2019-05-28 (Tue)

三国協商のロシアのポスター ロシア(中央)、フランス(左)、イギリス(右)1914年
本日のキーワード : 三国協商
三国協商(さんごくきょうしょう、英語: Triple Entente、フランス語: Triple-Entente、ロシア語: Антанта)は、19世紀末から20世紀初頭においてイギリス・フランス・ロシア帝国の各国の間で締結された、露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作られた三国の協調関係を指した言葉。英仏露協商ともいい、独墺伊同盟と対立し、第一次世界大戦の主要な交戦国となった。
本日の書物 : 『知ってはいけない現代史の正体』 馬渕睦夫 SBクリエイティブ
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 1929年にニューヨークの株式市場が大暴落し、世界恐慌が起こります。…フーバーは1932年の大統領選挙で【フランクリン・ルーズベルト】に敗北します。ルーズベルトは【ニューディール政策】でアメリカ経済の立て直しを図ります。…

フランクリン・ルーズベルト
【ルーズベルト大統領の側近】は、【ウィルソン政権同様】、【社会主義者で固められていました】。

ルーズベルトはキングメーカーである社会主義者にとってたいへん好ましい「国際主義者」でした。

ロシア革命の熱狂的支持者で、オクシデンタル石油の経営者である【ユダヤ人】の【アーマンド・ハマー】は、自伝『ドクター・ハマー』(広瀬隆・訳 ダイヤモンド社)の中でルーズベルトを次のように評しています。

アーマンド・ハマー(1982年)
「 彼はアメリカの政治体制を熱烈に擁護したが、同時に、【アメリカの富】が国民のためばかりでなく、【全世界のために利用されるべき】だと考えていた。そして、アメリカが【全人類の進歩のために欠くことのできない存在】であり、またそうなることが可能だと信じて疑わなかった。これこそ、あの雄弁と機知と魅力、そして思いやりをもって彼が提唱したニューディールの意義であり、推進力だったのである」

「ニューディールとはアメリカが全人類の進歩のために貢献する手段である」とは、つまり、【「ニューディールとはアメリカ人の富を使って社会主義的政策を世界に広めていくという構想である」】ということです。だからこそ、【社会主義者であるユダヤ系アメリカ人】が【ニューディール政策の推進】を担いました。

【ニューディール政策】は、その社会主義的傾向が【アメリカ憲法に違反】しているという理由で最高裁まで争われたことがあります。たとえば、物価調整を目的に生産量を調整する「全国産業復興法」は、企業活動を国家が規制しようとするものであり、憲法に示された経済の自由に違反する、という具合です。
こういった裁判において、【最高裁】の場で【ニューディール政策を支持し続けた】のが、前出の【ブランダイス判事】でした。

ルイス・デンビッツ・ブランダイス
ニューディールの政策立案者の多くはユダヤ系の政治家や弁護士で、そのための人材をリクルートしていたのが【ブランダイス判事】と【甥のフェリックス・フランクファーター・ハーバード大学教授】でした。

フェリックス・フランクファーター
【フランクファーター】は、ルーズベルトの推薦のもとで1939年、【ブランダイスとカルドーソに次ぐ三番目のユダヤ人最高裁判事に任命された人物】です。

ルーズベルトがニューヨーク州知事の時代からアドバイザーを務め、ニューディール政策立法についてさまざまな助言をルーズベルトに行っていました。フランクファーターが助言して成立させたニューディール政策立法をブランダイス最高裁判事が合憲と判断する、という図式です。…

【アメリカの社会主義勢力】は、第二次世界大戦において、【「ソ連の擁護」】と【「中国の共産化」】を計画しました。【その核のひとつ】になったのがニューディール政策の中心人物、【ブランダイスとフランクファーター】だったのです。』

東京書籍の歴史教科書では、歴史が分からなくなる理由
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)から現代に至るまでの、「教科書的に描かれた世界史の通説」に対して、まったく違った見方を提示されている良書で、何が本当で何がウソなのか、私たち日本人一人ひとりが考える切っ掛けとなる書物になります。

さて、昨日に引き続きまして、日本の中学校の歴史教科書として半分ほどのシェアを保持している東京書籍の教科書には、1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)とシベリア出兵(1918年~1922年)をどのように記述しているのかを確認したいと思います。




1917年3月8日、国際女性デー(International Women's Day)の日にロシアの首都で大規模なデモが発生し、やがて兵士の反乱などが起こります。反乱兵の規模は数万人ともいわれ、労働者らとともに内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃し、次々と武器を手に入れていきます。これが、1917年の「ユダヤ革命(Jewish Revolution)」(→教科書の記載では「ロシア革命」)の第一弾、いわゆる「2月革命」(ユリウス暦では2月となるため)です
ちなみに、国際女性デーはマルクス主義者であったドイツ人のクララ・ツェトキンが1904年3月8日のニューヨークでのデモを記念日として国際社会主義者会議で提唱したことから始まったものです。

クララ・ツェトキン(左)とローザ・ルクセンブルク(右) 1910年
ここに、ロシア皇帝ニコライ2世は退位し、ロシア帝国が滅亡し、臨時政府が樹立されます。多数派であったメンシェヴィキのニコライ・チヘイゼが議長、改革派であった社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーが副議長でした。

ニコライ・セミョーノヴィチ・チヘイゼ
そして、1917年4月にアメリカが参戦します。昨日ご紹介させて頂いた本文の一部をもう一度確認しておきましょう。
『 時の大統領【ウィルソン】は【ロシア革命を礼賛】しました。1917年の4月にアメリカはドイツに宣戦布告して第一次世界大戦に参戦しますが、その時ウィルソン大統領は次のような内容のスピーチを行っています。
「 過去数週間にわたって【ロシアで起こっている素晴らしくまた元気づけられる事件】によって、【未来の世界平和に対する我々の願いが保証される】ことになった。ここに、信義を重んずる【同盟にふさわしい相手】がある」 』

ウッドロウ・ウィルソン
さて、1914年以来、スイスで亡命生活をしていたのがウラジーミル・レーニンこと、本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフという男でしたが、

ウラジーミル・レーニン(本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ)
ドイツ政府によって、他のマルクス主義者ら(つまり革命家・テロリスト)と共に、封印列車によってロシアの首都へと送り込まれます。

封印列車
何故かと言いますと、ドイツ政府の要請である、革命後のロシアを三国協商から離脱させるため、でした。

三国同盟と三国協商
で、2月革命に参加すらしていなかったレーニンが、ロシアに戻ってから何をしたのかと言いますと、「ロシア臨時政府の否定」というドイツの目論見通りに活動をします。それが「四月テーゼ」と呼ばれるものです。
(以下は、Wikipediaからの抜粋です)
『 レーニンは亡命地のチューリッヒで二月革命の勃発を知り、3月6日に電報で党の戦術を指示した。「新政府をまったく信頼せず、いっさい支持しない。とくにケレンスキーに疑いをもつ。プロレタリアートの武装が唯一の保障。ペトログラード市議会の選挙の即時施行。他党との接近はいっさい不可。」というものだった。3月7日に書かれた「遠方からの手紙」では、臨時政府を「資本主義的地主とブルジョアジーの階級の代表者」と特徴づけるとともに、労働者代表ソヴィエトを「プロレタリアートと都市および農村住民の貧困層全体との利益を表現する主要な、非公式の、未発展の、比較的に弱い労働者政府」として評価した。しかし、これらの電報や手紙はカーメネフ、スターリンの路線を変えるには至らなかった。

ボリシェヴィキは3月27日から4月2日にかけて党活動家会議を開いた。3月28日に採択された決議「戦争について」は、「ツァーリズムと帝国主義ブルジョアジーの全外交政策の完全放棄、国際秘密条約の破棄、プロレタリアートと革命的民主主義への実際の権力の移行だけが、ロシアの戦争の帝国主義的性格を変化させる」としつつ、「それまでは、軍隊の瓦解を拒否し、反革命に対する砦としてその力を保持することを必要と認め、すべての兵士と労働者にその地位にとどまり秩序を維持することを求める」とした。臨時政府に対する態度についてはスターリンが主報告者となり、臨時政府とソヴィエトについて「労働者・兵士代表ソヴィエトは、蜂起せる人民の革命的指導者であり、臨時政府を統制する機関である。一方、臨時政府は、事実上革命的人民の獲得物を強固にする役割を果たした」と特徴づけた上で、「臨時政府が革命的歩みを強化するかぎり、そのかぎりにおいてわれわれはそれを支持しなければならない」とした。討議のなかで批判を受け「臨時政府に対する支持を語ることは論理的ではない」と軌道修正し、3月31日に採択された決議「臨時政府に対する態度について」は「支持」という文言を含まないものになった。ところが4月1日の全ロシア・ソヴィエト協議会では、ボリシェヴィキは臨時政府を条件付きで支持する執行委員会の案に賛成した。
レーニンは4月3日に帰国し、翌日の集会(ボリシェヴィキの集会、および、労働者・兵士代表ソヴィエト全ロシア協議会の代議員中のボリシェヴィキとメンシェヴィキとの合同集会)で10ヶ条のテーゼを発表した。四月テーゼと呼ばれる。このテーゼは4月7日付の党機関紙『プラウダ』に掲載された論文「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」において解説付きで掲載された。』
レーニンの思惑とは異なって、当初ボルシェビキの方針、特にスターリンの主張が異なっている点に注意が必要です。
また、「全外交政策の完全放棄」、「国際秘密条約の破棄」という方針が党活動家会議で決議されてもいますが、これも非常に重要な点になります。

で、その四月テーゼの内容が次のようなものになります。
1 : 「革命的祖国防衛主義」の名の下に帝国主義戦争を続けることに反対する。(ドイツら対三国同盟戦争に反対表明)
2 : 現在はプロレタリアートが権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階からプロレタリアートと貧農の手に権力を渡す第二の段階への過渡。(本当の革命である2段階目の革命を示唆)
3 : 臨時政府をいっさい支持しない。(2段階目の革命を経ていない仮の政府であると規定)
4 : 全国家権力を労働者代表ソヴィエトに移す必要を宣伝する。(中央集権の独裁体制の構築の必要性の喧伝)
5 : 議会制共和国ではなく、労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。(議会制民主主義の否定)
6 : 土地を国有化し、土地の処理を地区の雇農・農民代表ソヴィエトにゆだねる。(統制経済への転換を主張)
7 : 全銀行の統合と労働者代表ソヴィエトによる統制を実施する。(統制経済への転換を主張)
8 : 社会的生産と生産物の分配にたいする労働者代表ソヴィエトによる統制。(統制経済への転換を主張)
9 : 党大会の召集、党綱領の改訂、党名の共産党への変更。(共産党の誕生)
10 : 社会排外主義と「中央派」に反対する新しいインターナショナルの創設(第3インターナショナル、つまり「コミンテルン」の新設の提言)。

七月蜂起におけるネフスキー大通りでのデモ
1917年7月16日、ロシアの首都でボリシェヴィキによる扇動の成果もあって、兵士や工場労働者たちがロシア臨時政府に対して蜂起、武装デモのち交戦という一大事件が発生します。これが、いわゆる「七月蜂起」です。
実は、このときも、レーニンは国外にいたのですが、発生の翌日に慌てて戻ってきます(笑)
で、ロシア臨時政府が、「レーニンはドイツのスパイである」とする発表を行ったため、レーニンはまたもや逃亡をするんです💗
「七月蜂起」に失敗したあとのレーニンは、平和的な手段によって権力を奪取するのではなく、「武装蜂起」、つまり「暴力革命」によって臨時政府から政権を奪取することをますます志向するようになります。

1917年7月17日のペトログラード・ネフスキー大通りでの騒乱の様子
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆ウラジーミル・レーニンは、ドイツのスパイである

1917年11月7日、再び首都で「10月革命」という名の武装蜂起が、「暴力による革命」を主張してきたボリシェビキ主導の下に勃発し、臨時政府メンバーは逮捕され、ボリシェヴィキ主導のソビエト(労働者・農民・兵士の評議会)へと権力が集中されるようになりますが、ロシア国内は内戦状態へと陥ることになります。
実はその少し前、1917年10月27日に、憲法制定議会の選挙の実施が決められていて、その選挙(11月)の結果、社会革命党が得票率40%で410議席を得て第一党となり、一方のボリシェヴィキは得票率24%で175議席にとどまりました。
この結果を受けて、レーニンは12月26日に「憲法制定議会についてのテーゼ」を発表、「憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現している」として、「憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求」しましたが、第一党である社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、暴力による革命であった「10月革命を否定」する姿勢を示します。
1918年1月5日、第一党である社会革命党が主導する形で憲法制定議会が開かれますが、ボリシェヴィキの提出した決議案が否決されると、翌日、人民委員会議は憲法制定議会を強制的に解散させ、1月10日にロシア社会主義連邦ソビエト共和国の成立が宣言され、ここに、世界初の共産主義国家が誕生します。
で、ここまでのお話を、東京書籍の歴史教科書は次のように記述しているのですが、


臨時政府の下で安定を許さなかったのが、ドイツに送り込まれたレーニンであるにもかかわらず、また、その暴力性についても触れることなく、レーニンが上手くまとめた、みたいな解説をしているのですが、デタラメであるということがご理解頂けましたでしょうか?

続きは次回に♥
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