2019-06-28 (Fri)

佐野と鍋山の「転向」宣言に関する新聞報道 1933年6月10日付朝日新聞
本日のキーワード : 転向
「転向(てんこう)」(英語:Tenkō)とは今までの共産主義や社会主義の立場を放棄すること。
ロシア革命やドイツ革命で帝政国家が倒されると、社会主義思想が高揚し、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成された。しかし、政府は普通選挙の実施と引き換えに治安維持法(1925年)を制定してこれらの動きに対抗した。第1回普通選挙の後、三・一五事件(1928年)、四・一六事件(1929年)と共産主義者らの一斉検挙がおこなわれた。
1928年の三・一五事件で検挙された水野成夫ら日本共産党労働者派は獄中転向第一号とされ、1933年6月には日本共産党委員長の佐野学は鍋山貞親とともに獄中から転向声明を出した。この声明は世間や獄中にあった運動家に大きな衝撃を与え、大量転向の動きを加速させた。
日本共産党などの活動は大衆との結びつきが薄く、インテリ層を中心としたものであったため、活動が大衆の生活や要求と遊離していることに悩み、運動から離れた者も多かった。
本日の書物 : 『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』 倉山満 宝島社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 第一次近衛内閣を支えたのが【昭和研究会】だったことは明らかですが、ではその思想状況はどういうものだったのか、少し説明しておきます。以下、思想状況図をもう一度おさらいします。

各思想グループの関係
「左上」の【エスタブリッシュメント】が【米英協調】、明治以来の【舶来崇拝・白人崇拝】です。

「右上」に【立憲主義】を掲げる【穏健保守】がいて、「左下」に【共産主義】のいわゆる【革新勢力】、「右下」に【国粋主義】がいます。【近衛内閣の特徴】は【革新勢力が右翼に入り込んでいるところ】です。…

1930年代前半、【共産党員の獄中転向】があったというのは、歴史教科書にも出てくる話です。【日本共産党指導者の転向が有名】で、コミンテルン第5回大会に代議員として出席した【佐野学(さのまなぶ)】や、二七テーゼ作成に参加した【鍋山貞親(なべやまさだちか)】の転向以降、【共産党幹部らの大量転向】が起こります。

佐野学

鍋山貞親
内務省は日本共産党を壊滅させて喜んでいましたが、【それこそが罠】でした。

第二次大戦が終わった時に、【多くの国が共産党に乗っ取られました】。

ソ連の最大勢力圏(1960年)
乗っ取られないまでも、【ソ連】は【多くの国にスパイを送り込み影響力を行使】しました。その際に【共産党が果たした役割は囮(おとり)】です。日米欧は共産党の取り締まりは徹底しましたが、その間に【ソ連】は【各国の政府やマスコミに本体を送り込んでいた】のです。

たとえば、【アメリカ共産党】はアメリカ合衆国で相手にされない弱小政治団体でしたが、【ソ連】は彼らが派手に動き回り「やられ役」を演じている間に、【学界・マスコミ・労働界・政界に自分たちのエージェントを送り込み】、遂には【フランクリン・ルーズベルト政権にも多大な影響力を行使】します。

大統領夫人で自身もロビイストだった【エレノア】は【明確にソ連の同調者】でしたし、【「ホワイトハウスがレッドハウスになった」】という冗談にもならない状態でした。ちなみにスパイだと明らかになっている人物の名が「スノウ」と「ホワイト」というのも皮肉すぎます。

エレノア・ルーズベルト
【共産党】など、【ヤクザにおけるフロント企業のようなもの】で、そこに総攻撃をかければ、【本体は別の場所に逃げる】のです。むしろ派手に立ち回れば立ち回るほど、【本体には目が届かず】動きやすくなります。

【日本共産党】の場合、1933(昭和八)年7月末までに【獄中で転向を申し出た】のは、被疑者として収容されたうちの【30%】、受刑者の【34%】です。これが1936(昭和十一)年5月末には、全受刑者の【74%】もの転向者が出ました。

大審院検事だった池田克による分類では、転向理由の四割が家族関係によるもので、国民的自覚としたものが約二割、【共産主義理論を放棄したのは一割強】です。近衛が大学時代に師事した【河上肇(かわかみはじめ)】などは、【思想は放棄せず実践運動はしないという転向者】です。

河上肇

各思想グループの関係
本来は【「左下」のはずの革新といわれる人たち】の中で、【見た目が右翼という人たち】が【革新右翼】です。

明治期の大アジア主義のような、対外問題に目を向けたものに比べて、【革新右翼の場合、国家や国民生活の改造を主張】します。【五・一五事件】や【二・二六事件】の背景にある【「日本改造」という理念も同様】で、代表的なものが【北一輝(きたいっき)】や【大川周明(おおかわしゅうめい)】、【満川亀太郎(みつかわかめたろう)】が設立したを【猶存社(ゆうぞんしゃ)】源流とする人々です。

北一輝

大正時代には、【堺利彦(さかいとしひこ)】が設立した売文社で言論活動をしていた【高畠素之(たかばたけもとゆき)】による【国家社会主義の理論化】が有名です。

高畠素之
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆極右と極左の「社会主義」
☆「極右」と「極左」という「社会主義者」


各思想グループの関係
【ここに共産主義からの転向者が入ってきました】。右で見たように、【転向者のうち本当に思想を放棄した人々はおよそ一割】ですから、【革新右翼の中には、本物の共産主義が偽装転向した人々も混ざっている】のです。…

同じ「右下」の枠内ですが、【観念右翼】と【革新右翼】は【宿敵】です。

【本来は左の人が右を名乗って暴れまわり、それまで右に居た人たちと抗争した】。これを理解しないと昭和史は何もわかりません。

【「侵略主義者の右翼が中国やアメリカと戦争を始めた」などという単純な話ではない】のです。』

極左・共産主義者が“転向”できなかった本当の理由
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、ここ100年ほどの我が国の歴史を振り返りながら、強かったはずの我が国が、途中から頭が悪くなり、何故か我が国が負ける方向へと突き進んでいった史実を確認することで、そこに「ツィンマーヴァルト決議」の「革命的祖国敗北主義」の存在を容易に想定することができ、第一目的である「祖国敗戦」を達成し、さらなる第二目的である「祖国の共産主義化」を目指した残存勢力が、未だに現代の我が国に存在している事実、そして、それが誰であるのか、その識別能力を高めるための「基本的な入門書」で、広く国民のみなさまにご覧頂きたい良書になります。

さて、本文中に河上肇(かわかみはじめ)について書かれていましたが、近衛文麿が当初進学した東京大学文学部哲学科を1年も経ずに退学し、共産主義者でマルクス経済学なるペテン学問の研究者であった河上肇(かわかみはじめ)に大いに関心を持っていたために、京都大学法学部へ入り直します。

その共産主義者であった河上肇は、本文中に書かれていたように「思想は放棄せず実践運動はしないという転向者」だったわけで、他のほとんど(90%程度)の転向者も「思想を放棄しない」ところは同様なのですが、それは何故なのか、みなさまは御存じでございますでしょうか?

ちなみに、「共産主義や社会主義の立場を放棄すること」を意味する「転向」は、私たち日本のオリジナルの言葉で、英語でも「Tenkō」と表現されます。

その答えは、「マルクス主義の教義も理論も理解できていなかったから」、ということになります。

『 マルクスの労働価値説。これは当初から批判が絶えなかった。初期の批判のエッセンスは、「マルクスの説明は結局、循環論になってしまう」というにあった。「循環論では説明になっていない」――当時はこう思われていた。この理由によって労働価値説は価値論として退けられ、経済学の王座を限界学派に譲ったのであった。
リカードはすでに、労働価値説は迂回生産がある経済では成立しないことに気づいていた。リカードであれば、労働価値説を棄てても差し支えはない。資本主義の分析のための一つの模型(モデル)を提示すれば済むからである。
しかしマルクスは、これでは困る。労働価値説を基礎にして搾取論を導き、産業予備軍説から労働者貧困論。すすんで、個別資本と全体資本の矛盾論。行き着く果ては資本主義没落論を展開しなければならないからである。
そのためには、どうしても基礎理論としての労働価値説に成立してもらわないことには、どうしようもない。マルクスは苦心惨憺(くしんさんたん)した。
しかし、日本のマルキストで、マルクスの苦心、苦衷(くちゅう)を理解するものはいなかった。いや、理解するにもしようがなかった。学力が低すぎて、マルクスを理解してくても理解できなかったのではないか。それが何よりの証拠には、かのヒルファーディンクVSベーム・バベルク論争すら、日本に紹介されなかったではないか。これを日本に紹介したのは非マルキスト(あるいは反マルキスト)として知られる高田保馬(たかたやすま)教授であった。
労働価値説が循環論だから悪いというのだから、マルキストが緊急になさねばならない仕事は二つあった。一つは、循環論にならないように「労働価値説」を再構築すること。もう一つは、労働価値説抜きのマルクス理論を作ること(ジョーン・ロビンスンの忠告)。これらのいずれも、日本のマルキストは、やろうとはしなかった。
それもそのはず。日本のマルキストは、マルクス理論を少しも理解していなかったから、マルクス理論の核心がどこにあるのか、気づきようもなかったのであった。マルクスの労働価値説を矛盾のない模型(モデル)として構築したのは、近代経済学者の森嶋通夫(もりしまみちお)教授であった。
このように、日本のマルキストは、マルキシズムの教義と理論を理解してはいない。だから、転向したくてもできない。いや、転向したつもりが転向になっていないのである。もし、教義と理論を理解していれば転向ができる。背教も棄教もできる。転向とは何か。すなわち、教義と理論を否定することが、転向である。棄教である。
しかし、教義も理論も理解していない。いや、知らない。それどころか関心すらない人さえ多い(マルクスの労働価値説とは何か、再生産図式とは何か、と問われて、咄嗟(とっさ)に正確に答えられるマルキストが何人いるか)というのでは、棄教のしようもあるまい。
本当はマルキストではなかったのだから、転向も棄教もしようがない。マルキシズムを信仰も理解もしていないのだが、マルキシズム的素振り・身振りをしているうちに、何となしにマルキストになった気分になった。その行動様式、気分が板に付いたにすぎない。だから、かえって厄介なのである。』
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆偽物の経済学であるマルクスの理論を破壊した、経済学の本物の革命

ちなみに、このマルクス経済学を巡る問題と同じ現象が、現在、話題になっている「現代貨幣理論(MMT/Modern Monetary Theory)」を巡る問題になります。

☆話題の「MMT」がトンデモ経済理論と言えないこれだけの理由 @moneygendai
1929年10月、アメリカを震源とする「世界恐慌」が発生し、我が国も、「昭和恐慌」(1930年~1931年)に見舞われます。
その当時、マルクス経済学信奉者であった河上肇は、1932年に日本共産党に入党し、その地下活動に参画、機関紙「赤旗」の編集や「コミンテルン」が発表した32年テーゼ(日本共産党の基本的活動方針)の翻訳などに携わるのですが、「昭和恐慌」について、次のように語っています。
(以下は、Wikipediaからの抜粋です)
『 昭和恐慌のときには、河上はデフレを放置しても問題ではなく、デフレを脱却しても資本主義経済の限界は解消されないと主張した。』

そのデフレを放置したことによって、「二・二六事件」(1936年/昭和十一年)が勃発することになります。

叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵

内務省庁舎前で歩哨線を張る叛乱軍兵士
そんな河上肇の考え方は、現在、デフレ脱却の寸前であるにもかかわらず、「消費税率引き上げ」を民意を問わず勝手にやってしまおうとする、戦前の「革新官僚」の伝統を踏襲する現在の日本政府の決定的な過ちと同一のものになります。

続きは次回に♥
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