2021-04-27 (Tue)

本日のキーワード : 三本の矢、中国人、日本人
三子教訓状(さんしきょうくんじょう)は、中国地方の戦国大名・毛利元就が1557年(弘治3年)に3人の子(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)に書いた文書。
(三矢の教え)
晩年の元就が病床に伏していたある日、隆元・元春・隆景の3人が枕許に呼び出された。元就は、まず1本の矢を取って折って見せるが、続いて矢を3本を束ねて折ろうとするが、これは折る事ができなかった。そして元就は、「1本の矢では簡単に折れるが、3本纏(まと)めると容易に折れないので、3人共々がよく結束して毛利家を守って欲しい」と告げた。息子たちは、必ずこの教えに従う事を誓った。
本日の書物 : 『この厄介な国、中国』 岡田 英弘 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 さて、文化大革命のピークにおいても、毛沢東ですら気ままに政敵を処刑できなかったという話を書いたが、これに少々、補足しておきたい。
もちろん、毛沢東ほどの権力を握っている人間ならば、一時的には秩序や法的手続きを無視して統治することは可能である。しかし、そのようなことをつづけていくと、【いかなる権力者であっても、やがては弱点を突かれて足をすくわれる】という結果になってしまう。
そもそも、【中国では絶対独裁ということは不可能】なのである。
というのも、【中国では人間関係はつねに流動的】であり、絶えずそのメンバーは抗争をつづけている。どんな最高権力者であっても、信頼できるのは自分の身内くらいしかいないのである(そうは言っても、前述のとおり、妻も本当のところは信頼できないのだが…)。
だから、【中国における最高権力者の政権基盤】というのは、【案外脆弱なもの】である。合従連衡の微妙なバランスのうえに成り立っている。そこで【最高権力者がしばしば用いたのが、外交なのである】。
つまり、【内部からのサポートは期待できない】から、【利害関係のない外部からのモラル・サポート(精神的援助)を得ようというわけ】である。
【中国人】というのは、あれだけ内部で抗争を繰り広げているのに、【外部からの声には意外に弱い】。というよりは、内部の声だけでは収拾が付かないので、【外部の手助けを求めている】というのが実態に近いかもしれない。
【中国人】の面白いのは、【中国人だけの学会や会議】であっても、【必ずひとりは外国人を出席させる】。それはなぜかといえば、中国人だけで話し合っていては、みんなが自分の利害に従って勝手な主張を始めるため、会議の席順ひとつ決まらないからである。
『醜い中国人』を書いた柏楊(ボーヤン)は、日本人と中国人を比較して、次のように書いている。

「 日本人は、ひとりずつ見ると、まるで一匹の豚のようだ。しかし、【三人の日本人が一緒になると、まさに一匹の竜になる】。日本人の団結精神が、日本を向かうところ敵なしにした。【戦争をしたら、中国人は日本人に勝てない】。【商売をしても、日本人には勝てない】。(中略)
中国人は、ひとりずつ見ると、一匹の竜のようだ。【中国人はひとりなら】、その場所が、研究室にしろ、試験場にしろ、とにかく【人間関係を必要としない状況なら、ひじょうにすばらしい仕事をすることができる】。しかし、【三人の中国人が一緒になると】、つまり三匹の竜が一緒になると、【たちまち一匹の豚、いや一匹の虫にさえも及ばなくなる】。なぜなら【中国人のもっとも得意なのは、派閥争いと内ゲバだから】…」
まさにこのとおりで、会議の席順を決めるのでさえ、中国人が三人集まれば、それを内ゲバの材料にしてしまう。そこで、【外国人にお出ましいただいて、裁定を下してもらう】。そうすると、それまで罵りあいをしていた中国人が、【実におとなしくそれに従う】のである。』

アイデンティティという概念は、もはや 「賞味期限切れ」 ?
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、およそ20年前に出版されたものですが、そこから現在に至るまで相も変わらず、「中国」というものを正確に理解できない(=トンチンカンな幻想を抱く)日本人が数多く存在していて、開いた口が塞がらない状況にあるのですが、そのような方々に、まさに“打って付け”の内容となっており、是非とも正しい「中国」理解を広く一般国民に知らしめるべく、当ブログが自信を持ってお勧めする良書になります。学校教育で教え込まれる「中国」のイメージが、如何に実態とかけ離れているのかが、非常によく理解できると思います(笑)

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 567,966(567,422)÷31,783,960(31,700,126)=0.0178・・・(0.0178) 「1.78%(1.78%)」

イタリア : 117,633(117,243)÷3,891,063(3,878,994)=0.0302・・・(0.0302) 「3.02%(3.02%)」

日本 : 9,682(9,629)÷542,467(537,494)=0.0178・・・(0.0179) 「1.78%(1.79%)」


☆【日本語訳】 U.S. DEPARTMENT of STATE / Fact Sheet : Activity at the Wuhan Institute of Virology (米国務省 / ファクトシート : 武漢ウイルス研究所での活動)
さて、これまで、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)から始めて、それを受け継いできた人々についてその流れを追ってまいりました。彼らが言っていたことを、簡単に表現したものを列挙致しますと、次のようになります。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである

イマヌエル・カント
たとえ世界を直すことができなくても、私たちは常に世界を直すことができると仮定して行動しなければならない

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
世界が固定されていたとしても、私たちは無意識のうちに分裂を起こし、世界が再び崩壊し始めることになる

カール・マルクス
私たちには、世界を壊したいという衝動はない。もし私たちが世界を壊すとすれば、それは私たちが社会とその主人たちからそうすることを学んだからである。

ウラジミール・レーニン
われわれは、世界を固定するために、意識の統一を強行しよう

W・E・B・デュボイス(1918年)
世界のことは忘れて。 私はどうなるの? 私は二つ意識の一部です。 助けて!

御覧のように、その根底に存在しているのは、ユダヤ・キリスト教的な「贖罪(しょくざい)」の意識になります。キリスト教ならば、イエス・キリストが磔刑に処せられたことを以て、人類の罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いであるとし、人類に救いをもたらす(もたらした)とする、そんな意識です。ですから、これは明確に宗教的な思考・思想であり、これら一連の流れ・系譜は、なんらかの“ひとつの宗教”であると考えることで、より一層理解し易くなります。
マルクス主義・共産主義・社会主義という類の妄想も、“とあるひとつの宗教”から生み出された「贖罪」の意識であり、それは“物質的”なものでしかありませんでした。だからこそ、大失敗に終わったとも考えられるわけですが。。。

しかし、その“とある宗教”の信者らは、大失敗のあと、さまざまな“アイデンティティ”を次から次へと粗製濫造することによって、「贖罪」の対象物としての“罪”を創り出し、自らの罪に対する償(つぐな)い・贖(あがな)いを果たそうと躍起になることとなります。

そこで現在、次の論文を参考にさせて頂きながら、その“アイデンティティ”について、果たしてそれは一体どのようなものであるべきなのかについて考えているところになります。

☆『アイデンティティ概念の再構築の試み : イタリア人アイデンティティという事例とともに』 宇田川 妙子
それでは早速、昨日の続きを見て参りましょう。
『 近代的なるものは、差異からアイデンティティを構成するのではなく、アイデンティティから差異を構成する。(クロスバーグ1998: 162)
自分にさわって自分の手を握りしめるたびに、そう、 「私」 と私は言った。しかし私は誰にそう言ったのだろうか。そして誰にとっての「私」なのか。私はひとりきりだった。(Pirandello 1992: 126)
関係は完全な全体性からではなく、完全性を構成することの不可能性から生じる。(ラクラウ&ムフ2000: 199)
1 はじめに
アイデンティティ ― これは、もともとは主に哲学の分野における同一律・同一性問題という議論のなかで用いられていた言葉である。しかしながら 20 世紀の半ば、周知のとおり、エリクソンが精神分析学の用語として使用して以来、他の学問分野および一般にも急激に普及するようになった。そこには、いっそう複雑化し流動化していく現代社会のなかで、主体的でかけがえない自分 (自分たち) というアイデンティティの物語が自明性を失っていくとともに、だからこそ獲得しうるものとして新たに位置づけられるようになった社会事情が深く関与していると言われている。

エリク・ホーンブルガー・エリクソン
そして、グローバル化現象を通じてその複雑性・流動性がさらに増しつつある現在、この言葉は、たとえば 「アイデンティティ政治」 などの表現に代表されるように、さらなる論争の的になっている。セルフ・アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティ、エスニック・アイデンティティ、ジェンダー・アイデンティティ、カルチュラル・アイデンティティ等々、今やアイデンティティという言葉は、さまざまな冠をかぶりつつ百花繚乱状態の体をなしているのである。
もちろん、たとえば日本においては、この語彙は外来語のまま流通してきたためか、一般にはそれほど馴染みがあるとは言えないかもしれない。たとえこの言葉を用いていても、違和感を訴える人も多い。しかし、それを 「私 (私たち) は○○である」 という意識であり主張であると言い換えるなら、そうした意識の確立や表明がきわめて重要な論点であることは、今や誰もが同意するであろう。
また、現在のさらなる問題とは、各自(各集団)が自らのアイデンティティを主張することによって、互いのアイデンティティをめぐる闘争が激化しているという点である。アイデンティティは、獲得すべきものとして積極的に意味づけられている一方で、その追求が社会全体の共約可能性を閉ざしかねないという弊害にも注目が集まっている。そしてここには、昨今の主体概念をめぐる議論も深刻な影響を与えている。
主体がそれ自体で自立し統一したものであるという考え方は、今やよく知られているように近代以降に作り出された幻想である。しかもそれが、人々を権力へと効率的に取り込む装置であることも明らかになってくると、アイデンティティの追求とは、実はそうした近代の営為を一歩も出ていないどころか、その権力の強化にもつながってしまうのではないか、という疑念も出てきたのである。そしてこの問題は、そもそもアイデンティティとは本質的に決定されているものではなく歴史のなかで社会文化的に構築されてきたにすぎないとする議論とも連動し、このいわば構築主義的な論調によって、従来までのアイデンティティ概念の基盤は、現在急激に崩れつつある。もはやアイデンティティという概念を 「賞味期限切れ」 とする見方も少なくない。』
ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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