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    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  イスラム >  幻想に過ぎない“アラブ民族”主義 ~ エジプトのナセルという「おバカ」

    幻想に過ぎない“アラブ民族”主義 ~ エジプトのナセルという「おバカ」

    アラブ国家連合(United Arab States、1958-1961)

    本日のキーワード : エジプト、ナセル、アラブ民族主義



    アラブ国家連合(アラブこっかれんごう、英: United Arab States)は、1958年から1961年にかけて存在した汎アラブ主義の国家連合

    1958年3月8日アラブ連合共和国(エジプトとシリアが合同)とイエメン王国(北イエメン)によって結成されたが、1961年9月28日、アラブ連合共和国の崩壊に伴い解体された。

    本日の書物 : 『陰謀と虐殺』 柏原 竜一 ビジネス社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 結局のところ、英国の通貨危機原油不足国民の支持の欠如アメリカの圧力、それにソビエトの脅威によって【英仏】【国連の停戦勧告を受け入れる】こととなった。それから数か月後には、【アメリカ】【イスラエルにシナイ半島から撤退するように求めた】。それは【ナセルにとっては幸運な変化】であった。

    エジプト・ナーセル大統領(中央)、ソ連・フルシチョフ首相(右)
    エジプト・ナーセル大統領(中央)、ソ連・フルシチョフ首相(右)

    なぜなら、エジプト軍は深刻なダメージを負っていたが、【スエズ紛争】は、それにもかかわらず、【地域の勢力均衡をエジプトに有利な方向に傾けた】ためである。

    スエズ運河02

    左がスエズ湾、右がアカバ湾
    左がスエズ湾、右がアカバ湾

    パリアルジェリアで執拗に妥協を拒みロンドンイラクとペルシャ湾岸で影響力を確保する一方で、【安全保障上の真空地帯がこの地域にうまれた】のだ。そして【その真空をうめたのが、ナセルのエジプトだった】

     振り返ってみれば、1956年のスエズ紛争を引き起こした原因や出来事特定することは容易であるように見える。長い目で見れば【スエズ紛争】は、【没落しつつある植民地大国】【不安定なイスラエル】との【同盟】【ナセルによって創出されたアラブ民族主義】【粉砕しようとした試み】であった。

    ポイント 32

    両勢力の対決は不可避であった。カイロは地域の盟主としての自信を深めつつあった。東側ブロックからの武器も入手し、【ナセルは非同盟運動に没入】していた。かたや、【イスラエル】【エジプトの軍事的能力に懸念を抱いていた】。イスラエルが信じていたのは、軍事面でエジプトがイスラエルと肩を並べるか凌駕(りょうが)することを妨げる可能性はわずかしかないということだった。フランスは、北アフリカにおけるエジプトの秘密工作に憤慨しており、フランスの指導者らは、アルジェリア反乱の責任があるのは唯一エジプトだと感じていた。最後に英国は、ナセルを、中東における歴史的利権への脅威であると考えていた。その歴史的利権には、スエズ運河イラクヨルダン王国アデン東アフリカの植民地ペルシャ湾岸の保護領が含まれていた。

     スエズ紛争が示したのは、軍事的勝利が必ずしも政治的成功にはつながらないということであった。イスラエル陸軍はシナイ半島を押さえ英仏両軍はスエズ運河の北部の入口部分を確保したがアメリカとソビエトの外交仲介により英仏イスラエルは自らの獲物を放棄することを迫られたのだ。ナセルは辛くも生き延び、自らの敵がエジプト領から撤退するのを目撃した。その結果【ナセルの名声は中東世界に燦然(さんぜん)と耀くことになった】のだ。

    ガマール・アブドゥル=ナーセル
    ガマール・アブドゥル=ナーセル

     そして、【インテリジェンス】という面で見れば、対外情報活動において多少の欠陥が見られたとしても、【しっかりとした公安活動】が、【ナセルの勝利の原動力となっていた】ことを指摘しないわけにはいかない。たしかに、普通の民族主義国家であれば、ナセルのような強権的な公安防諜活動を採用することは困難である。しかし、改めて、【対外情報活動を充実させる前に、しっかりとした公安防諜活動が必要である】という結論は揺るぎないように思われる。』

    日の丸

    「トルコ」や「イラン」は、アラブ諸国ではありません


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、複雑なうえに、まともな報道がなされない中東の情勢について、理解していくために必要となる「手掛かり」数多く、整理された上で書かれている書物であり、現代の中東世界を見る際に、お手元に置いて参考にされるべき良書となります。

    読書 10-149

    さて、本文中に「スエズ紛争(スエズ危機/Suez Crisis)」(1956年10月~1957年3月)お話が登場していますが、「第二次中東戦争」とも呼ばれるもので、大東亜戦争によって大日本帝国が滅ぼされたあと戦勝国側である連合国(United Nations)は、再び戦争の惨禍をもたらさないようにするために、“集団安全保障”の体制を再構築したわけですが、現在の「連合国(United Nations)」、すなわち、日本語での翻訳が「国際連合(United Nations)」とされている組織定めた各国を規制する国際社会における共通のルール、つまり、現代国際法は、「第二次中東戦争」という戦争を防げなかったことになります💗(→憲法学通説の「戦争」 ≠ 国際法上の「戦争」

    同じく「朝鮮戦争(Korean War)」(1950年6月~1953年7月)という戦争も「国際連合(United Nations)」や「国際法」は防げなかったんです💗(→“「朝鮮総連」と「自治労」と「日教組」のために創られた”のが、実は「自衛隊」なんです!!!

    女性 ポイント ひとつ

    何故かと申しますと、大日本帝国が滅んでしまったことがそもそもの原因となっているからです!!!(詳しくは下の動画をご参照ください)

    ポイント 女性



    それでは、お話を元に戻しまして、「スエズ運河」が完成したのが1869年のことですので、我が国の「明治元年」(1868年)の翌年に完成したものになります(→特攻隊が「犬死かどうか」という議論は、本質からズレまくったクダラナイ議論なので止めませんか(笑))。

    で、この「スエズ運河」は、船舶の移動やそれによる輸送の上で要衝となっています。

    スエズ運河を通るルート(赤)とその代替として期待される北海ルート(青)
    スエズ運河を通るルート(赤)とその代替として期待される北海ルート(青)

    スエズ運河000

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    動画:米空母エーブラハム・リンカーン、スエズ運河を通過 ペルシャ湾へ

    その「スエズ運河」が位置している地域は、昨日のところでも書かせて頂きましたように、そもそも人種的なまとまりがないバラバラな社会集団を、「アラブ文化」や「アラビア語」を受容・共有していてるという根拠に乏しい理由で、無理矢理に、「我々は同じだ!」という幻想、すなわち、これを「汎アラブ主義(Pan-Arabism)」と呼びますが、その幻想に基づいた「アラブ世界」とされる地域に含まれていました

    アラブ諸国とされる主な国々
    アラブ諸国とされる主な国々

    その幻想に基づいた「汎アラブ主義」の「アラブ世界」の統一目指した人物こそが、マシュリク(太陽が昇るところ)に位置するエジプトガマル・アブドゥル・ナセルでした。

    マシュリク
    マシュリク

    ここで、少し確認しておきたいのですが、

    アラブ周辺

    アラブ世界とされる地域には、「トルコ」と「イラン」は含まれてはいません。また、アラブ世界のマシュリクで中心となる国が「エジプト」と「サウジアラビア」になります。

    「エジプト」も「サウジアラビア」も「アラビア語」を公用語とするイスラム教のスンニ(スンナ)派の国ですが、「サウジアラビア」はより原理主義的なスンニ(スンナ)派の分派であるワハーブ派が王家であるサウード家と結びついている国で、この2つの国はアラブ世界の指導的立場を巡って角逐する関係にあります(→イスラム原理主義の始まりは、サウジアラビアの歴史にあります)。

    「イラン」は、イスラム教のシーア派(ムハンマドの直系血族重視)の国であり、公用語はペルシア語になります(→文系・理系の“ヘンテコな区別”をしているのは日本だけなんです!!!)。

    また、「トルコ」トルコ語を公用語とし、イスラム教スンニ(スンナ)派が多いとされる国です。

    で、エジプトは、1517年マムルーク朝(スンニ派)が滅ぼされます滅ぼしたのがオスマン帝国(スンニ派が中心)で、エジプトはその属州となり支配を受けます

    1609年のエジプト・エヤレト
    1609年のエジプト・エヤレト

    19世紀になると、そのエジプトに変化が訪れます。エジプト・シリア戦役(1798年~1801年)で、ナポレオン・ボナパルト率いる5万人のフランス軍は、エジプトのアレクサンドリア近郊に上陸し、その後3年間にわたって、地元のマムルーク軍(イスラム世界における奴隷身分出身の軍人)や諸勢力イギリス軍、そして後に宣戦してきたエジプト・シリアを間接支配するオスマン帝国の正規軍と戦います。

    「ピラミッドの戦い」(フランソワ=ルイ=ジョゼフ・ワトー画)
    「ピラミッドの戦い」(フランソワ=ルイ=ジョゼフ・ワトー画)

    このとき、オスマン帝国が徴募、派遣したアルバニア人非正規軍の将校のひとりとして参加し、その後に頭角を現し、オスマン帝国の承諾を受けて正式に総督に就任したのが「ムハンマド・アリー・パシャ」で、1952年のナセルらによるエジプト革命で滅亡するまで存在した「ムハンマド・アリー朝」(1805年~1953年)を成立させます。

    ムハンマド・アリー・パシャ
    ムハンマド・アリー・パシャ

    その後のエジプトは、綿花を中心として経済発展を遂げますが、「スエズ運河」(1869年、明治2年)が建設されたことで、それまで以上に列強にとってのエジプトの経済的・軍事的な重要性が高まりますところが1870年代になって、アメリカ産綿花が国際市場に大規模に流入したことで、財政悪化と対外債務の急膨張が生じ、1875年にスエズ運河会社株をイギリスに売却することを余儀なくされされます。そして、翌年には、エジプト財政は破綻し、財政部門は債権者である列強の管理下に置かれますこれを切っ掛けとして、エジプトは、宗主権はオスマン帝国に、統治権はムハンマド・アリー朝に、そして実際の政策への関与は、イギリス領事やイギリス人顧問などによる諮問委員会が行うという複雑な形になります。

    そして、さらに時代が下り、第一次世界大戦(1914年7月~1918年11月)によって、オスマン帝国(1299年~1922年)が滅ぼされたことで、エジプトイギリスの支配下(保護国)に置かれることになります。それをひっくり返したのがナセルらのエジプト革命(1952年)ということになります。

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    続きは次回に♥




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