2019-06-21 (Fri)

本日のキーワード : 無謬、企画院、統制派、革新官僚
聖書無謬説(せいしょむびゅうせつ、英語: Biblical infallibility)は、逐語無謬説(ちくごむびゅうせつ)、無誤無謬説、あるいは、逐語的無謬説などとも表現され、「聖書」は無謬である(誤りがない)ことを絶対的要件とする前提。キリスト教関連用語としては、神学者、聖書学者、キリスト信仰者が用いる用語。神学書の中では議論があり、専門用語であると理解されている。この用語は、キリスト者が「聖書」をどのように信仰の中で、あるいは神学、あるいは聖書学のなかで位置づけるかにも大きく関連する教理の基本にかかわる教説であり、また聖書の読み方の基本的な姿勢を規定している用語でもある。
本日の書物 : 『経済で読み解く日本史① 室町・戦国時代』 上念司 飛鳥新社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【五山(臨済宗)】は幕府の力を得て、ついには旧仏教勢力の盟主【比叡山】すら屈服させるほどの急成長を遂げました。これに対して【本願寺(浄土真宗本願寺派)】は同じ鎌倉時代の新興宗教でありながら、勢力の拡大は最も遅れていました。

蓮如影像(室町時代作)
本願寺の中興の祖と言われている【蓮如(れんにょ)】が第8世法主(ほっす)に就任したのは1457年でしたが、この時期はまさに本願寺は泣かず飛ばずのどん底時代でした。…
1468年に比叡山の山徒(さんと)による堅田(かたた)への攻撃で【布教の拠点を失った蓮如】は、命からがら大津に逃れます。

『近江八景 堅田落雁』 歌川広重
そして、【近江(おうみ)における教団の再建を断念】し、1471年初夏、近江の門徒たちに惜しまれながら【北陸】に向けて旅立ちました。…
「恐ろしき山」――、比叡山のパワーはハンパではありません。当時の本願寺ではまだ比叡山と張り合っていくだけのパワーが足りませんでした。【蓮如は57歳にして再びゼロからのスタートとなった】のです。

吉崎御坊の位置
しかし、近江の堅田から北陸の【吉崎】への本拠地移転を経済の観点で見ると、面白いことに気づきます。

堅田の位置
堅田は琵琶湖に面した【港町】、吉崎は日本海を行き来する【廻船(かいせん)の通り道】だったのです。…

堅田の位置

吉崎御坊の位置
【本願寺】は比叡山や五山と違い、【荘園(しょうえん)を持たず】に信徒からの【喜捨(きしゃ)】によって資金を集めていました。

そのため、堅田の町が物流で栄えると、信徒が儲かって寺への寄付金も増えます。

【門前町(もんぜんまち)】が経済的に栄えれば栄えるほど、それに連動して寄付金も増えていく仕組みです。

【領地を支配して年貢を取るのでもなく、関所を設けて通行税を取るのでもなく、経済成長に合わせて寄付金が自然に増えるという全く新しい画期的なシステム】でした。…

【本願寺】が近江の金森(かねのもり)、堅田、北陸の吉崎で展開した【寺院と町をセットにした都市計画】のことを【「寺内町(じないまち)」】と言います。』

“確信”官僚と財務省
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、私たちの日本の歴史を、経済・金融の面を切り口としてみた場合、これまで学校の授業でお勉強させられ、「訳の分からない歴史」でしかなかったものが、普段の日常感覚で国史の流れをスッと、いとも簡単に理解できる、という良書で、また、多くの方々が勘違いしていると思われる「おカネ」というものについて、非常に正しい認識ができるようになる、お薦めの書物になります。

さて、本文中に登場した「本願寺」は、現代において、日本最大の宗教教団ですが、「東本願寺(お東)」と「西本願寺(お西)」の2つが存在しているのですが、その理由を分かりやすく解説なされた書物を以前にご紹介させて頂いておりますので、ぜひご覧下さいませ。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆武田鏡村 本願寺はなぜ東西に分裂したのか

で、その本願寺が、既存のシステムとは全く異なった、斬新なシステムを構築したのですが、それが本文中に書かれていた「寺内町(じないまち)」という社会システムになります。

寺内町は、お寺を中心として形成された自治集落で、周囲を堀や土塁で囲い(環濠)、その内側に商売人や信者が居住していました。

大阪府八尾市の久宝寺寺内町の環濠
そして、そんな自治集落全体が栄えるようになる、つまり「民間の経済が活発化する」と、その経済成長に合わせて寄付金、つまり「税金」が自然に増える、という、現在の日本政府や財務省や日本銀行の関係者の多数派である「経済・金融のド素人」には思いもつかないような、全く新しい画期的なシステムを、今から600年以上前に確立して、その正しさを証明していました。

「本願寺」であれば、「消費税率を引き上げる」という史上最大の汚点を残すような愚策に走るのではなく、「経済成長に合わせて税金が自然に増える」という非常に賢明な政策を選択するはずなのですが、600年前に出来たことが、どうしてもできないのが「東京大学法学部」を卒業しただけ、ただそれだけの「自称エリート気取りの阿呆」が、そのアタマの悪さゆえに、「自滅の特攻攻撃」を国民に強いているのが、現在の私たち日本の状況になります(笑)
まさに、現代の財務省官僚は「サタニズム(悪魔崇拝)」の「マルクス教(=共産主義)」の信者のようです💗

岡本薫明(おかもと しげあき)

☆麻生氏「年金受給記憶ない」発言が物議 共産党・小池氏のでたらめな批判内容 (1/7) - ITmedia ビジネスオンライン

☆財政が破綻する瞬間の大逆転をシミュレーションしてみた
昨日までのところで書かせて頂いているのですが、私たちの日本に巣食う災いをもたらす「元凶」である「パヨク(社会主義者・共産主義者・リベラル・進歩主義者などなど)と呼ばれる阿呆」の大本、レーニン率いるボリシェビキが信仰する「サタニズム(悪魔崇拝)」である「マルクス教(=共産主義)」の布教活動が、どのような経緯を経て、私たちの日本にやって来たのか、そして、それが現代の日本にどのように影響を与えているのか、ということを歴史的事実を辿りながら確認しているところになるのですが、

私たちの日本が、もちろん、今からたったの100年ほど前の当時は大日本帝国でしたが、

大日本帝国 最大行政統治・軍事勢力圏
そんな大国であった私たちの日本が、何故、わざわざ「負けるような戦い方」をして滅んでしまったのか、を考えなければならないと当ブログでは考えています。
そこで、考える上での一つのヒントを挙げさせて頂きますと、戦前、1935年(昭和十年)に、内閣総理大臣直属の国策調査機関として「内閣調査局」が設置され、1937年(昭和十二年)5月14日に「企画庁」に再編強化、同年7月7日の「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」を切っ掛けに生じた「支那事変」勃発により、内閣資源局と統合し発足したのが「企画院」で、国家総動員機関と総合国策企画官庁としての機能を併せ持った強大な機関でした。

企画院庁舎と職員
その「企画院」は、重要政策の企画立案と物資動員の企画立案を統合し、戦時下の統制経済諸策を一本化し各省庁に実施させる、いわば司令塔のような機関となります。そして、1938年(昭和十三年)に「国家総動員法」が制定されて、巨大な官僚組織である「企画院」が、ここにその「無謬性(むびゅうせい)」を強めてゆくことになります。

「無謬(infallibility)」とは、キリスト教において、「聖書」には絶対に誤りがない、絶対確実である、との前提に立つ、あるいは、それを表現する言葉になります。
具体的に申し上げますと、「企画院」の官僚どもが浅はかな考えで立案した諸政策であっても、自分たち「企画院」の考えには誤りがない、だとか、自分たちの立案した諸政策は絶対確実である、という風に勝手に思い込み、「失敗などするはずがない」のだから、「失敗したときのことを想定したり、議論したりしてはならない」と、まるで何らかの“熱狂的宗教信者”のようになってゆくことになります。
「おや?」と、お気付きになられましたでしょうか?

そうです、まさに、コレ💗


岡本薫明(おかもと しげあき)
現代の財務省官僚が「サタニズム(悪魔崇拝)」の「マルクス教(=共産主義)」の信者としか思えないのと同じことになります(笑)

で、こんな風になってしまっているのも、やはり歴史のお話になるのですが、「企画院事件」(1939~41年)でも明らかなように、当時の企画院は、「革新官僚」の「一大巣窟(そうくつ)」でした。

池田純久
「マルクス主義の牙城」と言われた東京帝国大学経済学部で「派遣学生」として仕込まれた池田純久(いけだすみひさ)が、「社会主義的な傾向」を強く持ち、「国家総動員体制を推進」し、対外的には「中国(国民党政府)に強硬姿勢」で臨みつつ、「ソ連とは友好関係を維持」し、他方、「英米のアジア侵略に対抗」する、という浅薄な池田純久らしい考え方を、同じく浅薄な「企画院」の官僚どもが、「無謬(infallibility)」であるとの前提の下に立ち、愚策を行ってゆくようになります。ちなみに、池田純久は陸軍統制派の理論的支柱と目された奴です。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆極右と極左の「社会主義」

また、戦後の公職追放によっても、その「革新官僚」どもはほぼ生き残り、財務省(旧大蔵省)の官僚として、経済産業省(旧通産省)の官僚として、内閣府(旧経済企画庁等)の官僚として、それら省庁を主たる拠点に、戦後の私たちの日本の諸政策において、さらに、その「無謬性(むびゅうせい)」を強めてゆくようになり、現在に至るわけです。

『 梅津美治郎(うめづよしじろう)が昭和十二年の段階で、内閣書記官長としてマルクス主義者、風見章を送り込む操作をした件については述べたとおりだが、梅津にはさらなる疑惑が残る。
近衛上奏の二年ほど前の昭和十八年十二月二十八日、近衛は痔疾手術のために東大病院に入院していた。
その病床を見舞った側近の細川護貞(ほそかわもりさだ)は、思いもよらぬ情報を近衛から聞かされた。…
ついでながら、細川の最初の妻は近衛の二女・温子(よしこ)で、間に生まれたのが護煕(もりひろ)元首相と護輝(もりてる)だが、護輝は後年、近衛正子(故・文隆の妻)の養子となって近衛忠輝と改名、現在は国際赤十字会長を務めている。
岳父(がくふ、妻の父)・近衛から細川護貞が聞いた話とは、次のようなものだった。
「小畑中将の知人にて、某処より、梅津の児分(こぶん)の池田純久(いけだすみひさ)少将が、かつて企画院に在りて作成せる文書を手に入れたる人あるも、夫(そ)れには、計画的に支那事変を起し、日米戦争まで持つて来て、我国の社会制度を一新し、ソビエットの夫れの如くせんとの意図を看取するを得るものなりと。夫れより逆に考えて、支那事変当時の梅津の態度等は、実に首肯(しゅこう)しかねるものありたるも、或はかゝる陰謀ありたるならん」(『細川日記』上)

梅津大将は支那事変勃発当時に陸軍次官、その後、関東軍司令官として新京で指揮を執っていた。
事変不拡大方針を表明していた近衛内閣が実行できなかった陰には梅津がいたからだと、近衛が十八年暮れに至って腑に落ちた様子が窺える。
近衛の上奏意図には、コミンテルンのゾルゲ・尾崎グループの謀略が、陸軍内部にいる特殊な人物と地下水脈で通じているという可能性を明確に示唆していた。

尾崎秀実
だが、天皇にこの点についての理解を示す情報がその後も届くことはなかった。
かくて昭和二十年は、極度に悲惨な敗戦状況を迎えることとなる。
そこで梅津の懐刀、池田純久について述べておこう。…
池田の特徴は軍務局軍事課時代の昭和四年四月から七年三月まで、陸軍派遣学生として東京帝国大学経済学部で学んだことだとされる。
そこで身につけた統制経済理論が、やがて企画院内での理論的支柱と呼ばれる礎を築くこととなった。
昭和十年に相沢三郎(中佐)に斬殺された永田鉄山(ながたてつざん、少将)の愛弟子でもあった。

永田鉄山
昭和十二年、企画院調査官として国家総動員体制を指導する、いわゆる新革新官僚グループの代表的存在となったことで、その立場は明確になる。…
先の戦争期における軍部内の大きな亀裂の根幹に、二・二六事件挫折の影響が強く反映されている事実は疑いようがない。
二・二六事件を主導したいわゆる皇道派(こうどうは)は事件以後、実権を失い、統制派と呼ばれるグループ(実際にはそういう会派はないのだが)が主導権を握る。
もとより皇道派はソ連を強く警戒し、蒋介石や米国との軋轢は避けようとする傾向があった。…
二・二六事件を抑え込み、皇道派が追われたあとに実権を握ったのが東條英機、南治郎、池田純久、武藤章、小磯国昭、影佐禎昭、四方諒二らの統制派である。繰り返すが「統制派」という組織はない。敢えていえば「反皇道派」人脈の総称を指す。
彼らは文字どおり、天皇の「木戸番」となっていた木戸内府に接近した。…
皇道派は反共・反ソを掲げ、精神的国家主義の傾向が強かったのに対し、統制派は南進論で中国一撃を謳い、英米を敵国と位置づけていた。…

共産主義への警戒心を考えるならば、池田純久など参謀本部中枢から梅津美治郎参謀総長に至る統制派と、近衛とその周辺に集まった皇道派の対立構造を見逃すことはできない。
統制派を裏から操っていたのが、ゾルゲと尾崎秀実(おざきほつみ)による「南進論」派だった。
尾崎の主張に同調するように動いたのが、武藤章軍務局長と軍務課長の佐藤賢了ということになる。
彼ら幹部幕僚が、東條や梅津といった陸軍首脳を下から突き動かしていた、と言い換えても過言ではない。
さらにその関係を統制経済の面から理論的に支えていたのが、革新参謀・池田純久だった。

敗戦が間近に見え始めた頃、迫り来る共産主義の脅威に関する情報を天皇の前に立ちはだかって遮断するグループが暗躍し始めた。そのなかに梅津や木戸の顔が見え隠れする。

彼らが目標としたのは「敗戦から革命へ」というコミンテルンのスローガンだった。

徹底抗戦と本土決戦を叫ぶ者たちのなかに、ソ連の影響を強く受けた軍人たちが混じっていた事実は、ここまで述べたように疑いようがない。

近衛が天皇に訴えたかった一点は、国家の裏切り者を一掃し、一刻も早く終戦に持ち込むことだった。

誰がその核心にいたのか、天皇周辺の「赤いユダ」をさらに解明しなくてはならない。』

詳しくはこちらをご参照💗
↓

続きは次回に♥
ランキング参加中で~す^^ ポチっとお願いします♥
↓↓↓↓↓↓↓

にほんブログ村

人気ブログランキング


- 関連記事
-
- 事実に反する記述(=ウソ)が書かれたままの東京書籍・中学校歴史教科書 ~ 参勤交代の実例 (2019/07/13)
- 徳川三代にさえ劣後する、現在の日本政府の愚策=消費税増税www (2019/07/12)
- 江戸時代の「貧農史観」は、ただの空想です (2019/07/11)
- 歴史が示す「革新主義(Progressivism)」の大きな過ち ~ 戦争を引き起こした「増税ファシズム(増税全体主義)」 (2019/07/10)
- およそ500年前の世界の基軸通貨は「銀」でした (2019/07/09)
- 消費増税に大反対の“民意”を示しましょう!! ~ 戦前の「革新官僚」由来の「増税ファシズム(増税全体主義)」への宣戦布告 (2019/07/08)
- 金閣寺の「金」は、金日成の「金」!? ~ 金閣寺とダルマとチュチェ思想 (2019/07/05)
- 公式 : “革新”官僚=“確信”官僚 ~ いわゆるパヨクの特徴は「無謬(むびゅう)」なんです(笑) (2019/06/21)
- アメリカへと渡った極悪人の片山潜 ~ 在米日本人社会主義者団の中心人物 (2019/06/20)
- ボリシェビキとニューヨークと片山潜 (2019/06/19)
- 個人の自由を、ただひたすらに主張する「愚」 (2017/05/15)
- 女神モリガンとモルガン銀行 (2017/05/14)
- 「無能な学者」でも有名大学に職を得られる「穴場」 ~ マルクス経済学 (2017/04/19)
- これから銀行が次々に消えていく理由 (2017/04/18)
- 比べてみれば良く分かる!! 「日本の銀行」と「アメリカの銀行」の違い ~ あの「太郎」と、この「太郎」の違い (2017/04/17)