2021-01-14 (Thu)

本日のキーワード : 神智学、ヤコブ・ベーメ
神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
本日の書物 : 『百田尚樹の日本国憲法』 百田 尚樹 祥伝社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 外交の権限を持っていた朝廷はどう対応したらいいかわからず、右往左往するばかり。そこで【時宗】は、【元とは交渉しないことを決断】しました。その後も元は何度も使者を派遣してきましたが、【時宗は黙殺】し続けます。元が強国であることは、南宋と貿易をしていた鎌倉幕府も知っていました。それでも、【時宗は屈しない】。【国を預かる宰相としての覚悟】が見て取れます。
文永一一(1274)年10月5日、フビライは元と、征服した高麗との連合軍を送り込んできました。その数、約3万人。【文永の役】の始まりです。元・高麗軍は対馬(現・長崎県対馬市)、壱岐島(現・長崎県壱岐市)の順に侵攻して多くの島民を虐殺。この時、捕虜とした女性たちの掌(てのひら)に穴を開け、そこに縄を通して船縁(ふなべり)に吊したと伝わっています。日本人に恐怖を与え、降伏させようとしたのです。その後、元・高麗軍は九州の博多に上陸します。
【九州の御家人たちは勇敢に立ち向かいました】。元・高麗軍の集団戦法と「てつはう(鋳鉄製の球に火薬を詰めて破裂させ、爆発音などで敵を混乱させる武器)」などに苦しめられたものの、元・高麗軍にかなりの損害を与えています。
10月20日(新暦11月26日)夜、元・高麗軍の軍船は突如、海上に撤退します。その理由は、本来の目的が威力偵察だったからという説もありますが、御家人たちの反撃で大きな損害を被ったからという説もあります。そして、海上に引き上げた元・高麗軍の船の多くが沈没しました。かつては台風によるものと言われていましたが、新暦の11月終わりは大型台風が来る季節ではなく、その記録もありません。現在、台風説は否定されており、帰還中に大きな時化(しけ)に巻き込まれた可能性が高いようです。』

神の意志に反逆する「悪」への自由
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「マルクス主義」と同様に我が国を蝕み、さらには日本国民の生命と安全を守らない口実を与える根拠となっている「THE・日本国憲法」の、どこがどう問題で、なにがどれほど異常なのか、が簡単に理解できる良書で、いわゆる「おパヨクの砦」である「THE・日本国憲法」を廃止し、本来あるべき「天皇陛下がしらす日本国の憲法」を新たに創設するためにも、知っておきたい事実が数多く紹介されているお薦めの良書となります。

それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。
(死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)
※( )内は前回の数値

☆Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE
アメリカ : 362,983(359,784)÷21,416,016(21,213,347)=0.0169・・・(0.0169) 「1.69%(1.69%)」

イタリア : 77,291(76,877)÷2,220,361(2,201,945)=0.0348・・・(0.0349) 「3.48%(3.49%)」

日本 : 3,674(3,609)÷267,065(259,495)=0.0137・・・(0.0139) 「1.37%(1.39%)」

続いて、昨日に引き続きまして、次の論文を読み進めることで、「社会主義」・「共産主義」の世界観について確認して参りたいと思います。

☆『社会主義・共産主義的世界観の特質と問題点 :剰余価値学説と唯物史観の批判的検討(2)』筒井正夫
それでは早速見て参りましょう。
『 社会主義・共産主義的世界観の特質と問題点
剰余価値学説と唯物史観の批判的検討(2)
Ⅱ 唯物史観とその問題点
ここでは剰余価値学説とともに社会主義・共産主義的世界観の根幹をなす今一つの柱である唯物史観について、その概要をまず示し、その上で問題点を検討しよう。・・・
2 問題点
以上、唯物史観の内容を概説し、未曾有の影響力を持ちえた理由の一端を考察してきた。だが、この唯物史観は多大な問題をはらんでいる。次にそれを、1)・2)・3) の内容に即して検討していこう。
(1)下部構造の上部構造規定論について
・・・実際に社会主義国家のもとでは、下部構造の経済全般を計画経済によって統制するためさらに膨大な官僚機構=国家機構が必要となり、しかもブルジョア社会のような議会はかつてのブルジョアジーによる支配機構として否定されるから(レーニンの言質を想起)諸利害の調整も十分機能せず、計画経済は「労働者階級の独裁体制」のもと専制的・強権的に実施されるために、少数の共産党指導部と官僚による剰余価値の独占と民衆支配が苛烈に行われることになる。この段階でこそ国家は、共産党指導者による民衆支配のための暴力装置という性質を最も露骨に獲得することになるのではないだろうか。レーニンが暴力革命の遂行や「社会主義経済を「組織」する事業において膨大な住民大衆、すなわち農民、小ブルジョアジー、半プロレタリアートを“指導”するため」に必要とした中央集権的な権力組織や暴力組織、すなわち共産党のための軍隊、警察、諜報機関、情報機関、これ等党と国家の諸機関が、どれだけ専制的な暴力機関となって政敵や諸階級を打ちのめし謀殺したか、計り知れないのである。
さて以上みてきた、下部構造の階級関係が上部構造の性格を規定するという関係把握は国家に限ったことではない。『共産党宣言』では、「思想の歴史の証明するところは、精神的生産は物質的生産とともに作り変えられるということのほかに何があろうか?ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想にすぎないのである」と述べ、「法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョア的偏見であって、それらすべての背景にはブルジョア的利益がかくされている」と断言している。
すなわち、たとえば資本主義社会におけるすべての思想・道徳・宗教なども結局、資本家による民衆支配のための装置とみなされて基本的に否定されるか、搾取を覆い隠したり、一定の合意を取りつけて支配を貫徹したりするための統合手段としてしか認識されない。したがって、ロシア革命後や中華人民共和国の文化大革命において、旧支配層の階級支配に資するものとして宗教施設が破壊され、それまで蓄積されてきた音楽・絵画・映画・演劇・文学そして学問に至るまで、「ブルジョア的」「階級の敵」として迫害され破壊されたものは数知れないのである。
こうしてマルクス主義は、人間が歴史とともに様々な経験と思索と創造によって積み上げてきた思想や文化や精神さえも、「階級支配」という自らが勝手に規定した、一面的で社会に分裂と敵対を醸成する乱暴極まりない規定によって抹殺していったのである。』
上記論文の記述内容からも理解できることだと思いますが、マルクス主義は、社会に「分裂」と「対立」を生み出すイデオロギーになります。それは、次の動画でも語られています。
『 社会主義は専制政治のイデオロギーであり、少数の富裕層に絶対的な権力を与え、富める社会主義者の指導者と貧しい大衆との間に多くの不平等を生み出すイデオロギーです。 』
昨日のところでも書かせて頂いたように、レーニンは、それまでの“支配階級”なるものに、「プロレタリアートが転化」する、つまり、置き換わることが必要であり、ブルジョア国家を暴力革命によって打倒することが必要であると主張していました。そして、その結果としてプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)が実現し、まずは社会主義国家化する。そこでは、「国家権力、すなわち、中央集権的な権力組織、暴力組織が必要」である。なぜならば、「それまでの搾取者の反抗を抑圧するため」であり、また「膨大な住民大衆」を“指導”するためである、と。そして、やがて、その社会主義国家そのものも消滅するのだ、と。

1895年のレーニン
で、社会主義国家が消滅したあとは、どうなるのでしょうか?
すべての資本主義国家を暴力革命で転覆し、社会主義国家化し、そして、その社会主義国家自体も消滅するわけですから、もうそこには「国家」は存在しません。
繰り返しになりますが、社会主義者・共産主義者らの思想・イデオロギーの根底には、『ユートピア思想』が存在していて、その“ユートピアの実現”は実際に可能なものであり、それは自分たちの手によってこそ現実化できると、まさに宗教のように本気で信じている連中が、いわゆる「ディープステート(deep state)」の中核を形成している、と当ブログでは考えております。
さらに申し上げますと、それは表面的な相違がみられる「右派」とか「左派」とかで分類できるものではなく、むしろ、そのどちら側にもその影響力を行使しながら、常に一貫して“ユートピアの実現”へと邁進していた(そして現在も邁進している)のではないでしょうか?

昨年の11月の米大統領選挙以降、次々と想像を絶するような出来事が続発しておりますが、一体何が起こっているのか、ということを理解するためには、いま一度、「社会主義」と「共産主義」について知って頂く必要があると考える理由がここにあります。
それでは、マルクスに至るまでの「ドイツ思想」に決定的な影響を与えた、「キリスト教神智学(Christian theosophy)」または「ベーメ神智学(Boehmian theosophy)」として知られる、ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)について、次の論文を確認して参りましょう。

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)

カール・マルクス

☆『「自分は自分である」ことと「我性」への「想像/構想」:西谷啓治によるヤコブ・ベーメの思想への理解とその射程』板橋 勇仁
『 はじめに
西谷啓治は、『岩波講座・哲学 問題史的哲学史』(一九三二年)として公刊した彼の論考「神秘思想史」の第四章において、ヤコブ・ベーメ(Jakob Böhme=ヤーコプ・ベーメ)の神秘思想を彼独特の視点から考慮している。この論考が大きな意義を有していることは、日本でベーメの思想について論じられる際にはそれが今なおしばしば参照されることからも明らかである。この論考において西谷は、ベーメの思想には、「一方に於いては神の絶対性と自己の超越的自由及び自存と、他方に於いては、悪と選択的自由とを共に解明せんとする企て」が看取されるとする。すなわち、西谷によれば、ベーメの思想においては、「自分は自分である」という自己の自同性が、神すらも奪うことのできない自由と自存を示すものとしてあり、しかもこの自同性は自己と神とが全く一つになる仕方で成り立つものである。また同時に、西谷によれば、この自同性は、自己が神から離反し、神の意志に反逆する「悪」への自由を示すものとしてもある。その上で西谷は、自同性の持つこの二つの側面を共に重視する思考を展開しえたという点において、ベーメの思想は参照されるべき大きな意義を有していると評価する。それでは西谷からすれば、自己の自同性を問う際になぜこうした二つの側面を適切に主題化し考察することが重要となるのであろうか。そして西谷は、ベーメがいかなる仕方でそうした考察を展開したと解釈するのであろうか、またその解釈をふまえて、ベーメの思考のいかなる点を、いかなる理由において、高く評価するのであろうか。本稿では、こうした問いを考察しつつ、「自分は自分である」という我々の自己の自同性を考察する西谷のベーメ論が有する意義と射程について検討していきたい。
まず、自己の自同性を上述したような二つの側面を主題化しながら考察するという西谷の問題意識について明らかにしていこう。
1.自己の自同性への問い
そもそも、「自分は自分である」という我々の自同性の自覚は、他の従属することのない、自己の自由と自存を示すものと考えられる。というのも、少なくとも何らかの意味での他に対する自立性・自主性なしには、自分は自分であるという、この自己の自同性の自覚は生じえないと考えられるからである。それゆえ西谷もまた、自己の自同性について先述のように「自己の超越的自由及び自存」と特徴づけている。だが、他方、「自由」と「自存」を有するこの自己の存在そのものは、あるいは自己の自由と自存それ自体は、この自己が恣意的に産出したものではないこともまた事実であろう。
西谷は「神秘思想史」の序論において、「この「自分」とは何であり、何によつて、また何のために有るのか」、あるいは「この「自分」とは抑々何処から来たのか」と問う者は、自己を「何処から来たかその根源の不明なるもの、いは単にここに投げ出されてある如きものと感ずる」とする。こうした問いは、「自分は自分である」とはどういうことかという、自己の自同性への問いであるが、それに対して「投げ出されてある如きものと感ずる」ということは、「自分」が自同的に現に有り、こうして生きていることそれ自身はこの自分が恣意的に産出したものではありえないことを示しているとも言えよう。
しかしそうだとすれば、西谷がまた明らかにするように、こうして自己が自らの根源を求めること自身についても、それ自身は自己による自由なる行いであるとしても、しかし自己がそうした求めを持つものとしてあるということ自身は、「自己の能作の因るのではない」。したがって西谷は、自己の根源へのこうした求めの「もと」は、求められる「もと」それ自身であり、自己の根源(もと)とは、さらなる根源(もと)を持つ相対的なるものではなく、それ自身において「絶対的なるもの」であるとする。
こうしてみれば、自己の自由と自存を問うということは、自由と自存を有する自己と、自己の根源(もと)としての絶対的なるものとの関係の問いに連なることになろう。すなわち「自分は自分である」という自己の自同性を問うことは、自己がなにものに対しても自立的・自主的であり、自由と自存とを有する存在であることと、しかし自己が自らによってではなく、絶対的なるものによってのみ存在しうることと、この両者の緊張関係を問うことに他ならないであろう。ただしこの際、自己が自由と自存を有するということが、自己が自らの根源ないし絶対的なるものから離反しうる自由を有するということを含意してこそ、自己は真の意味で自由と自存を有するものとして明らかにもなり、また既述の緊張関係もそれとして適切に解明されるであろう。
こうした問題意識を背景にして、西谷は、ベーメの思想に、「一方に於いては神の絶対性と自己の超越的自由及び自存と、他方に於いては、悪と選択的自由とを共に解明せんとする企て」を看取する。すなわち、西谷によってベーメの思想は、「神の絶対性と自己の超越的自由及び自存」の緊張関係を解明するものとして、それも神からの離叛としての「悪」とそれへも向かいうる自己の選択的自由を主題化しつつ解明するものとして見出される。・・・』

ヤーコプ・ベーメ(ヤコブ・ベーメ)
少し難解に感じられるかもしれませんが、先にベーメが言ったことを簡単に申し上げますと、次の通りになります。
〇 人類は、神の恵みの状態から、罪と苦しみの状態に堕ちた
〇 悪の力には神に反抗した堕天使も含まれている
〇 神の目標は世界を恵みの状態に回復させることである
つまり、世界は本来壊れているものであり、それを直すことができるのは正しい者だけである、ということになります。

ということで、本日はここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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