2019-06-27 (Thu)

本日のキーワード : 全体主義
『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism)とはハンナ・アーレントによる政治学の著作である。
アーレントは1906年にドイツのハノーファーで生まれた政治学者である。1933年にナチ党が政権を掌握してからフランスへ亡命して政治活動に関わるが、1941年にフランス進攻があるとアメリカへ亡命して大学での教育に従事する。この著作では19世紀から20世紀にかけてイタリアやドイツで出現した全体主義についての論考が行われている。この著作は1951年に発表された研究であり、第1部の『反ユダヤ主義』、第2部の『帝国主義』、そして第3部の『全体主義』の三部から構成されている。
20世紀においては国民国家とそれに伴う階級社会が転換することになり、少数民族や人権問題の出現、大衆社会の成立が認められる。国内政治において政党が代表していた階級社会が消失したために、政党によっても代表されない孤立化した大衆が表面化したのである。ソ連について言えば、スターリンが集団農業化と有産階級の撲滅により個々を孤立無援にすることで、大衆社会を成立させたとする。この大衆は自らの政治的発言を階級政党とは別の政治勢力として集約しようと試み、プロパガンダを活用する全体主義運動を支持することになった。全体主義は大衆の支持を維持するために、また全体主義が体制として機能するためにはテロルとイデオロギーが重要である。テロルは法の支配によって確立されていた自由の領域を排除し、イデオロギーは一定の運動へと強制することで全体主義を制度化した。全体主義体制が問題であるのは、「個人性をまったく殲滅するようなシステムをつくること」にある。
本日の書物 : 『真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任』 倉山満 宝島社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【昭和研究会】は【近衛側近のブレーン集団】で、近年は【ソ連のスパイのたまり場】だと評されることも多いのですが、そんな単純な人たちではありません。
「国策研究」が叫ばれていた昭和八年、【後藤隆之介】事務所に政策研究のために設置され、設置の2ヶ月後に正式名称が決まり発足しました。…
設立趣旨は専門家を招いての研究会で、内容は国防・外交、教育、行政、金融などの多岐に渡ります。これを取りまとめて、研究大綱を作成する幹事となったのが【蝋山政道(ろうやままさみち)】です。
後藤隆之介は一高文学科の出身で、京大に進んだことから近衛と知り合います。…後藤は、後に【大政翼賛会】組織局長となっています。

大政翼賛会本部

昭和研究会の幹事である【蝋山政道】は、【行政学の創始者といわれる政治学者】です。【東京大学法学部】を卒業して教授となり、イギリス留学を経て、東大の行政学講座の初代担当となりました。はっきり言いますが、【戦前・戦後を通じて、日本の政治学をダメにした人】です。

【蝋山】は、後の【大東亜共栄圏】につながる【東亜共同体論】や、【大政翼賛会】につながる【新体制運動】を、【昭和研究会の頃から主張】しています。

他にはジャーナリストの【佐々弘雄(さっさひろお)】がいました。…1928(昭和三)年に、第一回普通選挙での【共産党の地下活動】に巻き込まれた学生が検挙され、【各地の帝国大学で左傾教授の処分】がされた時に、【依願退職の形で辞めさせられています】。ちなみにこの時、京大でも【河上肇(かわかみはじめ)】が処分されました。

河上肇
【佐々】の処分は、大学内の内紛のとばっちりだとも言われていて、実際に【血盟団】や、【五・十五事件】に関わった青年将校、皇道派の軍人と懇意で、【右翼国粋主義者の人脈】です。大学を辞めた後は、【朝日新聞社の論説主幹】から【熊本日日新聞の社長】となり、【昭和研究会に参加】しました。

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞

廷内で深編笠を被る血盟団事件の被告
マスコミ業界からは、【ゾルゲ事件】で有名な【朝日新聞記者】の【尾崎秀美(おざきほつみ)】も参加しています。…

尾崎秀美

いずれも当時、各界で活躍していた人士で、分野や思想も幅広く、昭和研究会が発足した頃に雨後の筍(たけのこ)のように作られた思想団体とは一線を画しています。…
【アジア主義】、【伝統右翼】、【共産主義から転向した革新右翼】に、穏健な自由主義者までが広く参加しますが、研究報告の中でも代表的なのは、【大東亜共栄圏】と【大政翼賛会】です。支那情勢の進展とともに、理論が確立していきます。』

左翼の全体主義者が戦争を引き起こす
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、ここ100年ほどの我が国の歴史を振り返りながら、強かったはずの我が国が、途中から頭が悪くなり、何故か我が国が負ける方向へと突き進んでいった史実を確認することで、そこに「ツィンマーヴァルト決議」の「革命的祖国敗北主義」の存在を容易に想定することができ、第一目的である「祖国敗戦」を達成し、さらなる第二目的である「祖国の共産主義化」を目指した残存勢力が、未だに現代の我が国に存在している事実、そして、それが誰であるのか、その識別能力を高めるための「基本的な入門書」で、広く国民のみなさまにご覧頂きたい良書になります。

さて、近衛側近のブレーン集団である「昭和研究会」が設立されたのが昭和八年(1933年)ですが、この年に何があったのかと言いますと、まず、満洲国の承認が得られなかったために、日本が「国際連盟」を脱退します。
その翌年に、「マルクス教」の信奉者である「革新官僚」の池田純久(いけだすみひさ)ら陸軍内の統制派(対外的には中国(国民党政府)に強硬姿勢で臨む一方、ソ連とは友好関係を維持して英米のアジア侵略に対抗するという志向を持った連中)によって、『国防の本義』なるパンフレットが作成され、そこで、「総力戦を戦うための国家総動員体制の構築」と、そのための「議会政治や政党政治の停止」、さらに、「資本主義を排して社会主義的な統制経済を実現すること」が提唱・喧伝されます。

池田純久
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆極右と極左の「社会主義」

また、「ナチス・アメリカ」のフランクリン・ルーズヴェルト時代が始まったのも1933年であり、「ナチス・ドイツ」のアドルフ・ヒトラー時代が始まったのも1933年になります。


詳しくはこちらをご参照💗
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☆アメリカで奴隷解放を含む「人種差別撤廃に熱心だった」のが「共和党」です!! アメリカ民主党の「ナチス・アメリカ」と「ナチス・ドイツ」との共通点

先日のところでも、少し書かせて頂いておりますが、「マルクス教」の信奉者である「革新官僚」ら陸軍内の統制派が暗躍し始めるのがこの頃で、
詳しくはこちらをご参照💗
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☆公式 : “革新”官僚=“確信”官僚 ~ いわゆるパヨクの特徴は「無謬(むびゅう)」なんです(笑)

そこには、すでに「コミンテルン」の影響がありました。
『 近衛は身辺に尾崎秀実(おざきほつみ)ら共産主義者の巣窟があった事実を恥じ、その不明を天皇に詫びた。
三年ぶりに天皇に拝謁が叶った近衛の言葉を復誦すれば、
「これら軍部内一味の狙いは、必ずしも共産革命に非ずとも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は、意識的に共産革命まで引ずらんとする意図を包蔵しおり」
と述べ、天皇のほうに向き直り、一段と声を張って共産革命の脅威を訴えた。
「見込みなき戦争をこれ以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候(ぞんじそうろう)」
訴えたかった問題の焦点は二つあって、一つは「この一味」の具体的氏名がいったい誰なのか、という点である。
もう一つの重要な焦点は、一刻も早い終戦にあった。』
「この一味」の中心人物こそ、池田純久になります。
『 巻紙の最後になって近衛は再度、天皇に深く一礼し悲痛な言葉で上奏を締めくくった。
「共産革命より日本を救う前提先決条件なれば、非常の御勇断をこそ望ましく奉存候」
だが、天皇の「御勇断」にはこれから先、まだ半年かかった。
その間の東京大空襲や沖縄戦、原爆投下、ソ連参戦など猖獗(しょうけつ、悪い物事がはびこり猛威を振るうこと)を極めた事実は改めて述べるまでもない。
終戦までの過程がかくも遅れたのは、コミンテルンによる「敗戦から革命へ」の実践による“成果”だったことは火を見るより明らかである。わが国の官僚や軍部が感化された理論は、第三インターナショナル(コミンテルン)からの指導によるものだった。
この時期、昭和天皇のごく身辺近くまで、共産主義の地下水脈は接近していた。
それは一九三二(昭和七)年五月、コミンテルンで採択されたいわゆる「三二テーゼ」の概略を繙(ひもと)いてみればすぐに分かる。
「三二テーゼ」と一般的に呼ばれる文書には、「日本における情勢と日本共産党の任務に関する共産主義インターナショナル執行委員会西欧局のテーゼ」という長い正式名称が付いている。
「日本共産党は、国内の階級的力関係と日本における、まさに来たらんとする革命の性質および任務の双方についての正しい、かつ明確なピクチュアをもたねばならない。――換言すれば、君主制の転覆、地主の収奪、および労働者と農民の独裁の樹立を経ねばならない。―― 現瞬間のための主要な行動スローガンは、次のものでなければならない。
●帝国主義戦争反対。帝国主義戦争を内乱に転化せよ。
●ブルジョア=地主、ミカド、および社寺の土地の農民のための無償没収。地主、金貸し、および銀行に対する農民の一切の負債の取消し。
●植民地(朝鮮、満州、台湾等)の日本帝国主義のくびきからの解放。
●ソヴィエト連邦および中国革命の防衛」 (『コミンテルン・ドキュメント』Ⅲ、現代思潮社刊)
このテーゼを採決する現場にいた人物こそ、近衛が天皇にその名を挙げた野坂参三(のさかさんぞう、中国名・岡野進)はじめ、片山潜(かたやません)、山本懸蔵(やまもとけんぞう)などである。』

片山潜
『 「三二テーゼ」が、日本における共産主義運動を支える基本綱領となっていたのは言うまでもない。
当然の一致と言おうか、戦後になってGHQ民政局長ホイットニーたちが実行した日本改造計画と瓜二つなのだ。
彼らが果たせなかったのは「君主制の転覆」だけで、他の目標の大部分は連合国、なかんずくアメリカ国務省内のコミンテルン分子の手によって成就された。
救いだったのは、「敗戦から内乱に転化」して共産革命が成立する寸前に、世界規模の冷戦が始まったことであろう。
コミンテルンそのものは一九四三(昭和十八)年に幕をいったん閉じるが、その果たした謀略の影響力は計り知れなかった。』

そして、現在の日本において、その「革新官僚」の間違った思想を延々と受け継いでいる官僚が現存しているという事実が、民意を問うこともなく、勝手に増税をしようとする態度に如実に示されています。

ドイツ系ユダヤ人のハンナ・アーレントは、「全体主義」を生み出す大衆社会の分析で知られる人物ですが、「ナチ運動」と「ボリシェビズム運動」を比較し、同一の「全体主義運動」であると喝破しています。そして、ナチズムは世界征服と異種民族の放逐を公然と唱え、ボリシェビズムは世界革命と世界征服を公然と唱え、行動していたと指摘しています。そのどちらも「社会主義」が根本にあります。

ハンナ・アーレント(1933年)

「右翼」の「全体主義者」が戦争を起こしたのではなく、「左翼」の「全体主義者」こそが戦争を引き起こした。これが正しい歴史観になります。

それでは、本日はここまでとさせて頂きますが、1936年(昭和十一年)、私たちの日本でクーデターが起こります。皇道派が起こした「二・二六事件」です。そして、その事件のあとの思想状況が次のようになります。

二・二六事件後の日本の思想状況
続きは次回に♥
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