2019-08-10 (Sat)

本日のキーワード : 無文銀銭、富本銭、和同開珎
富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される銭貨である。708年(和銅元年)に発行された和同開珎より年代は古い。
富本銭よりも前の貨幣として無文銀銭が知られている。無文銀銭・富本銭・和同開珎の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多く、今後の研究課題である。

本日の書物 : 『日本史に学ぶマネーの論理』 飯田泰之 PHP研究所
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 近年の精力的な研究によって、【日本の初期貨幣史は大幅に書き換えられ、そして今も書き換えられ続けている】。30代以上の読者にとって、教科書に登場する最初の貨幣と言えば【和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)】だろう。…

和同開珎銀銭
708年(慶雲5年)に武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から純度が高い自然銅が産出され、それを記念して元号を和銅にあらため、同年日本最初の貨幣である和同開珎が発行された――これが1980年代に筆者が小・中学校で習った貨幣のはじまりである。
しかし、【708年を日本における最初の貨幣発行と考えると非常に困ったことになる】。【『日本書紀』】の中には以下の記録がある。
683年(天武天皇十二年)
4月15日 詔(みことのり)して「今後は必ず【銅銭】を用いよ、【銀銭】を用いてはならぬ」と言われた
4月18日 詔して「【銀】を使用することはやめなくても良い」と言われた
694年(持統天皇八年)
3月2日(天皇は大宅朝臣麻呂らを)【鋳銭司(ぜにのつかさ)】に任じられた
683年に銀銭の使用が禁止されたということは、【それ以前になんらかの「銀銭」が存在】したはずだ。さらに、銀銭ではなく「銅銭を用いよ」と言うからには【同時期に銅銭が存在したか、新たに作られることになった】と解釈しなければつじつまが合わないだろう。694年には銭の鋳造責任者の任命が記されている。

禁じられた銀銭は、今日では、【「無文銀銭(むもんぎんせん)」】と考えられている。無文銀銭は、直径約3cm、厚さ2mm、【重さ10g】ほどの円形の銭である。10gという重さは【当時の重量単位である両(約42g)の約4分の1】にあたる。表面にごく小さな銀片を貼り付けて【重さを調整しているものが存在】することから、【重量が重要な意味を持っていた】ことがわかる。【無文銀銭は4枚で1両の重さになる銀のコイン】というわけだ。…

大津市・崇福寺跡出土の無文銀銭(近江神宮蔵)
☆『無文銀銭と和同開珎―日本最古のコイン―』 京都国立博物館HP
ここで少しだけ用語を補っておきたい。【経済学】では、
取引決済機能:交換・取引の支払いの手段として用いることができる
価値保蔵機能:資産として保有・保存することができる
価値尺度機能:他のものの価値を表す基準・尺度になる
を持つものを【貨幣】と呼んでいる。そのため、現代の統計においては【現金】だけではなく、公共料金の引き落としや振り込みに用いることができる【預金(残高)】を【あわせて貨幣】としている。
また、本書のように前近代社会における貨幣を考えるにあたっては、その【形状・形態による分類】を知っておいた方がよいだろう。貨幣、なかでも金属でできた貨幣は二つに分類される。
秤量貨幣(ひょうりょうかへい):重さを計って取引に用いられる
計数貨幣:一定の形式で整えられ、個数・枚数を基準に取引に用いられる
明治以降の日本における貨幣は全て計数貨幣であるが、江戸時代までは銀の重さを基準にした秤量貨幣も流通していた。

なお、【7世紀当時の中国・朝鮮半島】には数百gから1kg以上の一定量に整えられた【銀塊はあった】が、【無文銀銭のような小さな銀貨・コインは存在しなかった】。

【銀塊】では額が多すぎて取引の仲介手段として用いることはむつかしく、【貨幣と呼ぶことはできない】だろう。

【無文銀銭は当時のアジアで唯一の銀の貨幣、しかも計数貨幣であった】。

【中国の模倣ではない独自のシステムから日本の貨幣史がはじまる】。』

東京書籍の教科書には書かれていない「無文銀銭」
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、我が国の歴史である国史の流れの中の「おカネ(貨幣)」に注目し、そこから現代経済学の知見に基づいて検証し、「経済」と「金融」というものを改めて考えていくというテーマで書かれた書物であり、「おカネ(貨幣)」というものが、そもそも何であるのか、ということを理解できるようになる良書になります。

さて、本文中に我が国最古の「おカネ」が登場していましたが、実際に教科書にはどのような記述がなされているのか、手元にございます東京書籍の『新編 新しい社会 歴史 <平成28年度採用>』で確認してみたいと思います。







と、御覧のように、「中国の模倣ではない独自のシステムから日本の貨幣史がはじまる」にもかかわらず、「当時のアジアで唯一の銀の貨幣、しかも計数貨幣であった」、その「無文銀銭」については、何ら記述がなされていません(笑)

何が問題なのかと申しますと、この時代の大きな国際的な流れが描かれないまま、「唐に見習った」みたいな記述が中心となっている点です。

「無文銀銭」の発行は、667年から672年頃と考えられていますが、その当時の都は、現在の滋賀県大津市にありました。

☆「時の記念日」近江神宮で漏刻祭 - 産経WEST
6世紀の朝鮮半島の南西部にあった百済(くだら)の後ろ盾となっていた大国が我が国でした。

聖徳太子の時代に、支那を支配していた鮮卑族王朝の隋は、何度も高句麗を攻めますが失敗し、当時の王さま煬帝(ようだい)は恐れをなして南へと逃げます。そう、その煬帝こそが、聖徳太子が「日出處天子致書日沒處天子無恙」(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや)としてお手紙を差し上げた相手でした(笑)
そして、その隋が、同じく鮮卑族の李淵(りえん)に乗っ取られて、7世紀初め、新たに鮮卑族王朝の唐が誕生しますが、のちに李世民(りせいみん)は唐の王さまであると同時に「遊牧民族連合の王さま」にもなります。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「大化の改新」は、何のために必要だったのでしょうか? なぜならば、・・・

やがて、唐は朝鮮半島への侵略を計画するようになります。その標的が、我が国が後ろ盾となっていた百済でした。
(以下は、Wikipediaからの抜粋です)
『 新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した。
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。』
緊迫している情勢が、良く分かると思うのですが、これって、現在の支那・朝鮮半島情勢と同じですね💗 要するに、1400年ほど前から、ずっと同じことが支那・朝鮮半島で繰り返されてきたわけです。進歩がないということです(笑)

で、660年に百済が唐・新羅に滅ぼされます。663年、我が国は百済再興を目指し朝鮮半島へ出兵し、そこで決定的な敗北を喫します。これが「白村江の戦い」です。
その敗北によって、唐との来るべき戦いに備える必要があることは明白です。そのため、667年に飛鳥から近江へと遷都が行われました。「無文銀銭」は、まさにその時に発行されていた「おカネ」になります。
さらに、8世紀に入ると、国家統治の体制整備を次々と行っていきますが、それは単純に「唐に見習った」わけではなく、不要なものには見向きもせず、良いものは積極的に採り入れ、それをさらに改良し、まったく新しい我が国オリジナルなものを創造する(創りかえる)ことで、発展していくようになります。
続きは次回に♥
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