2019-06-01 (Sat)

本日のキーワード : 徳田球一、徳田要請問題、シベリア抑留、日本共産党
徳田要請問題(とくだようせいもんだい)とは1950年2月ソビエト連邦のシベリア抑留から帰還した引揚者が、自分たちの帰国が遅れたのは日本共産党書記長であった徳田球一の要請によるものだと主張した事件。
抑留引揚者のグループ「日の丸梯団」は、日本帰国後の1950年2月12日、徳田球一が引揚を妨害したとの主張を行った。その根拠となったのは抑留中、ソ連の政治将校が自分たちに対し「徳田球一がソ連政府に対し共産主義者以外と反動の抑留者は日本に帰国させるなと(書簡で)要請した」という主旨の講話を行ったというものであった。
この件は政府やGHQに告発され、当時レッドパージなど共産主義者や左派の運動に対する当局の弾圧が強まるなか、共産主義者攻撃の格好の材料とされ、政治問題化した。
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、第二次世界大戦の終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜らが、ソビエト連邦(ソ連)によって主にシベリアなどへ労働力として移送隔離され、長期にわたる抑留生活と奴隷的強制労働により多数の人的被害を生じた史実である。ソ連によって戦後に抑留された日本人は約57万5千人に上る。厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万5千人が死亡した。
このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年(平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。
本日の書物 : 『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』 長浜浩明 ワック
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 江藤淳先生が暴いた戦後の闇、日本を占領した米国が行ったことを知っておく必要があります。

対日戦に勝利した米国はインディアンの如く日本人の絶滅を図ったのですが、ポツダム宣言もあり、別のやり方を用いました。それが【“検閲”と“公職追放”】によって【“日本の歴史を消し去る”】ことでした。

米国が立案し、連合国最高司令官司令部(GHQ)が命じ、【間接統治者】として手を下したのが【傀儡日本政府=日本人】だったことを忘れてはなりません。これが米国人だったら状況は変わっていたでしょう。

約7年に及ぶ占領時代は、映画、ニュース、ラジオは勿論、新聞、雑誌、書籍、小説、研究図書、哲学、思想、教育、政治家の演説、雑誌、漫画、俳句、短歌、詩、流行歌詞に至るまで“検閲”が行われ、違反者には【“沖縄での重労働三年”】なる刑罰が待っていました。
電話の盗聴や私信の開封も公然と行われ、【日本政府内には10000人に及ぶ検閲従事者】がおり、米国人に検閲の結果報告を行うため、特に英語の堪能な者には【日本の税金から高給が支払われていました】。この時代、“検閲”を通らないものが国民の目に触れることはありませんでした。

【共産党や社会党などの左翼】、【朝日新聞やNHKなどの護憲派】も、検閲を禁止した現憲法下で「護憲、ゴケン」と叫びながら、【検閲を受け、検閲に加担し、検閲の事実を秘匿し続けた】のです。

それは検閲基準で“検閲の事実を公表することが禁じられていた”からです。この【虚偽体質、奴隷根性】、私が【護憲派を信用しない理由】です。

さらに、【米国とその傀儡・日本政府】は、政界、官界、学界、実業界、言論界などから【20万人を超える人々を“戦争協力者”として追放】しました。この追放は【教育界】にも及び、ポツダム宣言受諾の2ヶ月後、【GHQは四大教育指令を傀儡政府に命じました】。…
講和条約が未締結の時期は継戦中であり、米国は、日本が二度と立ち上がれぬよう【日本人の精神を改変する戦いに着手】しました。【その本丸が歴史教育】でした。

彼らが歴史教育を重視したのは、【歴史を失った民族は滅んだも同然】であり、【戦前の歴史教育を消し去り、新たな歴史を定着させ】て【日本を別の日本人で充たすことを目論んだ】からです。…

そこで米国は、【戦前の価値観を破壊】するため、【戦前の犯罪者や共産主義者を解放】して【権力を与えた】のです。

羽仁五郎
その中に【マルキストの羽仁五郎(はにごろう)】がいました。羽仁は直ちに【猛烈な反日と皇室否定論を発表】し、【GHQ公認の下、反日左翼のボスとして影響力を行使】し始めました。
【日本共産党】(ソ連の下部組織・コミンテルン日本支部として大正11年に誕生)や【左翼】が【皇室廃止を主張】したのは、ロシア皇帝一家を皆殺しにした【ソ連が皇室の廃止を指令したことに倣ったから】です。実は【中国共産党も日本の左翼に活動資金を与え】ており、彼らは【中ソから受け取った潤沢な資金で活動していた】のです。…

☆共産党 志位委員長「新天皇が日本国憲法の精神を尊重し擁護することを期待します」~ネットの反応「天皇に特定の政治的立場を求めてしまうというジョーク 政治利用する気満々」「上から目線で結構な事で御座いますね」

☆共産党「ご近所トラブルで警察へ行ったら『そういうことは共産党に相談すると良いよ』と言われたそうです。困ったときは共産党!」~ネットの反応「警察が公安の調査対象団体を紹介するのですか?!」

☆【国会】維新・足立議員「共産党が『破防法の調査対象はデマだ』とSNSで言っているが?」⇒公安調査庁「共産党は破壊活動防止法の調査対象団体でございます」~ネットの反応「共産党もすぐバレるウソついて騙せるとでも思ってんのかねw」
1947年6月、【GHQ作】の【「日本国憲法」と「教育基本法」の理念、および「階級闘争」を運動方針】とする【日教組】が結成され、【羽仁五郎が代表に就任】できたのは【中ソとGHQの後ろ盾があればこそ】でした。

権力をバックに、彼らは論争を回避し、【戦後利得者】たる【NHKや朝日新聞】などの支援を受けて【反日・自虐史観を宣伝し、国民の洗脳を推し進めた】のです。』

「アメリカいいなり」で生まれた日本共産党
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「科学的な根拠」を基にして、私たち日本の歴史を、「文系の自称・歴史学者」とは違った視点で、矛盾なく自然な形で解説がなされている良書で、自分自身でキチンと国史を理解したいとお考えの方にとって、非常に相応しいガイドとなるお薦めの書物となります。

さて、実際の大東亜戦争での戦闘期間が約3年9カ月であったのに対して、その後のアメリカによる占領期間は7年以上に及びましたが、その占領期の1945年12月から1953年10月まで、日本共産党のトップである中央委員会書記長の座に君臨していたのが徳田球一(とくだきゅういち)でした。

徳田球一(1946年)

☆共産党・志位和夫氏が大阪で演説!その風景がこちら~ネットの反応「見事にジジババばっかり…」「『革命の戦士たちよ!立ち上がれ!』って言っても杖が必要だな」
ここで、日本共産党のHPから閲覧できる「入党のよびかけ」(2018年6月)に記述された内容とともに確認して参りたいと思うのですが、

☆「入党のよびかけ」(カラー冊子)2018年06月 日本共産党HP
その冊子には、『「アメリカ・財界中心」の政治の異常なゆがみを大本からただす党』というタイトルのもと、
日本の政治には、異常なゆがみがある、として、その異常な「アメリカいいなり」の政治を批判しています。

なるほど、その言い分には、いくつか正しい部分もあると思われますが、でも、そもそも、アメリカ占領軍を「解放軍」と呼び、アメリカ占領軍によって刑務所から釈放され、アメリカ占領軍のおかげで戦後の日本共産党の再建(1945年12月)を果たしたのが徳田球一(とくだきゅういち)なのですが、その事実はなかったことにされるのでしょうか?

徳田球一(1950年)
1945年10月1日、府中刑務所に収容されていた徳田球一のもとに、米軍の将校服を身にまとった記者らがやってきて取材し、そのインタビュー記事が出されると、10月4日にアメリカ占領軍は、「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」、いわゆる「人権指令」を発し、内務大臣・特高警察職員ら約4000名の罷免・解雇(→テロリストを取り締まる側をクビにせよ)、政治犯の即時釈放(→テロリストらを釈放せよ)、特高の廃止(→テロリストを取り締まる組織そのものを廃止せよ)などと命じます。これに対して、東久邇宮内閣はこの指令を実行できないとして、翌5日に総辞職しますが、続く、対米追従で有名な幣原内閣において、このアメリカ占領軍の指令を忠実に聞き入れて、共産党員など政治犯約3000人が釈放され(→テロリストが野放しになった)、治安維持法など15の法律・法令を廃止してしまうことになり(→共産主義者や社会主義者のテロリストを取り締まるための法律の廃止)、そのおかげ、つまり「アメリカいいなり」の政治を行った結果、アメリカ占領軍によって戦後の日本共産党の再建が可能となったわけです。
ちなみに、府中刑務所に偽装して取材にやって来た記者の一人が、ロベール・ギランで、

ロベール・ギラン


リヒャルト・ゾルゲ
1941年に発覚した日本最大のスパイ事件「ゾルゲ事件」では、主犯のソ連のスパイでドイツの新聞社の特派員であったリヒャルト・ゾルゲのスパイ活動における助手のユーゴスラビア人の、ブランコ・ド・ヴーケリッチと同じアヴァス通信社にいた人物で、ゾルゲの関係者として事情聴取を受けています。

ブランコ・ド・ヴーケリッチ
お話を続けましょう💗
1946年(昭和21年)に、中華民国から帰国した野坂参三(のさかさんぞう)とともに、徳田球一は日本共産党衆議院議員として当選します。

左から、徳田球一・野坂参三・志賀義雄。(1945年-1946年撮影)
そして、この年(1946年)、共産主義革命のパターンである「2度目の革命」に向けた機運を高めるために、徳田球一率いる日本共産党は、労働者らを扇動します。
「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」
と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、私たちの日本の共産化を目指したわけです。

徳田球一(1952年)
しかし、この頃、アメリカ本国が「共産主義の脅威」にようやく気付き始めたこともあって、やがてアメリカ占領軍の方針が次第に転換されるようになっていきます(例:1948年7月の「政令201号」による公務員の労働権制限=国家・地方公務員のストライキの禁止)。
つまり、「アメリカいいなり」の政治を行った結果、アメリカ占領軍によって戦後の日本共産党の再建された、この上なく日本共産党が愛して止まなかった「解放軍」であるアメリカ占領軍が、ソッポを向くようになった、冷たくされた、要するにフラれたわけで、だから日本共産党はアメリカを激しく罵(ののし)るようになっていくんです(笑)
こういった所が、さすがに日本共産党で、『「共産党はブレない」――よく私たちにこうした評価をいただくことはうれしいことです。』などと、本当は思いっきり「ブレている」にもかかわらず、平気で嘘がつけるのですから。。。


さて、1950年になると、「徳田要請問題」の発覚によって、その後逮捕状が出された日本共産党のトップであった徳田球一は、1950年10月、中華人民共和国に亡命し、「北京機関」を組織します。

本日はここまでとさせて頂きますが、なぜ、徳田球一は中華人民共和国に亡命したのでしょうか?


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