2019-06-13 (Thu)

本日のキーワード : 革命的祖国敗北主義
革命的祖国敗北主義(かくめいてきそこくはいぼくしゅぎ)とは、ボリシェヴィキのウラジミール・レーニンがメンシェヴィキの「革命的祖国防衛主義」に対して主張した理論。言葉は似ているが、革命的敗北主義とは別の概念である。革命的敗戦主義ともいう。
パリ・コミューン、ドイツ革命、ロシア革命の例に見られるように、「祖国の敗戦」という国難が革命勃発のきっかけとなっている。
これらの実例から、帝国主義下にある自国が対外戦争に参戦した場合、第二インターナショナルの社会民主主義者たちのように自国の勝利のために挙国一致で戦うのではなく(城内平和)、戦争への協力を拒否し、その混乱や弱体化に乗じて革命で政権を掌握させるべきとした。具体的には、反戦運動により厭戦気分を高揚させることで自国の戦争遂行を妨害したりすることなどである。
しかしこれは戦争犯罪である戦時反逆、また各国の国内法による処罰の対象となるどころか、国家権力に「共産主義者=売国奴、敵国のスパイ(第五列)」という格好の攻撃材料を提供することになり、一般国民の共産主義に対する嫌悪感を増しかねない。事実、第一次世界大戦後のドイツにおいては「ドイツの敗戦と屈辱的な講和の原因は、革命を起こし休戦協定に署名した社会民主党や独立社会民主党、スパルタクス団(後の共産党)などの共産主義者、ユダヤ人による裏切り、陰謀、背後の一突きである」とする主張が右翼勢力によってなされており、ナチスもこの主張を強く支持していた。
本日の書物 : 『日本人として知っておきたい世界史の教訓』 中西輝政 扶桑社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 すでに前章で詳しく見たように【共産主義】は、20世紀の世界史だけでなく、【「近代日本の運命をも狂わせた」】と言っても過言ではありません。とくに【重大な問題】は、労働者の生活状況を改善するためとか、マルクスの言う資本主義的な「労働疎外」をより人間的な視点で克服していくというような理念の問題以上に、【国際政治的な次元で長期の冷戦を生んだこと】です。それは、【「プレ冷戦」期を含めると、20世紀の初頭から始まります】。

【マルクス】が【「共産党宣言」】を書いた1848年からこの方、世界的に一つの思想潮流、【共産主義の脅威】がずっとありました。
1907年にドイツのシュトゥットガルトで【第二インターナショナル】(コミンテルンの全身)の大会があり、決議が行われました。

講演するローザ・ルクセンブルク(1907)
コミンテルン(第三インターナショナル)ではなくて、その一つ前の第二インターナショナルの時代です。そしてこの【シュトゥットガルト決議】の中では、(第一次)世界大戦の切迫ということを見通して、【三つの決議】が挙げられていました。

一つ目は、【社会主義者】は【議会で軍備縮小と常備軍の撤廃を求めて努力すべき】だということ。これは今、【日本の某政党も忠実に守ってやっています】。そして【軍事予算には必ず反対する】ということです。

☆共産党・参院選予定候補者「F35戦闘機の爆買いやめれば、1100箇所の特養老人ホームをつくれます」
二番目は、【「労働者階級は戦争勃発を阻止するよう全力を注ぐべきである」という決議】です。【労働運動と反戦運動は一体】だということを決議は謳っています。

しかし、それらよりも20世紀の世界史にとってより重要と思われるのは三番目の決議です。列強間【戦争が勃発】したならば、【労働者階級】は戦争のすみやかな終結を目指して【祖国の戦争努力に干渉するとともに、戦争によって引き起こされた国内・国際の危機を利用】して、【資本主義の廃絶を目指し】て、全力をもって【社会(つまり共産)主義革命の達成をめざすべき】であると。

【大戦争】というのは【共産主義革命の温床】だというのが、ここから見えてきます。

労働者と革命分子は「資本主義の廃絶をめざして、全力を挙げて戦うべきだ」という【シュトゥットガルト決議】によって、【20世紀という「世界大戦の世紀」が同時に「革命の世紀」になった】のです。

そして【大東亜戦争】があのような形で、【日本の国益から見てありえないような愚かな選択】になったのです。すでに見た通り、泥沼化した【支那事変から、誰もが避けるべきと考えた日米戦争、という「真珠湾への道」】は、【間違いなく共産主義の「敗戦革命」戦略】に一つの要因があったということです。

そして、【この戦略の淵源】を見ていくと、第一次世界大戦が始まったときに【決定的な共産主義の問題】、【資本主義体制に関わる問題】が出てきます。

すなわち【第二インターナショナルの中】の【左翼に位置する一派】、つまり【レーニンやトロツキー、ローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒト】など、【大戦後にドイツ革命やロシア革命を指導した人たち】が、1915年9月11日に、スイスで【「ツィンマーヴァルト決議」】というのを行っています。これも【冷戦を考えるときに非常に重要な決議】です。

これによってレーニンたちは、【祖国の戦争に協力する姿勢を示した第二インターナショナルの主流派を切り捨て】て、【後の第三インター、すなわちコミンテルンにつながる「革命的左派グループ」を結成した】のです。この【ツィンマーヴァルトで出てきた路線が、新たに定式化された「革命的祖国敗北主義」】です。すなわち、戦争が起これば、【必ず祖国を敗北に導くように共産主義者は行動しなければならない】、という命題です。

【第三インターナショナルすなわちコミンテルン誕生の根源】は、この【ツィンマーヴァルトの革命的祖国敗北主義というテーゼにある】のです。ですから、【祖国を大きな戦争に導くこと】がその【革命を一日も早く達成するための、共産主義者にとって「神聖な義務」であることをはっきり謳っている】のです。

ここから日本の昭和史は始まるのだろうと私は思うのですが、前章でも言った通り、【この革命的祖国敗北主義というテーゼが昭和日本の命運に影響を及ぼしたこと】を、【戦後の歴史学者がほとんど言及しない】のは非常に不思議なことです。そしてこの【祖国の社会をカオス化させることで革命を招き寄せようとする動き】は、1930年代のコミンテルン、あるいは1960~1970年代のベトナム反戦運動など【さまざまなところに顔を出している】のですけれども、【そのことについての学術的な研究はほとんどなされたことがありません】。』

支那の「排日」が「反日」になったのはソ連とイギリスの仕業です
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、学校の授業で覚えさせられる世界史とは違って、主に第一次世界大戦の前までの大英帝国の覇権、そして第一次世界大戦の最中に勃発した1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)後のソ連を中心とした社会主義・共産主義勢力、そして2つの大戦間に確立した現在に至るアメリカの覇権を軸に、ここ100年ほどの世界の流れを大きく読み解く能力が身につく良書となります。

さて、昨日のところで確認して参りましたように、今から100年前の1919年(大正八年)という年は、
① 欧州大戦が終結した。
② レーニン中心の極左・共産主義者が「コミンテルン(第三インターナショナル)」として集結した。
③ 支那で「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動が起こった。
という状況にあって、

大戦中は味方同士であった英米と日本は、「① 欧州大戦が終結した」ことで、「国家社会主義」を信仰する「極右勢力」らの主張や活動が、英米にとっては好ましくないものとなり、当初、特に米国キリスト教(プロテスタント)主導で行われた「③ 支那で「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動」へと繋がっていくことになり、他方で、1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)の成功によって、ソ連を中心とした社会主義・共産主義勢力が「② レーニン中心の極左・共産主義者が「コミンテルン(第三インターナショナル)」として集結し」、その「コミンテルン」の指揮の下で、ほぼ壊滅状態であった「社会主義」を信仰する「左翼・極左勢力」が息を吹き返し、これら「極右」と「極左」どもが、私たちの日本を混乱に貶めてゆくようになりるのですが、

第三極となる、レーニン中心の極左・共産主義者が終結した「コミンテルン(第三インターナショナル)」の出現によって、支那を巡っての関係が複雑になってゆきます。なお、上図には書いておりませんが、孫文を支援していたのは、繰り返しますが、日本の「極右」になります。

その「コミンテルン(第三インターナショナル)」が掲げる「共産主義」ですが、先日も書かせて頂きましたように、「共産主義」には「サタニズム(悪魔崇拝)」の思想が内包されていて、その究極の目的は、人類を地獄へ叩き落すことにあります。







詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「天安門大虐殺」と、「サタニズム(悪魔崇拝)」に過ぎない「共産主義」
☆共産主義の本質を理解するカギ ~ 「サタニズム(悪魔崇拝)」
1864年、ヨーロッパの労働者、社会主義者が組織した国際政治結社を「第一インターナショナル」と呼びますが、その正式な名称は英語で「International Workingmen's Association」、日本語で訳しますと「国際労働者協会」になります。

国際労働者協会(第一インターナショナル)のロゴ
1889年、社会主義者の国際組織としての「第二インターナショナル」が結成されますが、その正式な名称は英語で「International Socialist Congress」、日本語で訳しますと「国際社会主義者大会」になります。
そして、この第二インターナショナルは空中分解するのですが、その理由は、1914年に欧州大戦(第一次世界大戦)が始まったことで、社会主義や共産主義を信奉していたとしても、自身の母国の戦争を支持する人々が多くいたからです。当然ですね💗

そして、今から100年前の1919年、国際的な共産主義運動を指揮する司令塔としての「第三インターナショナル」が設置されますが、その正式な名称は英語で「Communist International」、日本語で訳しますと「共産主義インターナショナル」、略称が「コミンテルン(Com+Intern)」になります。

で、レーニン主導の「コミンテルン(共産主義インターナショナル)」は、空中分解した「国際社会主義者大会(第二インターナショナル)」の経験を活かし、自分たちの考え方と異なる社会主義者、つまり母国の戦争を支持する人々らにレッテルを張り排除していきます(詳しくは下記リンク先の動画を御覧下さいませ)。そして、「サタニズム(悪魔崇拝)」の「共産主義」を布教する「共産党」を世界各地に「非合法」であっても組織化するべきであるとの方針を下し、それを実行してゆくことになります。




そして、昨日の続きになりますが、新しく生じた第三極、すなわち、それまでの社会主義者の中で、「母国を愛する社会主義者」、それをここでは「極右の社会主義者」と表現させて頂きますが、それらを非難し排除し、その残りが結集した「母国を否定(遺棄)できる共産主義者(「社会主義+サタニズム」信者)」、それをここでは「極左の共産主義者」と表現させて頂きますが、ロシアの内戦における革命派(赤軍)の勝利(1922年)によって、支那や朝鮮、そして日本へと魔手を伸ばすようになり、やがて、もともと日本に存在していた「社会主義」を信仰する「左翼・極左勢力」と結びつくようになります。
昨日も書かせて頂きましたが、支那において、地方に割拠していた軍閥と、支那最強の軍事力を誇る「北洋軍閥」が支配する「北京政府(北洋政府)」に対抗するために、「中華民国」における「中国国民党」の政府は、ソ連・コミンテルンの支配下にある「中国共産党」と連携するようになります。それが「国共合作」(1924年、第一次国共合作)ですが、これ以降、「排日」から「反日」へと大きく流れが変化してゆくようになります。

そこで「五四運動」(1919年5月4日)という排日運動から「反日運動」に至る過程について、さらにその実態がどのようなものであったのかを次の書物を参考にして確認しておきたいと思います。ちなみに、昭和元年は西暦で1926年になります。

『 長野朗(ながのあきら)…戦前を代表する秀れたシナ通、中国通で…GHQに焚書された本は18冊もあり…没収された本の多い著者としては3番目にランクされる人物です。…1975年までご存命でしたから、戦後も中国共産党に関する本を出しておられます。…洞察力も鋭いし、シナという国に愛情を持ちつつも知的に冷徹にこの民族の本性を見抜いています。しかも、扱う事象の幅が広い。』

『 英米が其の最も良き走狗(手下)蒋介石を見出してから既に十五年である(この本が出たのは昭和16年だから、走狗を見出したのは昭和初頭になる)。今日ABCD線(ABCD包囲網、アメリカ、イギリス、支那、オランダ)等と言っているが、それは既に二十幾年も前に出来ていたので、日本国民が余りにぼんやりしていたのである。日支の戦ひは其の時既に始まり、ABCの連合戦線は出来ていた。最初に英米人は、排日と親英米の空気を造るのに全力を注いだ。そのために宣教師と学校を配置した。英米の宣教師は僅か数百の県を除き、支那数千の県にことごとく配置され、その数は数千に達した。大正八、九年には、一船毎に数十人の宣教師が送られ、アメリカは年に二千万弗($)の金を費(つか)った。これらの宣教師は教会に簡単な診療室を設け、支那人の歓心を得た。又教会の手で各地に学校が設けられた。大学、専門学校など外人設立のものが支那で設けたものより多く、二十七を算した。中等学校が数百、小学校、幼稚園は数千に達した。準備は完了した。

これを基礎に排日の運動を起こしたから、燎原(りょうげん)の火のやうに一挙に全国に拡がったのである。此等の学校は排日の宣伝場となり、医科大学に於いてさへ学校に日米比較の統計表がかけてあるが、国の大きさ産物工業交通等を比較されたのでは、日本は米国の足許にも寄り付けないのだから、事大思想(「事大」とは強いもの・大きいものに事(つか)えること)の支那人の頭には、米国親しむべし、日本侮(あなど)るべしの感を抱かせる。かうした細工は、アメリカ輸入の映画にもある。支那の映画は当時殆ど外国物で、殊にアメリカ映画が主であったが、映画の合間に、外国の風景を出す。それは紐育(ニューヨーク)辺りの摩天楼を移した後、日本の北海道の田舎町の外れを子守が子供をおんぶして鼻を垂らして歩いているような所を出す。するとアメリカは如何にも偉い所で、日本は見すぼらしいやうに見える。かうして英米支親善と排日の感情は次第に昻(たか)まって行ったのである。』
『 英米の狙ひの一つは支那市場の独占である。それには日本品を支那市場から追っ払はねばならぬ。所が日本の方が万事条件がよいので、尋常(普通)の方法では駄目だから、日貨のボイコットをやって(日本製品不買運動をする)、その間に英米貨を入れやうとした。事実アメリカの対支貿易はずっと低い所にあったが、めきめきと出て来て、英を抜き日本を抜いて第一位となった。 又上海を中心とした支那の新興財閥も日貨排斥によって自己の製品を売り広めやうとし、殊に支那人紡績等が躍起になり、排日資金もこの方面から大分出たやうである。この国貨提唱(支那製品を売り広める運動)といふのは初めは滑稽で、…日貨のボイコットを機会に、之に代わるべくいろいろの工業が興った。…女学生に森永のミルクキャラメルに毒が入っていると宣伝させておいて支那製のキャラメルを造ったり、仁丹が支那の至る所に売れているので、人丹(ジンタン)といふのを売出したり、ライオン歯磨きの代わりに獅子が二頭居るライオン歯磨粉を売出す等いろいろのことをやった。かくて余り資本も設備も要らない雑工業は、日本人工場の職工を引き抜いて来ては始めたものであるが、天津の紡績工場の如きは、経営が巧く行かず、借金は増えるし、たうとう日本側に身売りするやうになった。』
『 (日本製品の)ボイコットが第二期に入って来ると、ボイコットの期間も長くなり…日本の小さい店は倒れるのも出て来た。それにボイコットも部分的でなく全国一斉に行はれ、…欧米品が日本品に代わってどんどん入るやうになり、この機会に支那にも盛んに工業が起こって来た。ボイコットの方法も深酷になり、違反者を捕へて檻に入れたり、爆弾を投げ込んだり、莫大な罰金を課したり、耳を切ったり、それがすべて私的団体でやり政府は見ているから、支那の政府等に抗議しても何んにもならない。又日貨の没収や日貨に課税したりしてその収入が数千万圓に及び、それを争って上海では主謀者の争奪戦が行はれた。
(日貨ボイコットの)第三期になってくると、国民政府が自ら主宰し、政府の機関を動かし、商工部で立案し、支那は不自由せずに、日本だけが困る方法を考へ、全国のボイコットを統一した。しかし表面は国民党によって組織された反日会が本部を上海に設け、支部を全国に置き、国民党の支部員が之れに当たった。この時期になると、ボイコットは政府の政務であり、政策として行はれた対日経済戦であった。従ってその期間も長いのは二、三年も続いたので、我が方の打撃も少なくなかった。南洋華僑の中にも、国民党から人を出して指導させるし、排日教科書を造って全国の小学、中学に配るし、排日の教材を盛んに配布するし、上海だけでも排日で飯を食っている常務員(プロの排日屋)が数百名居り、指導者には数百万の財をなしたものだ。英米資本の東亜独占と、支那の民族主義とがからみつき、大正八年から排日が起こったが、その方向は二つの進路を取った。
一つは支那の民族運動として満洲の漢人化、満洲からすべての日本の勢力を駆逐しようとする企ては、遂に張学良をして満洲事変を起こさせるに至った。
一つは経済的の現れで、上海を中心として興りかかった支那の新興財閥と英米資本との合作によるボイコットで、これは当然浙江財閥の傀儡たる蒋介石と、英米の合作にまで進んで来たのである。』

そして問題となるのがここからです。ちなみに大正十二年は西暦1923年になります。

『 排日の内容も時には(時とともに)変化があった。排外運動が排日の形で出たのは当然であるが、その後ソ連の指導する中国共産党が表はれるに従ひ、大正十二年頃から少し雲行きが変わってきた。学生会のリーダーは、英米系の基督教青年会の幹事から、何時の間にか共産主義青年会の幹部となり、排日から反帝国主義運動になったが、英米人は巧く泳ぎ回って、その鉾先を絶えず日本側に向けたのと、支那人の外人崇拝と日本軽視とは、日本人には(排斥運動を)やるが外人には手を着け得なかった。ただ反基督教運動だけは起こり、英米人経営の学校にストライキが起きたり、奥地にある宣教師が逃げ出したりして、宣教師の活動は振るはなくなったが、彼等の播(ま)いた排日の種子は既に生え、彼等はその任務を果たしたのであった。共産党が飛び出してから排日運動の中に労働者が加わって来た。それが著しく出たのは大正十四年の五卅事件(ごさんじゅうじけん)の時で、この時にはボイコットと共に労働者のストライキが加わり…日本人に食物も売らず、日本銀行の紙幣を受け取らず、日本船に乗らないといふ所まで行った。この騒ぎで共産党はまんまと上海の労働者組合を其の手に収めてしまった。大正十五年の北伐(蒋介石の国民党軍が北方軍閥を倒して支那を統一しようとした内戦)には、国共合作(北伐で国民党軍と共産党軍が手を結んだ)であったため、ソ連と英国の仲の悪い時ではあり、反帝国主義運動の鉾先を先ず英国に向け、武漢に飛び出して来た国民革命軍は口々に「打倒英国」を叫び、武漢政府(汪兆銘の率いる国民党政府)は漢口の英租界を武力で占領した。すると機を見るに敏なる英国は、あっさりと漢口、九江の英租界を支那に返して反英の気を抜き、今まで(イギリスは)北方軍閥派の討赤連合軍(共産党潰しを狙っていた北方軍閥)を助けていたのを、鮮やかに百八十度転回して、当時江西まで下っていた蒋介石と手を握り、蒋介石に国共分袂(こっきょうぶんべい、蒋介石を説得して、共産党とたもとを分かつこと)の芝居を打たせ、蒋介石の共産党弾圧となり(それまでイギリスを敵視していた共産党を弾圧させるように仕向けた)、ソ連は英国に背負い投げを喰はさるると共に、反英は又排日となり、国民革命軍が南京まで下って来ると、南京の日本領事館の襲撃が行われた。この蒋と英国の連合は今日(昭和16年時点)まで続いている。同時に排日も抗日から抗戦へと予定のコースを取ってきた。』
続きは次回に♥
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