2020-01-31 (Fri)

本日のキーワード : ベトナム戦争、枯葉剤
枯葉剤(かれはざい)は、除草剤の一種である。ちなみに、ベトナム戦争で散布された枯葉剤はダイオキシン類の一種2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-1,4-ジオキシン (TCDD) を高い濃度で含んだものである。このTCDDは非常に毒性が強く、動物実験で催奇形性が確認されている。ベトナム帰還兵の枯葉剤暴露と、その子供の二分脊椎症の増加については、TCDDとの関連が示唆された。

ベトナム戦争時のランチハンド作戦による枯葉剤散布の様子
ランチハンド作戦(英:Operation Ranch Hand)は、ベトナム戦争中の1962年から1971年にかけて行われたアメリカ軍の軍事作戦である。ベトコンが潜む森林を失わせ、同時に食料を奪う目的でベトナム共和国の農村部一帯に推定1,200万ガロンもの枯葉剤を散布した。この作戦にはジュネーヴ条約違反であるとの非難もなされる。日本では枯葉剤作戦、枯葉作戦ともよばれる。

南ベトナム解放戦線の拠点へ投下されたナパーム弾
本日の書物 : 『陰謀と虐殺』 柏原 竜一 ビジネス社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ヨーロッパにおける【イスラム過激派の台頭の原因】は、安易な移民政策によるところも大きい。しかし、移民やその子孫が必ず過激派になるわけではない。

そもそも【イスラム過激派がどのようにして生まれたのか】を検証しなければ、問題解決の糸口すら見いだせないだろう。イスラム過激派を生み出したのは、直接的には、【1979年のイラン革命】であり、【ソビエト軍によるアフガニスタン侵攻】であった。

しかし、もう少し長い尺度で見れば、【中東地域の自己主張】は【1950年代のエジプトのナセルの時期から始まっている】。とするならば、せめてナセルの時期から検証を始めねばならないということになろう。しかも、先に述べたように【ナセルの時代から非常に高度な情報活動が行われている】のである。

ガマール・アブドゥル=ナーセル
中東に関しては、すでに地域研究分野での膨大な先行研究がある。しかし、それらの多くは、エジプトならエジプト、イランならイランという具合に、一国に関する研究である場合がほとんどである。これらの国々が【相互にどのような関係を築いてきたのか】に関しては十分にあきらかにされてきたとは言いがたい。そして、【情報活動、インテリジェンスという点】では、イスラエルの情報機関に関心が集中しており、【イスラエル以外の諸国の情報活動に関して言及されることはほとんどなかった】といってよい。

【現在のイスラム過激派の問題】についても、【その発端】は【中東諸国による情報活動に起源がある】。

【中東における情報活動の歴史】を振り返ることなく、中東の平和の問題も、頻発するテロの問題も、その【本質を理解する】ことはできないのではないか。【インテリジェンス】は、【中東理解にとってのミッシングリンク】なのである。

本書では、中東諸国のインテリジェンス・ヒストリーから、それぞれの国の特徴をあきらかにし、その相互関係をあきらかにすることで、現在中東で生じているさまざまな事件を考える手がかりを提供したいと考えている。この試みの成否に関しては、読者の審判を素直に仰ぎたいと思う。』

リベラルなアメリカ民主党政権と、残虐な「ベトナム戦争」
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、複雑なうえに、まともな報道がなされない中東の情勢について、理解していくために必要となる「手掛かり」が数多く、整理された上で書かれている書物であり、現代の中東世界を見る際に、お手元に置いて参考にされるべき良書となります。

さて、中東に関する報道をキチンと理解するためには、本書に書かれているような正しい予備知識に基づいて整理していかなければならないのですが、実は、そのような良書が非常に少なく、読む進めていくと、何故か、突然、「アベガー」みたいなのが登場してくる本もあったりします(笑)
また、日本の学界において、イスラム研究者と称している連中には、大きく2つのタイプの連中が存在していて、「イスラム教は平和の宗教である」などという法螺(ホラ)吹きばかりだというお話は非常に有名です。




ちなみに、上記の書物は、当ブログで以前に御紹介させて頂いているものでもありますが、著者のイデオロギーのフィルターを除去しながら読みますと、とても参考になる良書になります。


宮田律
学会の動向について詳しくお知りになりたいという方々は、下記の雑誌と動画でご確認下さると良いかと思います💗

こちらもご参照💗
↓
☆飯山 陽 イスラム教の論理

それでは本題に入らせて頂きたいと思いますが、本文中に、現代の中東情勢を理解する上での重要なポイントが2つ書かれていました。それは、「イスラム勢力の存在感が台頭」するようになった2つの大きな転換点のことになります。
で、著者の分析では、①1950年代のエジプトのナセルの時期に始まり、②1979年のイラン革命とソビエト軍によるアフガニスタン侵攻で加速された、ということになるのですが、昨今の世をお騒がせしている「イスラム過激派」という厄介な代物(シロモノ)が生み出されたのが、②の頃だということになります。

ここで、大きな流れを俯瞰しておきたいのですが、上記の①のエジプトのナセル時代については、次回以降に書かせて頂くと致しまして、まずは、②の1979年、つまり約40年ほど前のことになりますが、「イラン革命」と「ソビエト軍によるアフガニスタン侵攻」について書かせて頂きたいと思います。つまり、「イスラム過激派」という厄介な代物(シロモノ)が生み出された頃について、ということです。
「オイルショック(石油危機)」という言葉はご存じだと思いますが、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱のことを言い、1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まり、そのピークは1980年と考えられています。

1861年〜2007年の原油価格。
ですので、1979年の第2次オイルショック(石油危機)の頃というのは、(A)「イスラム過激派」が生み出された時期であって、かつ、(B)「イラン革命」が勃発した時期であって、(C)「ソビエト軍によるアフガニスタン侵攻」が始まった時期でもあるわけです。

で、その少し前のことになるのですが、アメリカとソビエト連邦が覇権争いを行っている中で「米ソデタント」と呼ばれる、朝日新聞などに代表される日本のメディアが喜ぶような、いわゆる「話し合い」が、1960年代末から1970年代末にかけてアメリカとソ連の間で行われていました(もっとも、ソ連にとってそれは、表向きは、ということになるのですがw)。日本のメディア風に表現すれば、「米ソ蜜月」「日本は蚊帳の外」といったところでございますでしょうか(笑)

つまり、1960年代末から1970年代末の、およそ10年間の「米ソデタント」という東西冷戦における緊張緩和期を収束させたのが、(B)「イラン革命」であって、(C)「ソビエト軍によるアフガニスタン侵攻」ということになり、それと同時に、(A)「イスラム過激派」が生み出された、ということになります。

ジョン・F・ケネディ
現在のトランプ大統領は第45代で共和党の大統領になりますが、その10代前の第35代アメリカ大統領が、あの暗殺されたケネディ大統領で、民主党の大統領になります。民主党のケネディ大統領の在任期間は、1961年1月20日~1963年11月22日になります。たったの2年10カ月でした。

民主党(アメリカ)ロゴ
で、その民主党のケネディ大統領の最大の功績が、「ベトナム戦争」でした(笑)

以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
『 1961年1月20日、アメリカ民主党のジョン・F・ケネディが第35代アメリカ合衆国大統領に就任する。ケネディ政権が2年10か月の政権期間に行った外交政策の中で、最も大きな議論を呼んだのが、派兵拡大を押し進めた対ベトナム政策であるとされる。
ケネディ政権は、就任直後に東南アジアにおけるドミノ理論の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置し、統合参謀本部に対してベトナム情勢についての提言を求めた。特別委員会と統合参謀本部はともに、ソ連や中華人民共和国の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていたベトナム共和国(南ベトナム)へのアメリカ正規軍による援助を提言した。ケネディは、正規軍の派兵は、ピッグス湾事件やキューバ危機、ベルリン危機など世界各地で緊張の度を増していたソビエト連邦や中華人民共和国との対立を刺激するとして行わなかったものの、「(北ベトナムとの間で)ジュネーブ協定の履行についての交渉を行うべき」とのチェスター・ボウルズ国務次官とW・アヴェレル・ハリマン国務次官補の助言を却下し、「南ベトナムにおける共産主義の浸透を止めるため」との名目で、1961年5月にアメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という名目の、実際はゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。』

で、暗殺されたケネディ大統領の後任が、同じく民主党で副大統領であったリンドン・ベインズ・ジョンソンでした。、

機内で大統領宣誓するジョンソン。隣はジャクリーン・ケネディ夫人(1963年
この民主党の大統領であるリンドン・ベインズ・ジョンソンの在任期間は、1963年11月22日~1969年1月20日までとなります。

リンドン・ベインズ・ジョンソン
つまり、民主党の第36代大統領リンドン・ジョンソンの政権末期頃に、「米ソデタント」という東西冷戦における緊張緩和期が始まり、その後、約10年という期間を経て、(B)「イラン革命」が勃発し、(C)「ソビエト軍によるアフガニスタン侵攻」が行われ、それと同時に、(A)「イスラム過激派」が生み出された、ということになります。

リンドン・ジョンソンの政権は、貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会 (Great Society) 」政策を掲げる、非常にリベラル色の強いもので、

大統領執務室でキング牧師らと協議するジョンソン(1964年)
民主党のルーズベルト政権と並ぶほど、「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権でした。

テキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)
他方、外交政策では、民主党のケネディ政権から引き継ぎ、ベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、その結果、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらします。

ベトナムの米軍兵士に勲章を授けるジョンソン(1966年)
挙句の果てには、1968年3月31日に、全米に向けたテレビ演説で、それまでのベトナム政策の劇的な転換を発表します。

次期大統領選への不出馬を表明するジョンソン
そして、大統領選挙に再出馬をしないことを表明し、自らの政治生命に幕を引くことになります。
「米ソデタント」という東西冷戦における緊張緩和期が始まるのが、ちょうど、この頃になります。
続きは次回に♥
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