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    親子チョコ💗(300冊以上の良質な書籍のご紹介)

    子どもたちの教育のため、また、その親である私たち自身が学ぶための、読まれるべき良質な書籍のみをご紹介させていただきます。

     >  世界史 >  「極右」と「極左」という「社会主義者」

    「極右」と「極左」という「社会主義者」

    中国同盟会

    本日のキーワード : 中国同盟会、アジア主義、アジア革命運動



    中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)は、清末1905年8月20日、孫文らにより東京で結成された政治結社。略称は同盟会。孫文を中心に清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体である。

    1905年7月、黒竜会の指導者であった内田良平により孫文が東京に赴き中国同盟会の設立準備に着手した。8月20日、頭山満が提供した赤坂区の民家の2階で興中会(孫文・胡漢民・汪兆銘など)、光復会(陶成章・章炳麟・蔡元培・秋瑾など)、華興会(黄興・宋教仁・陳天華)などが合併して中国革命同盟会(後に日本政府の干渉により中国同盟会と改称)が成立、孫文を総理、黄興を庶務に選出すると同時に『軍政府宣言』、『中国同盟会総章』及び『革命方略』などの文書を採択し、国内外に支部及び分会を設置、華僑、会党、新軍と連絡し全国規模の革命組織となった

    本日の書物 : 『日本人として知っておきたい世界史の教訓』 中西輝政 扶桑社



    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 当時の【ウッドロー・ウィルソン】米大統領は、1919年1月にパリで始まった第一次世界大戦の講和会議への【中国のオブザーバー参加を認めました】

    驚き

    そのことが後述する【「五四運動」(1919年5月4日)】きっかけを与え、【中国の反日ナショナリズムは爆発的に高揚してゆく】のです。

    ポイント 32

     そして【アメリカの対日警戒心】は、ウィルソンの後任のウォレン・ハーディング大統領の時代に【さらに強まり】【ワシントン会議】(1921~1922年)での【明確な対日圧迫政策】へとつながっていきました。

    ポイント 女性 重要 5

    この会議では、【米国が中心】になって、【日本に圧力】をかけ、日本が第一次世界大戦の戦勝国として【ドイツから継承した山東省の権益を中国に返還させ】、中国の排日運動に対抗して【日本が日露戦争で獲得した満洲の権益を確保することを困難にする九カ国条約】【日英同盟を破棄することを決めた四カ国条約】、そして【日本の主力艦の保有量を英米の6割に制限する海軍軍縮条約】【日本は締結させられた】のです。

    ポイント

     この4つの条約や取り決めはすべて、日本を徹底的に抑え込み、さらに明白に日本の孤立化を推進しようとしたもので、日本がなぜこんな不利な合意を受け入れたのか今日でも理解に苦しむほど拙(つたな)い日本外交であったと思います。…

    ポイント 女性

     話を、さきの【「五四運動」】に戻すと、第一次大戦中、日本が敗戦国ドイツの山東省権益を継承し、併せて満蒙の権益を拡大することを中華民国政府に認めさせた【「対華(対支)二十一カ条要求」】(1915年)の無効中国はパリ講和会議で強く求めましたが各国全権によって拒否されました。これに反発した【北京の学生らが、1919年5月4日に始めたのが強烈な反日運動である五四運動】で、日本に対する激しい抗議活動が中国全土に広まりました。

    ポイント 21

     そして【この五四運動を主導】したのが、当時北京大学に在籍していた【李大釗(りたいしょう)】【陳独秀(ちんどくしゅう)】という、のちの【中国共産党創立(1921年7月)時の中枢メンバー】です。

    李大釗
    李大釗

    陳独秀
    陳独秀

    彼らは1918年に北京大学で【「マルクス学説研究会」】を立ち上げており、すでに【社会主義・共産主義にはっきり傾斜】していました。【五四運動】明らかに1917年のロシア革命の成功さらには1919年3月のコミンテルン結成による世界的な共産主義の影響力増大を受けた動きでした。』

    日の丸

    日本を混乱に貶めたのは、「極右」と「極左」の「社会主義者」です


    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、学校の授業で覚えさせられる世界史とは違って、主に第一次世界大戦の前までの大英帝国の覇権、そして第一次世界大戦の最中に勃発した1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)後のソ連を中心とした社会主義・共産主義勢力、そして2つの大戦間に確立した現在に至るアメリカの覇権に、ここ100年ほどの世界の流れを大きく読み解く能力が身につく良書となります。

    読書7-69

    さて、本文中に書かれていました「五四運動」(1919年5月4日)について、その実態がどのようなものであったのかを、まず、ここで確認しておきたいのですが、次の書物を参考してみたいと思います。

    GHQ焚書図書開封7 ~戦前の日本人が見抜いた中国の本質~ 

    『 長野朗(ながのあきら)戦前を代表する秀れたシナ通、中国通で…GHQに焚書された本は18冊もあり…没収された本の多い著者としては3番目にランクされる人物です。…1975年までご存命でしたから、戦後も中国共産党に関する本を出しておられます。…洞察力も鋭いし、シナという国に愛情を持ちつつも知的に冷徹にこの民族の本性を見抜いています。しかも、扱う事象の幅が広い。』

    支那の真相 長野朗 2017年5月復刻 

    『 今度の事変(支那事変の起こりは大正八年の排日で、そのとき私は…私のいたすぐ近所で排日の第一声が起こり、それから排日が抗日になるまで見物してきたから、ここには北京政府時代の排日の起こった時からの私の実見記を簡単に述べてみやう。排日が起こったのは大正八年の五月四日であるから、五四運動といはれている。やったのは北京大学の学生だが、起こりはいろいろで…第一には英米が欧州戦争(第一次世界大戦)中に、東亜の市場を日本に独占されていたのを、何とかして取り戻さうとして排日を煽り日貨排斥(日本製品ボイコット)を宣伝した。欧州戦争中はさすがに気兼ねしていたが(日本が英米側についていたから)、休戦ラッパが鳴り響くや(1918年)たちまち英米新聞が排日の宣伝を始め、それが支那新聞に伝染し、ようやく気勢(排日の気運)が出来てきた

     そこに欧州戦後の新思想(マルクス主義)北京大学の学生教授の中に流れ込み一方では当時北京政府の政権を握っていた親日派の段祺瑞(だんきずい)一派に対し、反対派の直隷派失意政客(段祺瑞によって中央政府を追われた政治家たち)段派を倒して政権を握る手段とした。それに新興支那財閥の国貨運動(国貨=国産品)も加わって、排日の気勢が醞醸(うんじょう)されてきた。』


    志位 50

    『 五月四日の夜親日派の曹汝霖(そうじょりん 交通総長。運輸大臣のようなもの。)邸を焼き打ちし、章駐日公使に負傷させた北京大学生は、さすが自分達のやったことに驚き、学校に帰って小さくなって震へていると、翌日の全市の新聞が大いに彼等の行動に肩を持っているし、政府の処置が緩やかであったのに元気を出したちまち火の手は北京の各大学から天津に伝はり全国の学校に及んだ

     全国の学生運動の中心をなしたのは英米系の学校と、基督教(キリスト教)青年会の幹部とであった。基督教青年会の連中は学生を取り付けるために、映画を見せたり(排日の宣伝映画)、お茶を出したりして誘ひ込むのである。…私も度々排日の行列を見物したが、実際だらだらしたもので、熱も活気もなく、ブラリブラリと歩いていた。それもその訳で、行列(排日デモ行列)賃一日五十銭で狩り出されたのである。幹部連がうんと運動費を儲け(中間搾取は支那人の常です)、一般の学生には五十銭しかやらない。後には幹部連中の間で運動費の分配についての内輪喧嘩が起こった。幹部連は金は儲かるし、一躍愛国者として名誉を得るし、男女学生の合作だから、その間に恋の花も咲くし、一挙に金と名誉と恋とを得るので、排日運動がやめられなくなり、遂に排日商売(プロの排日屋)が出来上がり機会ある毎に排日運動を起こすに至った。学生の方は行列賃を貰ふし、授業は受けなくてもよいし、試験も要らないので、試験になるとよくやったものである。ために学生の遊興が多くなり、学生の堕落となった。』


    イエスと銃


    『 排日の演説もよく聞きに行ったが、中央公園あたりの広場で、高い台の上に次々に登ってやる。口角泡を飛ばしといふ形容詞があるが、実にその通りで、口の角から泡を吹き唾を飛ばし足を踏み鳴らし手を振り頭を動かし奇声を発し悲憤慷慨(ひふんこうがい)している。支那人自分の喋っていることでだんだん興奮し自己催眠に罹(かか)る民族で、上海では興奮の極み、黄浦江(こうほこう 上海の川)に飛び込んで死んだのがいるといはれる。演説賃普通五十銭巧いのは一圓、女学生は効能があるといふので一圓、天津で女学生の演説を聞いて見ると、森永のミルクキャラメルには毒が入っているから買ふなと言っている。それは丁度支那側でミルクキャラメルに似せた菓子を造り出していた時で全く菓子屋の宣伝をやっているのである。』

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    『 新聞も随分出鱈目を書くもので、日本人から見れば馬鹿馬鹿しくて話にならないが、かうした馬鹿馬鹿しいことが支那の民衆には効果がある。例へば昨夜日本人が果物屋の店先にある西瓜に毒を注射して歩いたといふやうなことが新聞にでかでかと書いてある。支那の排日教科書は日本でも問題になったがそれが初めて現はれたのは大正八年(1919年)であったと思ふ。当時支那には固定教科書が無く、…勝手に造っていた。そこで排日が流行になると、そこは商売だから盛んに排日記事を入れた教科書を売り出したものである。最初に出たのは地理の教科書で、…日本という題下に次のやうに書いてある

     日本は島国なり、明治維新以来国勢にわかに盛なり、我が琉球を県とし奉天吉林に殖民し、航業商務を我が国各地に拡張す。膠州湾(こうしゅうわん)は重要の軍港にして昔獨逸(ドイツ)に租す。日本は欧戦(第一次世界大戦)に乗じて之を奪ひ、さてまた我に向かひて権利を強索(ごり押し)す。我が力弱く未だ戦ふべからざるを以て隠忍して之を承認す。それ日本は弾丸の国(軍国主義の国)を以て朝野(官民)上下力を併せて経営者、日に我国を以て的となし、隙を伺ふものは我の弱きを利するのみ。我国の人いやしくもよく自強(自国強化)せば、即ち国恥そそぐの時あり(国の恥をそそぐ時期がくるだろう)、国威興るの時あらん、願わくば国人(支那人)自ら餒(う)むなかれ(諦めないでほしい)。』


    近代史年表 1

    さて、ここまで「五四運動」(1919年5月4日)の実態についてご覧頂きましたが、この1919年というのがポイントで、

    ポイント 23

    欧州大戦(第一次世界大戦)の講和条約(=戦争終結のための条約)が結ばれたのも1919年であり、レーニン率いる極左の共産主義者が集結した「コミンテルン(第三インターナショナル)」が結成されたのも1919年で、今からちょうど100年前のことになります。

    支那の排日教科書が初めて現はれたのも大正八年(1919年)だったようなので、支那100年間も私たちの日本に対して「因縁をつけている」ことになります。まず、これらの史実を抑えて置きましょう💗

    女性 ポイント ひとつ

    つまり、今から100年前の1919年(大正八年)に、

    ① 欧州大戦が終結した。

    ② レーニン中心の極左・共産主義者が「コミンテルン(第三インターナショナル)」として集結した。

    ③ 支那で「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動が起こった。


    ということになります。

    で、排日(≠反日)ナショナリズム運動起こったと書かせて頂きましたが、支那人にとっての「ナショナリズム」って一体何のことなのでしょうか? そもそも「中国人」などという概念は、現在でも地球上には存在していません。それなのに、「ある(存在している)」と勘違いしている方々が、何故か見受けられるのですが、アタマが悪いのでしょうね(笑)

    ポイント 23

    そんな方々のために、簡単に申し上げますと、「中国人」という架空の民族の概念が生み出されたのは、1911年の辛亥革命の翌年1912年のことになります。1912年に、「中華民国(現在の台湾)」が産声を上げたところから始まります

    国民政府が使用した中華民国の国旗
    国民政府が使用した中華民国の国旗

    『 「中国」という漢字の意味は「まんなかの国」ですが、「国」という漢字の古い字体は「國」です。この漢字が、「域」の右側のつくりが四角に囲まれた中に入っていることでわかるように、国は、もともと城壁に囲まれた場所、つまり、町を意味する漢字でした。

     だから「中国」という言葉の本来の意味は、まんなかの「みやこ」すなわち首都のことで、このことばが現在のような国家の意味に使われるようになったのは1911年の辛亥革命の翌年1912年1月に建国された中華民国が最初です。中華民国の略称を中国と言い、その国民が中国人と呼ばれるようになったわけですから、中国人ということばも、実は19世紀まで存在しなかったのです。

     中華民国を台湾に追い出して、1949年に建国された中華人民共和国も略称は中国です。だから、われわれ日本人はみんな、同じ中国だとつい思いますが中華人民共和国は、中華民国を否定してできた国だからべつべつの国なのです。』


    詳しくはこちらをご参照💗

    「中国人」は、実は19世紀まで存在しなかったんです

    教科書には書かれていない封印された中国近現代史 

    つまり、今から100年前「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動に至る「中華ナショナリズム」の誕生は、1911年の辛亥革命にあることになります。

    で、昨日書かせて頂いたことですが、私たちの日本国内においては、この時点(1911年頃)までは一種の宗教として「社会主義」を信仰する「左翼・極左勢力」の殲滅・一掃正しく実行できているのですが、他方で、一種の宗教として「国家社会主義」を信仰する「極右勢力」活発化してきます。

    堺利彦(さかいとしひこ)が全国の社会主義者の連絡拠点となる「売文社(ばいぶんしゃ)」を設立し、荒畑寒村(あらはたかんそん)や高畠素之(たかばたけもとゆき)らが参加していましたが、堺と荒畑は、ソ連のモスクワに本部を置く「コミンテルン」の日本支部として1922年(大正十一年)に設置された「日本共産党」の初期メンバーで、

    堺利彦
    堺利彦

    荒畑寒村
    荒畑寒村

    1919~1925年マルクスの『資本論』日本初の全訳に成功し、当時のマルクス研究の主要研究者と目された人物であった高畠は、のちに社会主義運動の方法論をめぐって争い国家社会主義運動の旗手となります。

    高畠素之
    高畠素之

    もうお気付きでございますでしょうか?

    悩む女の子2

    「社会主義」を信仰する「左翼・極左勢力」も、「国家社会主義」を信仰する「極右勢力」も、その根っこの部分は同じであるということに。

    女性 ポイント ひとつ

    1936年(昭和十一年)の「二・二六事件」は、帝国陸軍内「国内革新勢力」である「皇道派(こうどうは)」引き起こした事件ですが、その理論的支柱を為した人物北一輝(きたいっき)で、「国家社会主義者」でした。

    北一輝
    北一輝

    若くして上京した彼は、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)や堺利彦平民社の運動に関心(→社会主義者が引き起こした「赤旗事件」)を持ち、社会主義思想に接近します。やがて、国家や帝国主義に否定的な幸徳らと一線を画し国家を前提とした社会主義を構想するようになるのですが、これが「国家社会主義」です。

    1906年、『國體論及び純正社會主義(国体論及び純正社会主義)』という1000ページにも及ぶ本を自費出版したところ、当然のことですが発売5日で発禁処分となります。

    北一輝 三作品合冊版 「国体論及び純正社会主義」「支那革命外史」「日本改造法案大綱」 

    著書が発禁処分となり失意の北一輝は、宮崎滔天(みやざきとうてん)などの「アジア主義者」と知り合うようになり、

    宮崎滔天
    宮崎滔天

    やがて「中国同盟会」入党し、以後「アジア革命運動」に身を投じるようになります。

    中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年)
    中国同盟会、前列右端が孫文、後列中央が宮崎滔天(1890年)

    アジア主義者たちの声〈中〉革命評論社、あるいは中国革命への関与と蹉跌 

    中国同盟会は、1905年孫文らにより東京で結成された政治結社で、孫文を中心に清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体になります。

    『 戦後中国人が「支那人」と呼ばれるのを嫌がったのはある隠された政治目的があったからだ。

     1905年に孫文、章炳麟(しょうへいりん)ら革命派は「駆除韃虜(タタール)、恢復中華」という革命綱領を掲げ革命同盟会(のちの中国同盟会)を東京で設立した。


    恢復中華

    これら革命派が鼓吹する「大漢民族主義」対抗するために、維新立憲派のボス康有為(こうゆうい)ら「大中華民族主義」を唱えた。ここから「中華民族」という幻の民族像が始まった。

     「大中華民族主義」というのは、チベット人も満州人もモンゴル人も血がつながっていると考える主義である。そのため、すべてが大中華民族であり中国人だと主張する。…

     「大中華民族主義」にとって中国人を「支那人」と言ってしまうと漢人に限定される。チベット人、モンゴル人、満州人まで含む「大中華民族主義」にとっては、都合の悪い言葉なのだ。だから支那人という言葉の使用を嫌うようになった

     だが「支那人」という呼称は、康有為と同時代の中国人にとっては、忌むべきものというよりもむしろ誇りにすべき尊称であった。』


    詳しくはこちらをご参照💗

    中国人を「支那人」と言ってしまうと困ってしまうこと

    地政学で読み解く 没落の国・中国と韓国 繁栄の国・日本 

    ちなみに、宮崎滔天(みやざきとうてん)はキリスト教に帰依したあと「アジア革命運動」である「アジア主義」に傾倒していくのですが、外務省の命によって中国秘密結社の実情観察にも赴いています。また、孫文の支援だけではなく、清朝末期の政治改革を行おうとした康有為(こうゆうい)の支援もしていて、孫文らとの連携をも模索していましたが失敗、のちに孫文らと「中国同盟会」結成することになります。

    康有為
    康有為

    孫文
    孫文

    詳しくはこちらをご参照💗

    「洪門」とフリーメイソン

    暴力が支配する一触即発の世界経済 

    また、宮崎滔天(みやざきとうてん)は李氏朝鮮末期の金玉均(きんぎょくきん)の亡命を支援したりもしていました。

    詳しくはこちらをご参照💗

    朝鮮人の子供たちの自由を奪った日本人

    今こそ、韓国に謝ろう 

    さて、ここまで「アジア革命運動」である「アジア主義」の流れを確認してきましたが、西欧列強に植民地化されようとしている支那や朝鮮に対して、その内部からの革命による新しい国家体制の構築を促す役割を果たしていたことがご理解頂けるのではないかと思います。

    1910年、その朝鮮が、日本に併合(日韓併合)され国家が消滅し、その翌年の1911年「辛亥革命」が勃発し、清が滅亡し、中華民国(現在の台湾)が建国されるに至ることになります。

    北一輝
    北一輝

    この頃、北一輝は、黒龍会(こくりゅうかい)『時事月函』特派員記者として、上海に渡り、中国同盟会宋教仁(そうきょうじん)のもとに居ました。

    宋教仁
    宋教仁

    宋教仁は、中華民国初期に政治的な主導権を握っていた人物で(孫文らは中心ではなかった)、革命後の臨時大統領となった袁世凱(えんせいがい)と対立し、暗殺(1913年)された人物(この暗殺によって孫文が実権を握ることになります)です。彼が生きていればその後の歴史が相当変わっていたと思われるほどの人物になります。

    また、黒龍会(黒龍は「黒龍江(黒竜江/アムール川)」に由来)は、「アジア主義」を掲げアジア各国の独立を支援していた政治団体玄洋社(げんようしゃ)海外工作を担当した組織です。

    黒龍会
    黒龍会ロゴ

    アジア主義者たちの声〈上〉玄洋社と黒龍会、あるいは行動的アジア主義の原点 

    さて、支那において革命はなりましたが、それは当初描いていたような状況とはかけ離れた惨状を呈するようになります。つまり、袁世凱の死後(1916年)支那では軍閥が跳梁跋扈する四分五裂の様相となります。

    詳しくはこちらをご参照💗

    「ロケット・マン」と「ストロング・マン」の軍閥

    習近平がゾンビ中国経済にトドメを刺す時 

    そして、今から100年前の1919年(大正八年)が、

    ① 欧州大戦が終結した。

    ② レーニン中心の極左・共産主義者が「コミンテルン(第三インターナショナル)」として集結した。

    ③ 支那で「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動が起こった。


    という状況にあったわけですが、大戦中は味方同士であった英米と日本ですが、「① 欧州大戦が終結した」ことで、「国家社会主義」を信仰する「極右勢力」らの主張や活動は、英米にとっては好ましくないものとなり、当初、特に米国キリスト教(プロテスタント)主導で行われた「③ 支那で「五四運動」という排日(≠反日)ナショナリズム運動」へと繋がっていくことになり、他方で、1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)の成功によって、ソ連を中心とした社会主義・共産主義勢力「② レーニン中心の極左・共産主義者が「コミンテルン(第三インターナショナル)」として集結し」、その「コミンテルン」の指揮と支援の下で、ほぼ壊滅状態であった「社会主義」を信仰する「左翼・極左勢力」息を吹き返しこれら「極右」と「極左」どもが、私たちの日本を混乱に貶めてゆくようになります。


    続きは次回に♥




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