2020-02-06 (Thu)

本日のキーワード : ツデ―党、薔薇マークキャンペーン
ツデー党(Tudeh Party of Iran)は1941年に結成されたイラン共産党のこと。
本日の書物 : 『陰謀と虐殺』 柏原 竜一 ビジネス社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 1979年の革命当初から、イラン国内の公安活動は、【イスラム革命委員会】の手に委ねられていた。この革命委員会は、【イラン革命の最高指導者】であった【ルーホッラー・ホメイニ】の命により創設された。

ルーホッラー・ホメイニー
ホメイニが革命委員会を創設したのは、既存の警察機構は、新たに誕生した革命政権よりも、前国王の方に忠誠を誓っているかもしれないと懸念したためであった。革命委員会は警察署、モスク、青年施設といった身近な場所に設けられた。国内の公安活動を担当することに加えて、それぞれの革命委員会は、近隣の情報を収集する部隊を擁していた。…
1979年から80年にかけて、革命政権はさまざまな機関を創設していた。しかし、もっとも明確で、高い名声を誇ったのが、【国家情報公安局(SAVAMA)】である。SAVAMAは【SAVAKの基盤の上に設立】された。SAVAMAはSAVAKと同じ方法を用いて、【対外情報を収集】した。その一方で、【革命を防衛するために革命防衛隊が創設】され、【国内の脅威に対応】した。後に革命防衛隊は、【対外情報活動に関与】することになる。

【革命を成功させた要因】として考慮せねばならないのが、【ソビエトを頂点とする東欧諸国の協力】である。

79年当時の【ツデー党】総務を務めていた【ヌーレディーン・キアヌーリ】の死後、1999年に刊行された『歴史との対話』という書物がある。このなかで、キアヌーリは【イラン革命における東ドイツの関与】を指摘している。

ヌーレディーン・キアヌーリ 1980年
このヌーレディーン・キアヌーリという人物は、シェイク・ファズローラ・ヌーリという著名なシーア派聖職者の孫として、1915年に生まれた。キアヌーリはドイツで教育を受け、アーヘン工科大学で博士号を取得した。その後彼はテヘラン大学で教鞭を執っていたが、【1953年のイランのクーデター】によって、イラン国内でのツデー党の活動が禁止されたために、【東ドイツに亡命】した。…

シェイク・ファズローラ・ヌーリ
1979年に革命が起き、シャーが退位すると、彼は本国に戻りツデー党の事務局長に就任した。1983年にツデー党が再び禁止されると、【キアヌーリはソビエトのためのスパイの容疑により、やはり共産主義者であった妻とともに投獄され拷問を受けた】。…

キアヌーリの妻 マリアム・ファーマン・ファーミアン
53年の【モサデクのクーデター】の後、【ツデー党】の組織は、【イラン国内では壊滅】していた。その【ツデー党の本部】が、1959年以降、【東ドイツのライプツィヒ】に置かれていた。

ツデー党の運営に必要な資材は、東ドイツ政府によって賄われていた。【共産主義者ら】はまた、【イランの反体制派もコントロールしていた】。これらの組織の中心はイラン学生連合国民会議であったが、この組織のプロパガンダは、西欧やアメリカに留学した約8万のイラン人留学生に向けて行われていた。また【宗教系の知識人】も【イスラムとマルクス主義の混交を志向】し始める。【ホメイニを権力の座につけたのはそうした知識人だった】のだ。』

“民族主義”は、敵対勢力にとって、とても便利な「道具」です
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、複雑なうえに、まともな報道がなされない中東の情勢について、理解していくために必要となる「手掛かり」が数多く、整理された上で書かれている書物であり、現代の中東世界を見る際に、お手元に置いて参考にされるべき良書となります。

さて、本文中に書かれておりましたように、1979年の「イラン革命」を成功させた要因として、「社会主義のソ連陣営の協力」が背後にあったことは疑いようのない事実になりますが、その支援先であった「ツデ―党(Tudeh Party of Iran)」というのは、簡単に申しますと「イラン共産党」です(笑)

要するに、「私たちは同じだ!」って、何の根拠もなく騒ぎ立てる、“アノ、お決まりのパターン”になります💗(→☆オスマン帝国を滅ぼした“汎トルコ主義”)
ペルシア(=イラン)民族主義 + 社会主義

で、そんな「ツデ―党(=イラン共産党)」のロゴマークは、「赤い薔薇」になります。

ツデ―党75周年記念ポスター


☆Iran’s Tudeh Party: 75 years of working class struggle https://www.peoplesworld.org/article/irans-tudeh-party-75-years-of-working-class-struggle/
これと“ソックリ”なのが、「薔薇マークキャンペーン」などど言って、そのアタマの悪さを、何故か自信満々に晒していた連中になります(笑)

☆薔薇マークキャンペーンHP

そして、その主張するところが。。。


〇 法人税や所得税の累進課税とその強化など「公平な税制度」を求める運動。
→ つまり、我が国に付加価値をもたらし、将来の発展に寄与する人々に重税を掛けよと言っています(笑)
→ その一方で、何ら付加価値をもたらさない人々は自由放任で好き勝手し放題にしておくことを「公平な税制度」と表現しています(笑)
〇 気候変動防止への積極的財政出動を求める運動。
→ 気候はもともと変動するものであって、その変動を防止するなどという“実現不可能”な妄想には、何ら根拠がありませんし、単なる税金の無駄遣いにしかなりません(笑)
〇 クビ切りや就職難に反対し、完全雇用を実現する運動。
→ 需要としての価値がないから「クビになる」のであり、また「就職できない」わけで、資本主義の下で「完全雇用を実現する」ことが不可能なことは、あのマルクスがすでに証明しています(笑)
〇労働組合の活性化・・・民族ヘイトや・・・(←書くのが面倒なので省略させて頂きますw)
→ この唐突に主張している「労組」と「民族主義」との間には、なんの関係があるというのでしょうか。。。
おや?
いま何か聞こえたような気が致しますが・・・(チュチェ♪チュチェ♫)

〇 公的取組を求める運動
→ どうしても税金で解決したいようで。。。自分たちで努力する“発想”がないみたいです。つまりは、“すねかじり”ということなんでしょう!
〇 公務員バッシングに抵抗する運動。民営化反対運動。
→ あれれ??? どうして、公務員“だけ”を擁護する必要があるの~? どうして、民営化はダメなんですか~? やっぱり、「クビになる」のが怖いのかな?
〇 連帯
→ こんな言葉って、普段一般には使いませんね💗 「連携」とか「協力」とかが多いのではないでしょうか? やっぱり、「共産主義者」だっていうのが、チラチラ見え隠れしているようですね(笑)

☆「民営化反対」 ツデ―党(=イラン共産党)HP

それでは、昨日の続きになりますが、これまでの流れを、ここで一旦整理させて頂きますと、第一次世界大戦(欧州大戦、1914年~1918年)の敗戦国側である中央同盟国の一つであったオスマン帝国は「トルコ革命」(1922年~1923年)によって滅亡(→トルコ共和国樹立)し、それまでの領土を次々と好き勝手に奪われてゆくことになります。

オスマン帝国下の中近東地域 (1849年)
昨日も書かせて頂きましたが、上の地図にあるオスマン帝国の支配地域を、現代の地図上に示しますと、

イラク、シリア、ヨルダン、クウェート、レバノン、イスラエルといった国家が存在しているところは、オスマン帝国の勢力下に位置している地域であったことが御理解頂けると思います。
ここで確認して頂きたい点は、イスラエル以外のイラク、シリア、ヨルダン、クウェート、レバノンは「アラブ」と称される人々の国になります。

アラブ諸国とされる主な国々
で、昨日書かせて頂きましたように、1908年の「青年トルコ人革命」(→☆オスマン帝国を滅ぼした“汎トルコ主義”)を受け、オスマン帝国皇帝は、フサイン・イブン・アリーをメッカ(マッカ)のアミール(太守)に任命します。イスラム教徒の方々にとっては、宗派の違いを超えて納得できる人物だったのですが。。。

フサイン・イブン・アリー
イギリスが唆(そそのか)し、密約まで結んだ結果、そのフサイン・イブン・アリーは、1916年(←これは第一次世界大戦中のことになります)、オスマン帝国からの「アラブ人」の独立を掲げ(→「アラブ人」などといった人種も民族も実在しない幻想に過ぎませんがw)、4人の息子たちと共に「アラブの反乱(Arab Revolt)」を起こします。

アラブ反乱旗
で、この時すでに、イラン南西部では、中東で最初の近代的掘削により「石油」が発見(1908年)されていました(→☆中東地域の石油デビューは、わずか100年ちょっと前のことなんです!!!)。
発見したのは、イギリス人で、翌年に「アングロ・ペルシャン・オイル・カンパニー(APOC/Anglo-Persian Oil Company)」が設立されています。いわゆる7大メジャーズ(Majors)」の一角を占めることになる会社で、現在のBP(ブリティッシュ・ペトロリアム(British Petroleum).)と呼ばれる、イギリスのエネルギー関連事業を展開する多国籍企業の原型となる会社です(→☆国際石油資本の形成)。

ブリティッシュ・ペトロリアム(British Petroleum)
結局、フサイン・イブン・アリーは、イギリスに唆(そそのか)されてオスマン帝国に反旗を翻し、同年、「ヒジャーズ王国」を建国し、その地位を長男であるアリー・イブン・フサインに継がせたのですが、

アリー・イブン・フサイン

緑色の部分がヒジャーズ王国の領域
「ナジュド・スルタン国」(1921年~1926年)によって征服される(1925年)ことになります(「ナジュド及びヒジャーズ王国」の樹立)。これがのちに「サウジアラビア王国」となる国で(→☆イスラム原理主義の始まりは、サウジアラビアの歴史にあります)、その指導者がワッハーブ派のイブン・サウードです。

アブドゥルアズィーズ・ビン・アブドゥルラフマーン・ビン・ファイサル・アール・サウード
フサイン・イブン・アリーによる反乱後、その反乱の直前に結ばれていた英・仏・露の密約(「サイクス・ピコ協定」)による約束通りに、第一次世界大戦(欧州大戦)が終結すると、かつて、オスマン帝国勢力下にあった多くのアラブ地域は、イギリスやフランスによる委任統治領となります。

サイクス・ピコ協定。濃い赤はイギリス直接統治、濃い青はフランス直接統治、薄い赤はイギリスの、薄い青はフランスの勢力圏。紫(パレスチナ)は共同統治領

それでは本日はここまでとさせて頂きますが、フサイン・イブン・アリーの残る3人の息子たちは、果たしてどうなったのでしょうか?

続きは次回に♥
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