2019-07-18 (Thu)

「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画
本日のキーワード : 西南戦争、おカネ
西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である
本日の書物 : 『経済で読み解く日本史④ 明治時代』 上念司 飛鳥新社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 1877(明治10)年2月、【西南戦争】が始まりました。

「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」
当初、薩摩軍は熊本鎮台を制圧して全国に政府の弱体化をアピールしようとしました。ところが、熊本鎮台は良く持ちこたえ、その間に政府は海路増援部隊を送り逆に薩摩軍が挟み撃ちにされました。

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍
この戦いで薩摩軍は敗走し8月には宮崎県長井に追い詰められました。西郷はここで反乱軍を解散し、鹿児島に逃れますが潜伏先の城山を大軍に包囲されその後の戦闘で戦死しました。最初から勝ち目のない、集団自殺のような戦いでした。

薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」
大久保は【士族反乱】と【農民一揆】が【一体化すること】を【何よりも恐れていました】。そのため、評判の悪かった【地租を軽減】することで分断を図りました。

大久保利通
具体的には、地租の税率を3%から2・5%に引下げ、あわせて地方税(民費)の上限を地租の3分の1から5分の1に減税することを決定し即座に実行されたのです。前年の【1876(明治9)年の歳入が5948万円】だったのに対して、【減税の総額は1500万円】にも上る大盤振る舞いでした。
また、【西南戦争の戦費調達】のため、この時期【大量の紙幣も発行】されました。【現金通貨の伸び率は、1877年は13%、翌年は35・5%】となりました。新貨幣条例以来、日本は事実上の変動相場でしたが、金(ゴールド)との交換レートを守るため通貨発行は抑制的に行われていました。しかし、国家の非常時でその原則は吹っ飛んでしまったようです。
この【減税と金融緩和】は思わぬ効果を生みました。本シリーズをここまでお読みいただいた皆様ならピンとくるでしょう。

これは【貨幣量の増加をもたらす政策】でした。金(ゴールド)との交換レートを守るために貨幣量を抑制していた政策を捨てて、【貨幣量を増加させる政策への転換】は、【人々に経済政策のレジームチェンジを確信させました】。このことは米価の推移にもはっきり表れています。
西南戦争の前年の1876年に底を打った米価は、その後1880年まで右肩上がりに上昇しています。【米価の上昇】は【地租の実質的な軽減を意味】します。これに加えて大久保による【地租軽減】が重なり、【農民の税負担は劇的に軽減】されることになりました。これで農民から不満が出ようはずがありません。各地で頻発した地租改正反対一揆はこの頃を境に下火になったのです。農民たちは一揆よりも、もっと【平和的に国の政策に影響を与える道】を選びました。この頃から【自由民権運動】が盛んになっていきますが、【米価高騰】と【地租軽減】で【豊かになった地方の豪農】と言われる人々が、【スポンサーとして民権運動家を支援】したことがその大きな理由です。』

戦争とおカネ
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の歴史を、経済・金融の面を切り口としてみた場合、これまで学校の授業でお勉強させられ、「訳の分からない歴史」でしかなかったものが、普段の日常感覚で国史の流れをスッと、いとも簡単に理解できる、という良書で、また、多くの方々が勘違いしていると思われる「おカネ」というものについて、非常に正しい認識ができるようになる、お薦めの書物の第4巻になります。

さて、本文中に「西南戦争の戦費調達」のために、大量の紙幣が発行された、と書かれていましたが、西郷軍の側でも、同様に戦費調達のための紙幣を発行していました。それが、不換紙幣の「西郷札(さいごうさつ)」です。

西郷札(表)

西郷札(裏)

この「西郷札」は、「おカネ」というもの考える上で、とても参考になると思います。
また、江戸時代に、最後に発行された小判が、1860年に発行された「万延小判(まんえんこばん)」で、明治元年(1868年)以降、現在、私たち日本人が我が国の「おカネ」として利用している「日本円」に統一されていく過程も、歴史として知っておいて損はありませんし、「おカネ」が何であるのかを理解する手助けとなります。

万延小判
『 万延小判(まんえんこばん)…万延元年(1860年)に発行された江戸時代最後の小判であり、それ以前に世に出た小判と比べて半分程度の大きさで、それだけ金の含有量も少なかった。この劣悪な小判の発行は当時幕府が財政悪化に直面していたという事情に加えて、安政の開港以来、良質の小判が狡猾な外国商人によって海外に大量に持ち出されていたことに苦慮した幕府官僚が考え出した苦肉の策であった。小型で金の含有量が少ない小判なら、海外に持ち出して銀貨に交換しようとしてもかつてのような儲けが出ない。この小判の発行でようやく日本からの小判の流出は収まった。万延小判の鋳造が終わったのは、慶応3年(1867年)、まさに幕府の倒壊寸前の時であり、坂本龍馬や桂小五郎もあまりに小さいこの小判に驚きながら、日常の費用や討幕のための軍資金として、触れていたことだろう…
維新を迎えて国際社会に船出した日本が、さまざまな試行錯誤を経て明治4年(1871年)に発行した新貨幣「円」は、14年後の明治18年(1885年)に「日本銀行券」として姿を変え、わたしたちの日常に息づいている。維新という日本の世直しを見つめた外国人は、当時の日本に溢れていた形も値打ちも違う多種多様な金貨や銀貨、それに銅銭や鉄銭などの流通に驚いた。さらに、かれらは、江戸や東国では両という名の金貨が主に使われ、大坂を中心とした西国では銀何貫目という目方で価値を示す銀貨が使われていることを不思議に思ったという。
明治維新を成し遂げていく過程で、新政府は財政不如意を乗り切るために紙の金(カネ)である太政官札(だじょうかんさつ)を発行した。

太政官札
それに幕政時代の遺物である全国二百種類の藩札が加わり、お金の混乱は極度に達していた。そこで、新政府は国家統一のためには、まず国際基準に沿った「円」という名の金貨を発行し、

明治四年の一圓金貨
さらに円表示の紙幣である「明治通宝札(めいじつうほうさつ)」を発行していく。』

明治通宝一圓紙幣
『 260年余続いた徳川幕府が名実ともに倒壊したのは、慶応4年(1864年)正月の鳥羽伏見の戦いでの敗戦を契機とする。だが、緒戦の戦いに勝ったものの、新政府の中核となるのは、260に上る諸藩の中で、薩摩、長州、土佐、広島、尾張、福井など、わずかである。たちまち軍資金は底をついた。頼りとする皇室の財産といえども、禁裏御用地と皇族公家領合わせても10万石にすぎず、国内全体の石高3000万石の、わずか0.3%にすぎなかった。そこで新政府は、まず手始めに、幕府直轄領400万石と旗本御家人の知行地300万石を手中に収めたが、まだ全国の石高の75%を占める諸藩が屈服していない。これらの諸藩を降伏させるための戦が、まだまだ必要だが、その費用をどう捻りだすか。それが最大の問題となった。新政府は…軍資金を集める機関として、金穀出納所(きんこくすいとうしょ)なるものを設立していた。この役所こそ、国の台所を扱う大蔵省、現在の財務省の前身である。

鳥羽伏見の戦が終わった直後…その役所にまず献金したのが、三井、小野、島田などの大両替商たちである。献金額は合わせて1万両という。この1万両という額は、当時の米価(一石あたり5円52銭)から推測すると、約1億5000万円強といったところだろう。』
『 新政府は、軍事費を賄うために、急場しのぎで金貨銀貨を鋳造し、北へ東へと東征軍を送り込んだ。だが、やみくもに鋳造された貨幣は、財政不如意に陥った幕府の貨幣よりもさらに悪品質であり、世に贋金(にせがね)を蔓延させる契機ともなったのである。

万延二分判(止め分/称明治二分金)
戊辰戦争遂行という大命題を貫徹させるために、粗製乱造された二分金(にぶきん)の中に、劣位二分金と後世に名づけられた特異な金貨がある。とくに、大坂で鋳造された60万8000両を指すが、この二分金は、含有金量が1000分の176というもので…著しく低位である。姿形は同じ、重量も同じ、だが、価値を比較すれば全く劣悪な二分金であった。いかに新政府が急いで軍資金を確保せねばならなかったかがよくわかる。この二分金は、街道筋の宿や小売商などで使われ、それを手にした両替商は、すぐに質の悪さに気がついただろう。その噂が広まると、二分金そのものの質が問われ、人々は疑心暗鬼となる。
さらに、決定的な事態が生じた。贋二分金そのものの登場であった。贋二分金は、銀台に金のメッキを施したもので、石の上に落とすと奇妙な音がするので、その音を真似て「チャラ金」と蔑称された。明治二年に信州上田地方で発生した騒動は、この贋二分金の横行に苦しんだ農民たちの抗議行動で、「チャラ金騒動」と呼ばれた。養蚕が盛んだったこと地方の農民たちが、換金物であった繭(まゆ)の代金として受け取った二分金がほとんど贋であったことから、この事件が起きた…
さて、贋金をつかまされた日本人に対して、政府は明らかに外国人とは異なる対応をすることになる。外国人には金貨と引き換えたが、日本人には、紙のカネ、つまり紙幣と交換したのである。新政府は贋二分金とはいえ、銀台に金メッキしたものは再生の価値があると判断した。検討の末同じ年の明治二年十月に、銀台の二分金を正貨と引き換えることとしたのである。しかし、引き換える貨幣は、外国人に手渡した金貨ではなく、当時、財政的に行き詰まっていた新政府が発行した紙のカネ、つまり太政官札(だじょうかんさつ)という紙幣であった。さらに、交換の比率も全額ではなかった。銀台二分金100両につき30両の太政官札である。』

由利公正
『 名うての財政通である三岡八郎(みつおかはちろう)…三岡は、後年、由利公正(ゆりきみまさ)と名乗り、東京府知事として東京銀座の煉瓦街を作ったことで知られるが、かつて財政難にあえいでいた福井藩を藩札5万両の発行によって見事立ち直らせた人物として、京にもその名を轟かせていた。そのため、有能な「財務大臣」として、早くから京の太政官代に招かれていたのである。彼は、鳥羽伏見の戦が終わるとすぐに、各地への官軍派遣のための軍費調達に全力を傾けた。京、大坂の豪商たちをなだめすかし、時には刀で脅し挙げてのカネ集めを行い、東征軍の取りあえずの軍費を調達したのである。だがこれだけでは、今後の政府の施策を支え、民生安定のためにの資金には、全く足りない。三岡は、今では国民に広く浸透している「国債」に似た紙幣の発行を思いついた。彼が、かつて福井藩で行った5万両の藩札発行と同じ試みである。福井では、5万両の藩札を領民に貸しつけて生糸などの生産の資金とし、全国で販売させた。これが予想以上の成果をあげ、50万両ものカネを稼ぎだし、藩の財政を豊かにしたのである。この方法を日本全国で展開したらと、三岡は考えた。つまり、藩札ではなく、日本全国で流通する紙幣の発行である。紙幣に刷られた発行元が「太政官会計局」となっていることから、太政官札と呼ばれたこの紙幣は、日本初の全国通用紙幣と言えよう…

太政官札
裏面には、「通用十三年」と刷られている。これには、10年間で元金を返還させ、残りの3年間は、正金で3割の利息を支払わせるという政府の狙いがあった。』

さて、最後のところで、「藩札」と「太政官札」のお話が登場していましたが、「おカネ」というものが何であるのか、ということが良く理解できるのではないでしょうか?

つまり、「おカネ」は、「負債(借金)」だということです💗

そして、その「おカネ」は、私たち人間が創り出した非常に便利なモノなのですが、問題となるのが、その「おカネ」には「ヒト」や「モノ」のように寿命が存在していない点にあります。要するに、ずっと増え続けてゆくことになる、そこが問題になります。
それでは、本日の最後に、「おカネ」というものが“何なの”かを考えるために、御覧頂きたい良書をご紹介させて頂きたいと思います。

ミヒャエル・エンデ
『 第一次世界大戦後、レーテ共和国時代のバイエルンにシルビオ・ゲゼルという人物がいて、「お金は老化しなければならない」というテーゼを述べています。ゲゼルは、お金で買ったものは、ジャガイモにせよ靴にせよ消費されます。ジャガイモは食べられ靴は履きつぶされます。しかし、購入に使ったお金はなくなりません。そこでは、モノとしてのお金と消費物質との間で不当競争が行われている、とゲゼルは言います。お金自体はモノですね。売買されるのですから。しかし、お金は減ったり滅することがないものなのです。一方、本来の意味でのモノは経済プロセスのなかで消費され、なくなります。
そこでゲゼルは、お金も経済プロセスの終わりにはなくなるべきであるといいます。ちょうど血液が骨髄でつくられ、循環して、その役目を果たしたあとに老化して排泄されるように。お金とは経済という、いわば有機的組織を循環する血液のようなものです。ゲゼルの理論を実践し、成功した例があります。1929年の世界大恐慌後のオーストリアのヴェルグルでの話です。町は負債を抱え、失業者も多い状態でした。そこでヴェルグルの町長だったウンターグッゲンベルガーは現行の貨幣のほかに、老化するお金のシステムを導入したのです。

このシステムは簡単にいえば、1ヶ月ごとに1%ずつ価値が減少するというものでした。町民は毎月1%分のスタンプを買って老化するお金に払わなくてはならないという仕組みでした。このお金はもっていても増えないばかりか、減るので、皆がそれをすぐに使いました。つまり、貯めることもなく経済の輪のなかに戻したのです。お金は持ち主を変えれば変えるほど、購買力は大きくなるのです。一日に二度、持ち主を変えるマルクは、一日に一度しか持ち主を変えないマルクより購買力が大きいのです。2年後には失業者の姿が消えたといいます。お金を借りても利子を払う必要がないので、皆がお金を借りて仕事を始めたのです。町の負債もなくなりましたが、オーストリア国家が介入し、このお金は禁止されました…このお金は時間とともに目減りするので、誰も受け取らないだろうと最初は思われましたが、皆が喜んで受け取りました。』

続きは次回に♥
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