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    親子チョコ💗(500冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  日本 >  自ら盆を敷いた、主戦論者で、“ボンクラ”官僚だった、山本五十六率いる「帝国海軍の罪」

    自ら盆を敷いた、主戦論者で、“ボンクラ”官僚だった、山本五十六率いる「帝国海軍の罪」

    賭場

    本日のキーワード : 盆暗、官僚、山本五十六



    盆暗(ぼんくら) : ばくちで盆の上の勝負に暗い意ぼんやりしていて物事の見通しがきかないことまたそのような人や、そのさま「盆暗な官僚」

    賭場(とば) : 盆中(ぼんなか)敷(しき)鉄火場(てっかば)とも言う賭場を開帳することを「盆を敷く / 場が立つ」とも言う

    ボンクラ官僚 山本五十六
    山本五十六

    本日の書物 : 『歴史の教訓 ― 「失敗の本質」と国家戦略』 兼原 信克 新潮社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 【真珠湾攻撃の後、日本軍は、恐ろしい勢いで地理的に広がっていった】。海軍はアリューシャン列島から、キリバスのタラワにまで到達した。良い性能のレーダーのなかった日本海軍は敵艦隊との決戦を求め敵の海軍根拠地覆滅を目指して太平洋を東へ東へと進んだのである。陸軍はフィリピン、マレー、シンガポールを落とし、インドネシアに入る。膨張するまではよいのだが【帝国陸海軍がどうしてこのような広大な地域を守り抜けると考えたのか】理解に苦しむ。「ドイツが直ぐに英国を下してくれるはずだ」「米国は一撃食らわせれば戦意を失う」などと考えたのかも知れないが、希望的観測に基いた軽挙妄動の誹(そし)りを免れない。占領行政、兵站、補給、拠点確保、シーレーン確保、戦時広報(プロパガンダ)、戦争終結等のためのシナリオ等を、ほとんど欠いたままの膨張であった。【国力を越えた膨張】はその後【米国の反撃にあって爆縮を起こすことになる】。まるで【風船に針をさしこまれたようなもの】であった。

     アメリカが反撃を始めると日本海軍はどんどん壊滅されていく。南半球の珊瑚海海戦までは互角であったが、【ミッドウェー海戦を契機として艦隊決戦も負けが込み始め、次第に日本側の艦船がなくなっていく】【海軍】は、それでも広大な太平洋に展開した海軍基地の防衛のために【陸軍に応援を頼んだ】【もとから陸海軍の連携などなかったし、制海権は米軍に移りつつあるから、陸軍の応援を出すのも容易なことではなかった】

     【海軍は前に飛び出しすぎ】だと【懸念していた陸軍】は、当然【「海路は大丈夫か」と聞く】が【海軍は「大丈夫です」と応える】【嘘八百】であった。【陸軍の応援部隊の多くは米海軍に沈められた】たとえ南洋の戦地にたどり着いても補給を断たれているから餓死するか病死することになる【ソロモンのガダルカナル島は「餓島」と呼ばれた】







    日本人に忘れられた ガダルカナル島の近現代史 

     日本陸軍では、南洋やフィリピンで亡くなった軍人の数のほうが、中国本土で亡くなった数よりもはるかに多い。フィリピンは最も悲惨な戦場の一つである。【レイテ沖海戦の敗退で日本海軍は事実上戦闘継続能力の殆どを失う】が、【海軍の敗北は極秘扱いされ】【陸軍には知らされていなかった】

    フィリピンの現地陸軍がのほほんとしていたところに、いきなり米軍が上陸してきた。マニラでの市街戦は、マニラの都市住民を全面的に巻き込んだ阿鼻叫喚の地獄絵図となった。』

    日の丸

    「自由」は服従???


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、平成25年(2013年)に、戦後初めて「国家戦略」を策定する仕組みが誕生した我が国歴史を、明治から昭和にかけて振り返りつつ、「国家戦略」というものが一体どういったものであるべきか、また、それが如何に重要であるか解説されている良書で、大日本帝国が滅亡した理由も、「国家戦略」というものが存在していなかったからだということが明らかにされるお薦めの書物になります

    読書 10-137

    それでは本日も、いつものように、直近の「致死率」を確認しておきましょう。

    (死亡症例数)÷(感染症例数)=(致死率)

    ※(  )内は前回の数値

    dzsbcvxn.jpg
    Coronavirus COVID-19 Global Cases by Johns Hopkins CSSE

    アメリカ : 230,811(230,281)÷9,170,430(9,104,336)=0.0251・・・(0.0252) 「2.51%(2.52%)」
    dzsbcvxn1.jpg

    イタリア : 38,826(38,618)÷709,335(679,430)=0.0547・・・(0.0568) 「5.47%(5.68%)」
    dzsbcvxn2.jpg

    日本 : 1,775(1,769)÷101,941(101,327)=0.0174・・・(0.0174) 「1.74%(1.74%)」
    dzsbcvxn3.jpg

















    目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 

    さて、ここからは昨日の続きになりますが、カール・マルクスユダヤ人に対する偏見・ヘイトから生じたイデオロギーである「マルクス主義」は、その後も表向きの形を変ながら現代においても“辛うじて”生き残っていますが、


    デヴィッド・ハーヴェイ
    デヴィッド・ハーヴェイ

    新自由主義―その歴史的展開と現在 

    例えば、デヴィッド・ハーヴェイマルクス主義の地理学者で、いわゆる「新自由主義」を誤った解釈に基づいて批判した人物で、

    官僚たちが、民間企業の活動をあれこれと指図する「規制」は、本当に必要ですか?


    以前にも書かせて頂きましたが(→「新自由主義」の本質が理解できない人々の主張 → 「弱肉強食」「大きな政府から小さな政府への展開」「ハイエクガー」)、「全体主義の脅威」を目前にした自由主義体制側の“自由主義再生の潮流”こそが「新自由主義」と呼ばれるもので、それは「国家の法的介入」に関心を寄せた自由主義体制側の変革になります。このデヴィッド・ハーヴェイ定義するところの「デヴィッド・ハーヴェイの新自由主義」「マルクス主義」から生じているものであり(→日本の官僚たちの理想は、「行政国家」です! ~ 「官僚の、官僚による、官僚のための政治の実現」)、より正確に言うとレフ・トロツキーが批判していたものと同じであり(→“自由全体主義” ~ 新自由主義(ネオリベラリズム)のはじまり )、トロツキー以後の西欧の「トロツキー主義左翼(反スターリン主義的マルクス主義者)」がほぼ共有する考え方になります(→現代の“ハルマゲドン” ~ 「おパヨク」 V.S. 「自由」)。

    女性 ポイント ひとつ

    そこで、「デヴィッド・ハーヴェイの新自由主義」ではない本来の「新自由主義」を考える場合に、よく比較対象にされる「ケインズ主義」について、現在次の論文で、「ケインズ主義」の変遷を確認しているところになります。

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    『ケインズ主義政策戦略の変転』 野口 旭

    また、参考書として、次の書物もお勧めさせて頂きます。

    世界は危機を克服する:ケインズ主義2・0 2

    世界は危機を克服する:ケインズ主義2・0 

    それでは早速、続きを見て参りましょう。

    『 3.財政主導ケインズ主義の歴史的意義と問題点

    (2)サミュエルソン45度線モデルの意義と問題点

     マクロ経済モデルとしての45度線モデルが初めて登場したのは、その初版が1948年に出版されたポール・サミュエルソンの『経済学』である1)。サミュエルソンはそこで、ケインズ『一般理論』に提示された所得決定原理を、教育的な目的のために45度線の図を用いて再構成した。このサミュエルソンの『経済学』は、商業的な大成功を収め、結果として、最も単純なケインズ型モデルである45度線モデルとそれに基づく財政乗数の考え方を一般社会に幅広く浸透させていく役割を果たした。その意味で、サミュエルソンの『経済学』は、いわばケインズ主義の伝道師というべきものであった。


    ポール・アンソニー・サミュエルソン
    ポール・アンソニー・サミュエルソン

     サミュエルソンの45度線モデルは現在でもマクロ経済学の入門的教育の場では頻繁に用いられている。それは確かに、「人々の所得は人々の支出があって始めて成り立つ」という、マクロ経済における所得と支出の相互依存性を示すための教育的道具としては十分に有用であるしかし現実を対象にした実証研究や政策分析のための道具としてはそのモデルがそのままの形で用いられることはほとんどないというのは「政府の財政支出はその数倍もの需要増加をもたらす」といったあまりにも都合のよい結論現実にはほとんどあてはまらないことは、理論的にも実証的に明白だからである。

    女性 ポイント ひとつ

     45度線モデルの最大の問題点は「人々はその時々の所得の一定割合を必ず消費に振り向ける」というその基本的な前提条件にある。この考えはその後、ケインズ型消費関数と呼ばれるようになった。しかし人々の実際の消費・貯蓄行動は、そのように単純なものでない。人々の消費は明らかに、その時々の所得に依存するというよりはこれまでに蓄えた資産や将来において稼得できる所得をも含めたより長い時間的視野を通じた可処分所得に依存して決まっているからである。こうした問題点が明らかであることから、ケインズ以降の経済学者たちはまずはこの消費に関するケインズの扱いをより現実に即したものに置き換えることを試みたそれがミルトン・フリードマンによる恒常所得仮説であり、さらにはフランコ・モディリアーニらによるライフ・サイクル仮説である2)。恒常所得仮説とは、人々の消費はケインズが想定するように「現在の所得」にのみ依存するのではなく、現在から将来にわたって確実に得られる見込みのある「恒常所得」に依存するという仮説である。ライフ・サイクル仮説とは、人々の消費はそれぞれの個人が一生の間に消費することのできる生涯所得に依存するという仮説である。これらは「個人は所得の制約の中で効用を最大化する」という経済学のミクロ的原理を現実の「長い時間を生きる個人」にあてはめた仮説と考えることができる


    オランダ人と朝鮮人の心の中に、未だに残り続ける“燃え滓(もえかす)”

    未だに“あの妄想”を続ける“自民党のパンダ・ハガー” ~ それを信じている人は誰もいない

     問題は財政政策の乗数効果というケインズ理論から導き出されるマクロ経済政策論の核心部分がこのケインズ型消費関数というきわめて特殊な設定に依存しているという点にある乗数理論において消費の波及効果が生じるのはそもそも人々は必ず所得の増加分の一部を消費に振り向けるという前提が置かれているからである。仮に人々が所得の増加分のすべてを消費ではなく貯蓄に振り向けるならば、消費の波及効果はまったく存在しない。もちろん、増えた所得を直ちに消費に振り向ける家計も存在しないわけではない。しかし、それはおそらく資産をほとんど持たないような貧困家計に限定されるであろうある程度の資産を持つ一般的な家計では各時点の消費の大きさは必ずしもその時々の所得には依存しないであろうそう考えれば45度線モデルに基づく財政乗数理論をそのまま真に受けるわけにはいかないのは明らかだったのである。』

    資本主義・社会主義11

    それでは本日の最後になりますが、昨日に続きまして、アイザイア・バーリンが提唱した「消極的自由」(~からの自由)「積極的自由」(~への自由)について語った、1958年10月31日にオックスフォード大学での就任講演の内容を御紹介させて頂きたいと思います。

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    アイザイア・バーリン
    アイザイア・バーリン

    自由論【新装版】 

    『 二つの自由概念

    内なる砦への退却

    ・・・自分の進んでゆく途上にある障害物を実際に取除くよりも、その道を通らないようにしてしまう。自分の党派自分だけの計画的な経済自分だけのあえて孤立させられた領域へとひっこんでしまうそこにいればもう外部からの声は聞く必要がないし外部の力はなんの影響を及ぼすこともできないわけだ。これは安全性探求の一形態でありしかもまた従来個人あるいは国家の自由ないし独立の探求とも呼ばれてきたものである。

     この学説個人に適用された場合そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない


    イマヌエル・カント
    イマヌエル・カント

    みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。わたくし自律的であるがゆえにまた自律的である限りにおいて、自由である。わたくしは法則に従うけれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。自由服従である。』

    ここは非常に重要な部分になりますので、昨日に続いて再度確認しておきたいところになりますが、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者イマヌエル・カントは、著名な「反ユダヤ主義者」であり同じく「反ユダヤ主義者」で有名なカール・マルクスに影響を与えた人物になります。そんなカントのようなひとびとが考える「自由」は、次のようなものになります。

    《 カントのようなひとびとが考える「自由」 》

    「自由」 ≠ 「欲望の除去」

    「自由」 = 「欲望への抵抗」 または 「欲望の支配」 (自律的存在)


    女性 ポイント ひとつ

    一体これのどこが「自由」なのか理解に苦しみますが。。。

    このあと、バーリンは、カントのようなひとびとが考える「自由」論理的にかれらの理論に沿って紐解いていきます

    『 ・・・もしも人間の本質人間が自律的存在たるところ ―― 諸価値の作者、目的それ自身の設定者、そしてそれらの価値ないし目的の究極的権威はまさしくそれらが自由な意志によって意志されるという事実に存する ―― にあるとするならばなによりも悪いことは人間を自律的存在ではなく、原因として働くさまざまな諸影響によってもてあそばれる自然物として取扱うこと、つまり、外的な刺激のままに動かされ、その選択もかれらの支配者によって ―― 暴力の威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ ―― 操作されうるようなそういう被造物 〔 人間 〕 として取扱うことである。人間をこのように扱うということは、あたかも人間が自己決定的なものでないかのごとくに扱うことである。「なんびともわたくしに、そのひとの流儀でわたくしが幸福であることを強いることはできぬ」と、カントは言った。』

    ということで、本日はここまでとさせて頂きます。






    続きは次回に♥




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