2019-07-09 (Tue)

スペインのガレオンとオランダの軍艦(1618〜1620年)
本日のキーワード : マニラ・ガレオン
マニラ・ガレオン(またはアカプルコ・ガレオン、ナオ・デ・チーナ)は、スペインの貿易船。1年ないし2年をかけて、太平洋を渡り、フィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコを行き来した。名称はガレオン船と船の行き先による。1565年から19世紀初頭まで存在した。メキシコ独立戦争とナポレオン戦争によって終焉を迎える。クリストファー・コロンブスの死後60年近くが経過してから就航したが、マニラ・ガレオンは「インドの富をスペインに運ぶ」、「東に行くために西進する」というコロンブスの夢を現実のものとした。また、この貿易を「ガレオン貿易」もしくは「アカプルコ貿易」と呼称する。

白線はマニラ・ガレオンの航路、青線はポルトガルの航路

スペインで1632年に刊行された本に描かれたアカプルコ湾。
本日の書物 : 『経済で読み解く日本史② 安土桃山時代』 上念司 飛鳥新社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【中世の寺社勢力】は、支那大陸から銅銭を輸入する【事実上の「中央銀行」】であり、勝手に関所を作って【物流を握る「経済マフィア」】であり、ほぼ治外法権に近い荘園と寺内町(じないまち)を運営する【「封建領主」】でもありました。…

【織田信長】が寺社勢力と対抗し、時には戦争に及んだ理由は、この【経済における“特権”を奪う】ためです。この特権こそが、中世的な世界を形作っていた【権門体制(けんもんたいせい)】そのものでした。信長のおかげで、【経済活動の主導権】の大部分は、寺社から【武家】、および【一般庶民】に移りました。

織田信長
しかし、その仕事が完成する直前に「本能寺の変」が起こってしまったのです。残念ながら、信長の仕事は中途半端な形で終わらざるを得ませんでした…。
未完となった信長の仕事を引き継いだのが、【豊臣秀吉】です。

豊臣秀吉像(狩野光信筆 高台寺蔵)
時は16世紀後半、【世界経済に大きな転換】が訪れた時期でもありました。その【最大の原因】は【「貨幣制度の混乱」】です。日本が渡来銭(銅銭)を受け入れて早500年、磐石に見えたその制度には大きな欠陥がありました。
その欠陥とは…【「銅」の枯渇】!!

【日本でも支那でも貨幣経済が発達しすぎて銅銭の絶対量が足らなくなってしまった】のです。
特に、本能寺の変があった1580年代はまさにその混乱がピークに達していました。その理由は、当時、支那大陸を支配していた【明朝の「貨幣制度の変化」】です。
そして、【その変化の原因を作ったのは、なんと日本だった】のです。日本が起こした支那大陸における貨幣制度の揺らぎが、まわりまわって日本に帰ってくる!? まるで、「ニューヨーク市場で株価が暴落すると、翌日に東京の株価も暴落する」といった具合です。

世界遺産に認定された【石見銀山(いわみぎんざん)】こそが、【支那の貨幣制度、そして世界全体の経常の仕組みを変えた原因】でした。【銅銭から銀貨へのシフト】によって、支那経済は爆発的に成長します。貨幣制度が変わるだけで、なぜそんなことが? その秘密は、【現代の経済学の理論によって簡単に説明可能】ですが、それは後ほど詳しく述べることにします。
支那の手工業製品の生産は増大し、ポルトガルやスペインとの貿易を通じて、「メイド・イン・チャイナ」が世界を席巻しました。支那の絹製品によって、ヨーロッパの絹織物業者が失業する。これぞまさにグローバリズム! もうこの時代から始まっていたのです。』

石見銀山とポトシ銀山
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の歴史を、経済・金融の面を切り口としてみた場合、これまで学校の授業でお勉強させられ、「訳の分からない歴史」でしかなかったものが、普段の日常感覚で国史の流れをスッと、いとも簡単に理解できる、という良書で、また、多くの方々が勘違いしていると思われる「おカネ」というものについて、非常に正しい認識ができるようになる、お薦めの書物の第2巻になります。

さて、石見銀山で重要な技術として「灰吹法(はいふきほう)」が良く知られています。

清水谷精錬所跡
金や銀などを含む鉱石を、まず鉛と共に加熱することで、金や銀は鉛に溶け込んで合金になるのですが、それを今度は、骨灰の皿に乗せ、空気を通しながら高温で加熱すると、鉛は空気中の酸素と反応し酸化鉛となり、それが骨灰の皿に吸収されて、金や銀の合金だけが残ることになります。その様子は下の動画で確認できます。

☆はじめての石見銀山
で、かつては、この「灰吹法」が1533年に李氏朝鮮から渡来した技術であり、石見銀山で用いられ、それが全国に広まっていったことから、わが国最古の「銀の製錬」とされていました。

1533年頃の世界地図
ところが、それ以前、約900年ほど前には、我が国ですでに「銀の製錬」が行われていたことが、近年、判明しています。その場所が、「飛鳥池工房遺跡(あすかいけこうぼういせき)」になります(詳しくは下記リンク先の論文をご参照くださいませ)。

☆古代の金・銀精錬を考える -飛鳥池遺跡の事例を中心に- 村上隆
本書を御覧頂ければ分かるのですが、この頃は、いわゆる「大航海時代」と呼ばれる、世界(=ヨーロッパ以外の地域)に植民地支配が拡がってゆく時代になるのですが、織田信長(1534年~1582年)や豊臣秀吉(1537年~1598年)は、そのことを良く知っていましたし、それが意味する「ことの本質」を理解さえしていました。

1521年、スペインはアステカ帝国を攻め滅ぼし、

アステカ帝国の版図
「新スペイン」という意味の言葉を冠した「ヌエバ・エスパーニャ副王領」という海外植民地を創ります。

ヌエバ・エスパーニャ副王領
上の地図で、現在のフィリピンも含まれていることが分かりますが、マゼラン海峡で有名なフェルディナンド・マゼランが、世界一周の航路を探索中、1521年にフィリピンに到達し、そこで死亡しましたが、その後、マゼラン亡き後の艦隊がスペインへと帰還します。

マゼラン艦隊の航路

フェルディナンド・マゼラン
1529年、スペインとポルトガルとの間に「サラゴサ条約」という「平和条約」が勝手に結ばれ、現在のフィリピンの領域がスペインの支配地域となりました。

フィリピン共和国

ヌエバ・エスパーニャ副王領
そして、スペインは、1543年、「ペルー副王領」という中南米における2つ目の海外植民地を創ります。

ペルー副王領の位置:1542-1718の領土(薄緑、濃緑)、1718-1824年の領土(濃緑)
そして、1545年のポトシ銀山、1546年のサカテカス銀山、と相次いで大規模な銀鉱床を発見します。特にポトシ銀山は、1581年から1600年の間、平均年間254トンを産出(最盛期の日本の銀産出が年間200トン超)するほどで、当時のヨーロッパに流入する銀の1/3がメキシコ産、2/3の大半がポトシ銀山からのものであったと考えられています。

ポトシの位置
マゼラン亡き後の艦隊を率い、世界一周を果たしたとして知られるのが、フアン・セバスティアン・エルカーノです(異説があります)が、

フアン・セバスティアン・エルカーノ
史上2番目として考えられているのが、アンドレス・デ・ウルダネータになります。

アンドレス・デ・ウルダネータ
このアンドレス・デ・ウルダネータの功績として重要なポイントが、1565年に、フィリピンからアカプルコ(メキシコ)への航路を創ったことです。


アカプルコ港(1628年)
1571年、フィリピンにマニラが造られ、東アジアの交易の拠点となります。そして、このマニラとアカプルコを結ぶ交易路、さらにアカプルコとリマ(ペルー)を結ぶ交易路が形成されてゆきます(詳しくは下の動画を御覧下さいませ)。
ところで、ここまでご覧頂いたことでご理解頂けると思いますが、日本には「灰吹法」の技術が既に存在していて(伝承が途絶えていたかどうかは兎も角)、自国独自の貨幣を創ることも出来たにもかかわらず、それをせず、貴金属の銀として支那へ輸出し、流入する銀を元に支那が独自の貨幣の鋳造を進めて経済の爆発的な発展を遂げ、他方、スペインも新大陸の植民地から金や銀を採掘し、それをヨーロッパへと持ち帰り、貨幣を鋳造し、やがて「太陽の沈まぬ帝国」(=ある領土で太陽が沈んでいても、別の場所では出ている)と呼ばれる繁栄を迎えることになりますが、何故、我が国は独自の貨幣を鋳造しなかったのでしょうか?(その理由は本書に書かれています)

メキシコ産スペインドル(1650年)
本文中にも書かれていましたように、もともと支那で流通していた「おカネ」としての「銅銭」が、銅の枯渇によって、「銅銭の絶対量が足らなくなってしまった」ために、当然の帰結として、物価が下落圧力を受けることになり、いわゆる「デフレ」を招き寄せることになります。

それと同じことが、今回の参院選の最大の焦点となっている「消費税増税」という愚策になります。こんな愚策を政策に掲げてしまう時点で、もちろん、与党は大敗となるでしょう(笑)


☆首相、党首討論で「消費増税後10年は上げず」 : 選挙・世論調査 : 読売新聞オンライン
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆小室直樹 消費税は民意を問うべし ―自主課税なき処にデモクラシーなし―

それでは、昨日の続きになりますが、バリバリの社会主義者であり経済学者でもあったこの(↓)要注意人物のお話になります。

都留重人
『 昭和二十年八月三十日、マッカーサーが厚木に降り立って間もなく、ハーバート・ノーマンも再び日本の土を踏んだ。ノーマンの身分はカナダ公使官員だったが、マッカーサーの強い要望から総司令部の対敵諜報部(CIS)分析課長に任命される。

エドガートン・ハーバート・ノーマン
そのノーマンが最初にやった仕事は、府中刑務所に入っていた徳田球一(とくだきゅういち)や志賀義雄(しがよしお)ら、十六名の主要な共産党員を釈放することだった。十五日の朝、ノーマンは彼ら共産主義者を解放した瞬間、「このときほど自分の生涯で楽しかったことはなかった」と回想している。


徳田球一(1952年)

詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆徳田球一とシベリア抑留 ~ 「日本共産党はブレない」のだそうです(笑)

マッカーサーが、日比谷の第一生命ビルをGHQの本部としたのは九月十五日である。その数日前、ノーマンは和田家に仮住まい中の盟友、都留重人(つるしげと)を訪ねている。極めて俊敏な行動といっていい。そこで都留から府中刑務所に共産党員多数が拘束されている事実を聞かされ、総司令部に解放命令を出させる約束をしたのだった。

ノーマンの次の作業は、GHQから委託されて、近衛文麿と木戸幸一に関する意見書を作ることだった。
近衛、木戸をA級戦犯指名し、起訴に持っていくための資料である。木戸の姪が都留の妻であることは、当然のこと先刻承知している。ノーマンは再度、都留を訪ね、その情報をよすがとしてGHQに二通の「戦争責任に関する覚書」を提出した。この「覚書」で近衛と木戸は、それぞれの位相を際立たせる形で論評されている。近衛はここまで言うか、というほど酷評され、木戸は内大臣の職責は「所詮、盲腸のようなものさ」と言った都留の言がそのまま使われるほど、身贔屓(みびいき)に満ちた内容だった。
都留の仕事は、いかに内大臣の役割が無意味で軽い職だったかを証明することだった。

木戸幸一
たしかに初期の内大臣の職務は「盲腸」のような存在ともいわれたが、昭和天皇の時代には違った。事実、木戸は東條を天皇に推挙したことに始まり、五年有半にわたってもっとも重大な国事に関与してきた。天皇の一番傍に仕え、参内上奏の諾否を決定し、西園寺亡きあとは、あたかも元老のように振る舞う地位にいた。その木戸の役割をノーマンは必要以上に軽く見せようと、都留と図っていたのである。木戸「覚書」は近衛「覚書」の三日後に提出されているが、賛辞に満ちた木戸「覚書」から先に見ておこう。
「戦争責任に関する覚書 木戸幸一 一九四五年十一月八日
――内大臣の地位は政治的に有力というよりは多分に名誉と威厳をともなうものであった。法律的任務を有効にする御璽(ぎょじ)の保持者である内大臣は、政治的影響力において、宮内大臣をしのぐことはほとんどなく、枢密院議長より重要でないのは確かであった。――事情を知る人びとの報告から、木戸が最初に降伏を決定した重要人物の一人であったことは合理的に十分立証される。その件について決心がつくと、かれは考えられるあらゆる影響力を使って、天皇とその顧問たちに降伏の必要性を説いた。この事についてかれの決断とそれを遂行した一貫性は木戸の典型的な点である。かれは果断で鋭敏な人物であり、友人でかつて後援者だった近衛とは対照的に、心が決まれば敏速に行動する」
孤独だと言われていた天皇にとってただ一人の最高助言者だった事情さえも、都留はノーマンに説明しなかった。近衛は三年間にわたって天皇に拝謁できなかったが、その全面に立ち塞がったのは木戸である。迫り来る共産革命の脅威を説いた「近衛上奏文」を知った木戸 → 都留 → ノーマンたちは、近衛を貶(おとし)めるための「覚書」を作成した。

都留重人

子泣き爺

次に、弾劾された近衛「覚書」である。
「戦争責任に関する覚書 近衛文麿 一九四五年十一月五日
かれが他人に罪を着せる本能はよく知られているが、その近衛も日本の中国侵略を『正当化する』断定的諸声明を弁明しおわせることは今までのところ明らかにできずにいる。――近衛にはコンプレックスがあったし、ときには特に政治において矛盾した性格があった。生まれつき憂鬱症で、ふさぎこんで逡巡と不決断と因循(いんじゅん)に身をまかせる性格であった近衛のいろいろな行動や方針をいっしょに組み合わせて検討してみても、何らかの型が容易に浮かび上がってくるものではない。かれは弱く、動揺する、結局のところ卑劣な性格であった。
淫蕩(いんとう)なくせに陰気くさく人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心で虚栄心が強い。――ひとつ確かなのは、かれが何らかの重要な地位を占めることを許されるかぎり、潜在的に可能な自由主義的、民主主義的運動を阻止し挫折させてしまうことである。かれが憲法起草委員会を支配するかぎり、民主的な憲法を作成しようとするまじめな試みをすべて愚弄することになるであろう。かれが手に触れるものはみな残骸と化す」
ここまで口を極めて罵(ののし)らなければならなかった動機は、言うまでもなく「上奏文」の内容にあった。』

近衛文麿
詳しくはこちらをご参照💗
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