2021-05-02 (Sun)

本日のキーワード : 漢籍、漢文、漢字、中国語
漢籍(かんせき)とは、中国において著された書籍であり、日本で著された和書(国書)に対応する分類として用いられる。漢書(かんしょ、からぶみ)とも言う。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 さて、日本という国家は20世紀になるまで、中国と正式な国交を持たなかったわけだが、その一方で、日本人は無数の【漢籍】を大陸から持ち帰り、それを読み込んできた。日本文化が、こうした中国文化の刺激を受けつづけてきたのは事実である。現代の日本では、漢籍を読める人は減ったけれども、その教養の伝統は消え去ったわけではない。誰でも『論語』や漢詩の名句は知っているし、また、日常用語の中に、漢籍起源のものも少なくない。
しかし、そうした【漢籍による教養】が【中国人や中国理解に役立ったか】と言えば、【これは絶望的なほど「ノー」なのである】。明治以降、どれだけ多くの日本人が、【漢籍を通じて身に付けた中国人イメージ】に感動し、それを求めて大陸に渡り、【現実とのギャップに失望・幻滅】して帰ってきたか分からない。『史記』や『三国志』に登場するような、信義や礼に篤(あつ)い中国人に出会うはずなのだが、現実にいるのは、油断も隙もならない連中ばかり…。これは、いったいどういうことなのだろう。
【その最大の原因は、実は漢文にある】、というのが私の主張である。何と、【漢文を通じて中国人を理解すること】ぐらい、【絶望的に不毛な行為】はないと言えるほどなのである。
そもそも、【日本人は漢文=中国語と思っている】が、【これはまったくの誤解である】。少なくとも、この二千年間というもの、【漢文は中国語とはまったく関係ない】。だから【漢文をいくら読んでも、生身の中国人を理解できない】のも当然のことなのだ。それを、これから説明していきたい。』

アイデンティティ論の根元的な問題
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 572,109(571,812)÷32,063,938(32,034,323)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 119,238(119,021)÷3,962,674(3,949,517)=0.0300・・・(0.0301) 「3.00%(3.01%)」

日本 : 9,936(9,888)÷568,584(563,977)=0.0174・・・(0.0175) 「1.74%(1.75%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。

☆BREAKING: Egypt Just Seized The Ever Given!

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
2 アイデンティティ論の現在
2.2 主体は解体したか
さてこうしてみると、現在のアイデンティティ論は、構築主義的転回を果たしたかに見えながらも、その根元的な問題にはまだメスを入れるに至っていないことが明らかになってきた。そしてその問題とは、端的に言うならば、本質的なアイデンティティが無ければ主体性や連帯は成り立たないのか、という問いに凝縮される。とするならば、我々はここで、そもそも主体性とはいったい何のことなのか、連帯とはいったいどんな関係なのかについても、さらに本格的な考察を展開していく必要がある。
まず主体という概念に関してだが、それがアイデンティティ概念の中心的な問題の一つである (少なくとも、あった) ことは改めて指摘するまでもない。このことは、すでに述べたように、アイデンティティという語の隆盛が、特にコロニアル批判と時期を同じくしていたという経緯に最も端的に表れている。アイデンティティは、主体性を剥奪されてきた者たち、いまだ主体性を確立していない者たちの主体性を主張し希求する声として機能することが少なくなかった。
とはいえ、そこで希求されていた主体性は、実は、その 「死」 が宣言されてからすでに久しい概念であるとも言われている。主体の 「断片化」 「脱中心化」 「ハイブリッド化」 等々の言葉が流布しているように、少なくとも、自立的 ・自発的で負荷をもたない一貫した主体というあり方は、近代の臆見(おっけん/いい加減におしはかった考え)にすぎないことは今や十分明らかになっている。しかも、そうした自立した主体という考え方が、主体を権力に 「従属」 させるための装置であったということも、特にアルチュセールやフーコー以降さかんに指摘されてきた。ゆえに現在の主体論は、 「主体の後に誰が来るのか」 という問いのもとで、新たな主体のあり方やそれに代わるものを模索しようとする議論へと移行しつつある。先述のエイジェンシーという言葉も、その一つである。
しかしながら、その試みはまだ中途でしかなく、きわめて混乱した状況にあることは、たとえば、まさに 『主体の後に誰が来るのか』 というタイトルを冠した論集 (ナンシー編1996) を一読すれば分かるだろう。たしかにこれまで主体に想定されていた独自性なるものは幻想に過ぎないとしても、だからといって主体の全てが権力に還元されるなら、我々の行動はその枠を出ることはなくなってしまうからである。この問題は、特にコロニアルな状況下で他者化された者たちにとっては、いっそう深刻である。彼らは、現段階ではしばしば十分な主体として認められておらず、その承認は急務である。ところが、主体が近代の産物にすぎないなら、安易な主体の主張は、結局近代の権力装置への参画・荷担を意味することとなり、さらには別の他者を作ってしまうことにもなる。ただし、それを危惧するばかりでは、何もできずにコロニアルな現状を変化させる方図すら失ってしまうだろう。では、このジレンマを解決するにはどうしたらよいのか、今のところは、既述のようにせいぜい 「戦略的本質主義」 という対処療法に頼るしかないのである。
また、同様の問題は、以上の啓蒙主義的な主体観とは別の (むしろ全く逆の) 個人観に依拠している社会学的な議論でも起きていることも付け加えておきたい。社会学は、周知の通り、とくにデュルケーム以降、 「個人に対しては外在し、個人の上に否応なく影響を課する」 (デュルケーム1978: 54) 社会的事実を研究の主眼とする一方で、個人をいわば過度に社会化された存在として設定してきた。しかしこの個人観は、個人の主体性を無視しているとすぐに批判されるところとなった。その結果、主体性という観点をどう取り入れて、社会と個人の関係をどう理論化していくかが、現在にいたるまでの社会学の枢要な論点の一つとなった。いわゆる 「個人 ― 社会」 問題である。実際、あまりにも社会学的な個人観に対しては、象徴的相互行為論やエスノメソドロジーなどの主観主義的なアプローチの創出も試みられてきたし、現在では、たとえばギデンズに代表されるように,その両者を積極的に調停していこうとする理論も模索されている。しかし、いまだ論争に決着はついておらず (アレグザンダー他1998)、主体性という問題は、社会理論においても的確に定位できないままになっている。
では何故、こうした行き詰まり状況が、多くの分野で、かくも長い間続いているのか。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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