2019-07-01 (Mon)

本日のキーワード : 増税
増税 : 課税の額を増すこと。既存の税率を引き上げたり、新税を創設することをいう。

☆消費税、増税か凍結か=年金、改憲も争点-参院選・与野党公約【公約比較】:時事ドットコムpol
本日の書物 : 『なぜデフレを放置してはいけないか 人手不足経済で甦るアベノミクス』 岩田規久男 PHP研究所
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 14年度【消費増税後】の【家計消費】は【低迷】しています。

17年度の家計消費は【増税前の13年度よりも1%低い水準】に留まっています。18年第4四半期も13年度第4四半期の水準に戻った程度です。
こうした【消費増税後の消費の低迷の原因】としては、次が考えられます。

第一に、【低所得の年金受給者が増えたこと】です。99年度の2627万人から14年度には4077万人へと【1・6倍に増えています】。【一人当たり平均実質年金受給額】は、12年度は141・9万円でしたが、17年度は134・7万円に【減少】しています。


☆<嫌われた報告書~“老後に2000万円”読んでみた>NHK「よく読むと特別新しい事を示したものではないことがわかりました」~ネットの反応「これじゃあ騒いでる野党やマスコミがバカみたいじゃないかwwww」
第二に、【低所得者の非正規社員が増えたこと】です。99年の非正規社員は1225万人で、全社員に占める割合は25%でしたが、14年度の【消費増税当時】は、1967万人で、99年よりも【1・6倍に増えています】。非正規社員割合は【37%に上昇】しています。
一方、14年度の給与額は、正規社員は平均年間516万円でしたが、非正規社員は281万円で、【正規社員の55%にすぎません】でした。
こうした【低所得者】は、【消費増税の負の影響を強く受ける】、いわば【「消費税弱者」】です。

図表3-17は【消費増税後】、【世帯主の年齢階級別消費性向】が【全体として低下している】ことを示しています。

その一因として、【税と社会保障費負担】が、とくに30歳代から定年年齢に達する直前の59歳までの【負担が増加し続けている】ことがあげられます。現役世代は今後も、【税(消費税も含めて)・社会保障費負担】が【増える一方】で、自分たちが【受給できる年金に期待が持てない】ため、【節約して老後に備えている】と思われます。


暗い話ばかりが続きましたが、図表3-19に示されているように、【18年度になってようやく、どの所得階級でも実質可処分所得が増えました】。つまり、【税・社会保障費負担の増加以上に、実質所得が増え始めた】のです。

今後も18年度のようなかたちで、アベノミクスが前進することが期待されます。』

シュンペーターとマルクス主義
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、我が国が長期間に渡ってデフレから抜け出せない根本原因が、①日本銀行の金融政策の失敗、と、②財務省が主導する緊縮財政&増税、と、③世界の主流である経済・金融政策の理論とは異質の主張をする日本の経済学者、と、④民意を問うことなく勝手に増税を決めてしまう日本政府、にあるということが、非常に分かりやすく丁寧に解説されていて、今、このタイミングで消費税率引き上げを実施することが、「自滅の特攻攻撃」に等しい愚策であるということを、嫌というほど分からせてくださる良書になります。

さて、繰り返し指摘させて頂いておりますように、現在、ようやくデフレ脱却の寸前であるにもかかわらず、「消費税率引き上げ」を民意を問わず勝手にやってしまおうとする、戦前の「革新官僚」の伝統を踏襲するのが、現在の日本政府になります。

日本の多くの経済学者は、世界の主流派の経済学者とは異なった、「間違った主張や考え方」をすることで有名ですが、世界の主流派の経済学者の考え方に則れば、このタイミングで「消費税率の引き上げ」をすることが、何を意味するのかハッキリしています。
ですので、当然、海外投資家は、次のような行動に出てくるわけです。

☆逃げた海外勢-日本株の保有比率、アベノミクス前まで急低下
その事を理解されている方々は、極めて厳しい非難をなされていますが、当ブログも同様に非常に激しい怒りを感じています。これ以上、国民を苦しめる愚策を重ねないで頂きたいものです。

☆10月からの消費増税が「リーマン級危機」より筋が悪いと言える理由 @moneygendai

☆【日本の解き方】明確になった財務省の復権 「骨太方針」意に介さず財政審建議…不祥事連発でも消費増税へ

☆安倍総理が衆議院解散をしなかった“どこも報道しない”その背景
昨日のところで、ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター(1883年~1950年)のお話を少し書かせて頂きましたが、1927年にハーバード大学の客員教授になり、1932年には正教授に就任しています。さらに、1947年にアメリカ経済学会会長に、1949年に国際経済学会会長に選出されてもいます。

ヨーゼフ・アロイス・シュンペーター
ここで、「イノベーション」や「創造的破壊」といった言葉で知られる彼の、その立ち位置を確認しておきましょう。
(以下は、Wikipediaからの抜粋です)
『 シュンペーターは、社会学的アプローチによる研究も行っている。この分野の主著である『資本主義・社会主義・民主主義』では、経済が静止状態にある社会においては、独創性あるエリートは、官庁化した企業より、未開拓の社会福祉や公共経済の分野に革新の機会を求めるべきであるとした。そして、イノベーションの理論を軸にして、経済活動における新陳代謝を創造的破壊という言葉で表現した。また、資本主義は、成功ゆえに巨大企業を生み出し、それが官僚的になって活力を失い、社会主義へ移行していく、という理論を提示した。マーガレット・サッチャーは、イギリスがこのシュンペーターの理論の通りにならないよう常に警戒しながら政権を運営をしていたといわれている。

また、シュンペーターは、カール・マルクスを評価していた。

『経済発展の理論』日本語訳(1937年)に寄せられた「日本語版への序文」では、「自分の考えや目的がマルクスの経済学を基礎にしてあるものだとは、はじめ気づかなかった」「マルクスが資本主義発展は資本主義社会の基礎を破壊するということを主張するにとどまるかぎり、なおその結論は真理たるを失わないであろう。私はそう確信する」と述べている。』

御覧のように、シュンペーターはマルクスの考え方に非常に似ていて、それを本人が見てめているほどなのですが、そのハーバード大学教授のシュンペーターに師事した日本人が2人います。柴田敬(しばたけい)と都留重人(つるしげと)です。
柴田敬は、京大教授から日本共産党に入党した河上肇(かわかみはじめ)の弟子になります。

河上肇
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆共産主義者とネトウヨ
☆極左・共産主義者の“転向”と「革新右翼」

そして、もう一人の都留重人は、「反帝同盟事件」で数カ月の投獄と退学処分を受ける(1930年)ほどの、バリバリの社会主義者でした。「反帝同盟(Anti-Imperialist League)」と呼ばれる組織、具体的には、「日本反帝同盟」(正式名称:「反帝国主義民族独立支持同盟日本支部」)については、また、別の機会に書かせて頂きますが、要するに、「日本共産党の外郭団体」です。

都留重人
分かりやすく申し上げますと、ちょっと前に、SEALDsの奥田愛期という、「お馬鹿丸出しのお坊ちゃま」をメディアが喧伝していましたが、アレと同じようなものと言って良いでしょう。

SEALDs 奥田愛期
で、日本で進学できなくなって、アメリカへと渡るのですが、まず、今や「ソ連のスパイ」であったことが判明しているハリー・デクスター・ホワイトの授業を受けます(笑)

ハリー・デクスター・ホワイト

ブレトン・ウッズ協定でのハリー・ホワイト(左)とケインズ(右)
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆もしも、「ミッドウェー海戦」が八百長だったなら。。。

その後ハーバード大学に入学し、シュンペーターに師事することになります。

この都留重人は、当ブログが要チェックだと考えている人物になりますので、もう少し確認していきたいと思いますが、その前に、参考となる別の書物から、少し引用させて頂き、次回以降に続きを書かせて頂きたいと思います。
お話は1941年(昭和16年)9月6日の御前会議から始まります。
『 前夜、天皇はおそらく一晩中、眠れない思いで過ごしたであろう。そして、呻吟(しんぎん)した末にある決意を込めた秘策を思いつき、メモを走らせてからようやく休んだ。翌朝午前10時、宮中「東一ノ間」に、大元帥の陸軍軍装に赤い房が下がった元帥刀を下げた天皇が出御。天皇が着席するのを待って全員が最敬礼して席に着くと、御前会議は開始された。…
冒頭、近衛首相から総括的説明かなされ、続いて原枢密院議長が次のような発言をした。
「 この案を見ると、外交よりもむしろ戦争に重点が置かれている感がある。政府と統帥部の趣旨を明瞭に承りたい」
そこで及川海相が政府を代表して答弁をしたが、統帥部からは誰も発言しなかった。
すると天皇は突如として発言し、
「 私から、こと重大だから両総長に質問する。先刻原がこんこん述べたのに対し、両総長はひと言も答弁しなかったがどうか。極めて重大なことなりしに統帥部長の意思表示なかりしは自分は遺憾に思う」
と異例の厳しい発言があった。
このあと、近衛の手記『平和への努力』によれば、
「 然るに、陛下は突如発言あらせられ――御懐中より明治天皇の御製
四方(よも)の海みな同胞(はらから)と思ふ世になどあだ波の立ちさわぐらむ
を記したる紙片を御取出しになって之を御読み上げになり、
『 余は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述(しょうじゅつ)せむと努めて居るものである』
と仰せられた」
とその場の情景を書き残し、満座は粛然として声もなかった、と付け加えている。「よもの海」を天皇は2度繰り返し朗詠したとの説もある。いずれせよ、天皇に「どうか」とまで問い詰められ、出席者全員は背筋をこわばらせた。…
実は注意して読めば、天皇が詠んだ歌には奇妙な齟齬が隠されていた。ところが、このことはこれまでの昭和史研究のなかでなぜか見過ごされてきた。昭和天皇はたしかに「明治天皇の御製を拝誦している」と語り、紙片に書かれた御製を詠み上げた。けれども、明治天皇御製として公表されている「よもの海」は次の歌で、近衛の記録とは違う。…
御製「よもの海」は明治37年の作、すなわち日露戦争中の大御歌(おおみうた)である。
よものうみみなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
明治天皇のこの有名な御製は「波風」だが、昭和天皇がこの日詠んだ歌は「あだ波」、と近衛は記している。』


☆『平和への努力』国立国会図書館デジタルコレクション
『 明治天皇の御製を引いたゆえに昭和天皇は「平和主義者だった」と、近年、一部の昭和史研究者から意図的に「政治利用」されている…では、なぜ御前会議で明治天皇の御製にあった「波風」が「あだ波」と変えられたのだろうか。…何か重大な「聖慮」が歌の奥に潜んでいると思うのが普通ではないだろうか。迂闊なことだが、ほとんどの記録や昭和史関連書から「よもの海」の真実はこぼれ落ちてきた。前夜、天皇は考え抜いた末、明治天皇の歌を「替え歌」にして詠んだとは考えられないか。
繰り返すが、今日ではこの御前会議における天皇の「四方の海」発言が、天皇の非戦もしくは戦争反対、平和愛好の意思表示だったと評価されている。だが、「波風」ではなく「あだ波」と天皇がわざわざ歌を変えたのなら、訴えたかった天皇の本心はもう少し別の意味を含んでいたと解釈されるべきではないだろうか。杉山参謀総長は、
「日本としては半年や一年の平和を得ても、続いて困難がくるのではいけないのであります。二十年、五十年の平和を求むべきであると考えます」
と奉答した。
それに対して、大声で
「あァ、わかった」
とうなずいた天皇の本意がどこにあったのかを見極めなければならない。…近衛のほかにもう一人、「あだ波」と聞き取って記録に残した出席者がいた。杉山参謀総長である。…そもそも「波風」を「あだ波」と書き間違えるとは考えにくいから、杉山もやはり近衛同様に「あだ波」と聞いたと理解して間違いあるまい。内閣の最高責任者、近衛首相と統帥部の最高責任者、杉山参謀総長が、ともに揃って「あだ波」と聞き、記したのである。他の出席者で記録を後世に残した者は皆無である。昭和天皇を含め、御前会議の場に居合わせた十六名の出席者のうち、近衛、杉山の二人だけが記録を残した。…
優れた歌人でもあった明治天皇の御製のなかには、調べてみると「あた波」という一句が入った歌が何首もある。ちなみに「あだ波」には二通りの解釈があって、ひとつは「徒波」と書く。表向きの意味はいたずらに立ち騒ぐ波。しばしば、変わりやすい男女の心の譬えなどとして詠まれる。もう一つの解釈は、漢字にすれば「敵波」か「仇波」と書くものだ。…(明治天皇の御製にある)「あた波」とは…すべて「敵」を指す言葉である。そうしてみれば、日頃から明治天皇の御製を「毎日拝誦して居る」という昭和天皇が、御前会議前夜、決然として「あだ波」(昭和時代になると濁音で詠んだ)と句を置き換えた意味の深さに思い致さなければならないだろう。
よもの海みなはらからと思ふ世になどあだ波のたちさわぐらむ
この「あだ波」は「敵」、すなわち米英蘭を指しており、これを鎮めるという意味が潜んでいたと捉えるのが正しい解釈ではないか。ただの「波風」であれば、他国間との行き違いから波風がたったが外交交渉によって鎮められないか、と限定した解釈で済む。再度いうが、昭和天皇が間違って紙片に書き写すなどということは考えられない。天皇は、「敵が騒いで海が荒れ、まことに困ったことだ」と、替え歌で本心を婉曲に表現してみせた。一方で、ルーズベルトに会議内容が伝わることが分かっていて、「故大帝の平和愛好の御精神を紹述せむと務めて居る」と和平交渉の扉を閉じてはいないことも示唆したのだ。…戦後になって、御前会議の「よもの海」の逸話が明らかになるや、「天皇は戦争を望まぬ平和主義者だった」という解釈が現れるようになるのだ。その裏では「悪かったのは軍部、とりわけ陸軍」という説が繰り返し流されてきた。どうやら、左翼からも一見、保守とみられていた側からも、天皇を「平和主義者」にしておきたい理由があったようだ。亡霊のような東京裁判史観がそっくり生き返ったのだ。
天皇は御前会議席上、この戦争を始めるのは本意ではないものの、事ここに至っては「あだ波」に対峙せざるを得ないとの覚悟を替え歌に託し訴えたのだ。替え歌に気づかぬまま、天皇を無理矢理「反戦主義者」に祭り上げようとする勢力の魂胆はいったいどこにあるのだろうか。売れ筋の「昭和史」を刊行している研究者が、「天皇は反戦主義者だ」「天皇は平和勢力だ」というような短絡した表現をもって「政治利用」している現実を、見逃すわけにはいかない。』
『 実は「よもの海」を記録した近衛文麿の手記は、近衛が自決(昭和二十年十二月十六日朝)したあと、二種類出版されている。
そのうち、「あだ波」の基礎史料として先に紹介したのは日本電報通信社(「電通」の前身)刊行による『平和への努力』に記載された記録で、昭和二十一年四月一日付発行の冊子である。
編者・田中寛次郎は、情報・通信界の泰斗とされた吉田秀雄(実業家、電通社長)や福島慎太郎(外交官、共同通信社長)と親交のあった人物だ。
田中は巻頭で、
「 近衛公は或る意味で近代日本の気品と理性の象徴であった。――更に公の悲劇と日本の悲劇が胚胎したことが悲痛に回想される。ここに近衛家の許諾を得て、この手記集を公刊する所以である」
と記しており、軽井沢の近衛別荘に残されていた手記を近衛家から直接、受け取って編纂したことがうかがえる。
ところが厄介なことに、これとは別にもう一点、「近衛文麿公の手記」とサブタイトルがついた『失はれし政治』という冊子が刊行された。
『平和への努力』から一カ月半後の二十一年五月十五日付で、「朝日新聞社」から刊行されたものだ。
奇妙なことだが、この手記では「よもの海」の御製が「波風」と記されているのである。
同じ近衛の手記でまったく異なる記載があるのは、いかにも奇異な現象と言わざるを得ない。…
終戦直後になって近衛の手記が二種類刊行され、その一方に「波風」と記されているのはどうしたことだろうか、と新たな謎に包まれる。』

詳しくはこちらをご参照💗
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