマヌエル・カント
    イマヌエル・カント

    たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
    ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

    世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

    カール・マルクス
    カール・マルクス

    私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

    1895年のレーニン
    ウラジミール・レーニン

    われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

    W・E・B・デュボイス(1918年)
    W・E・B・デュボイス(1918年)

    世界のことは忘れて。 私はどうなるの?  私は二つ意識の一部です。 助けて!

    ポイント 女性

    御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これ明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることでより一層理解し易くなります

    マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

    女性 ポイント これ

    しかしその“とある宗教”の信者らは、大失敗のあとさまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。





    FDA Caught Buying Fresh Aborted Baby Body Parts From Dealer

    FDA Caught Buying Fresh Aborted Baby Body Parts From Dealer2
    『Federal Government Caught Buying ‘Fresh’ Flesh Of Aborted Babies Who Could Have Survived As Preemies』

    Mark Zuckerberg is at Little St James Island

    そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

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    『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子

    それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。

    『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)

    自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)

    関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)


    2 アイデンティティ論の現在

    2.2 主体は解体したか

     ・・・ここで以上の主体をめぐるさまざまな議論をもう一度見直してみるならば、まず、そのどれもが主体性という問題を基本的には各個人が社会や他の人々に左右されずに有している独自の意思や言動と見なしていることが浮かび上がってくるに違いない。その典型は近代啓蒙主義的な主体観だが社会学の論争や啓蒙主義的な主体の 「次」 を模索する議論においてもそれらが想定し積極的に評価しようとしているのはこの意味での主体性であるつまりこれまでの議論はそれがどんなものであれ主体をそれ自体で独立した存在と見なすという与件を捨てきってはいないのであるそこで実際に論議されていたのはその意味での主体性が個人の行動のどこまでを覆っているのかといういわば主体性の度合いでしかなかったとも言える。このことは我々がいまだに主体性とはそもそも何のことなのかについて本格的な問い直しをしていないことを意味しているだろう。

     もちろん、この前提に異を唱える議論もすでに多くなされている。たとえば、その一つは、フッサール、ハイデッガー、メルロ = ポンティなどの議論を受け継ぎ、間主体性間身体性世界内存在などの言葉を積極的に用いながら論じている一群である。そこでは、これらの用語に端的に示されているように、主体性の生成には他との関係こそが必須であり、むしろ他との関係という機制(※しくみ、機構)にこそ主体性という問題の根元があるという主張がなされている。ホール (Hall 1992) は、こうした議論の系譜マルクスやフロイドにまでたどっているが、スパイロ (Spiro 1993) も述べているように、そもそも近代西洋においても主体観は啓蒙主義一色に染まっていたわけではなく、いわば関係主義的なそれも盛んに論じられ続けてきたまた同様の考え方は近年のアイデンティティ論においても引き継がれている (Hall 1995) 。それは、そもそもアイデンティティとは他との差異がなければ成立しないという議論である。にもかかわらずこの差異が、近代の論理の浸透のもとで自他の異同という考え方へと転換していくことによって主体の同質性・純正性・本質性という考え方が生み出されひいては主体を自立的な個体として設定することになってしまったという批判が、この種の議論の主眼となっている。

     とはいえ、こうした議論の広がりにかかわらず、いまだに主体論が近代的な幻想から解放されていないように見えるのはそれらの批判や再考論においても、実は、従来と変わりない与件がもう一つ存在しているためではないかと考えられる。それは、これらの議論がいかに従来の主体観を批判または否定しそこに他者との関係などの観点を新たに導入しようがその考察は最終的には主体や自分という問いに到達・回帰してしまうという点である

     このことは、たしかに、主体を主題とする議論なら当然のことだと言われるかもしれないしかし主体性という問題が他者との関係や差異として論ずべきものなら議論の中心もそこに移るべきではないだろうか実際現在注目されている他者との関係や差異という言葉は新たな主体性を考察し描写するための道具や形容詞にとどまっているように見える間主体性間身体性主体の脱中心化断片化ハイブリッド化多元的アイデンティティ、さらにはエイジェンシーなど、そのすべては主体(従来の主体の批判)に始まり主体 (新たな主体の模索) に終わるという論法の域を出ておらずいまだに主体こそがすべての議論の中心をなしている。そして、こうした主体への最終的なこだわりこそ主体をいつのまにか個として実体化しそこに本質という観念を滑り込ませてしまった原因であり結果であると思われる。つまり主体論とは、その問題定立のあり方にまで遡るならば、それが他者との関係や差異という問題を論ずることそのものであるというパラダイムへと、今や、より積極的に移行すべき時期に来ていると考えられるのである。』


    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。









    続きは次回に♥




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