2019-05-08 (Wed)

鹿を仕留める源経基を描いた『貞観殿月』(月岡芳年「月百姿」)
本日のキーワード : 遊牧民、狩猟民
遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。
本日の書物 : 『満洲国から見た近現代史の真実』 宮脇淳子 徳間書店
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 かつての【満洲国の西3分の1】は、【清朝】時代には、【外藩あるいは藩部と呼ばれたモンゴル草原】でした。

☆【講演会資料】「20世紀のモンゴル民族運動と日本」 講師 宮脇淳子
【満洲平野】と【モンゴル草原】を分けているのは【大興安嶺(だいこうあんれい)山脈】で、山脈の東のすそ野までが【モンゴル草原】つまり【モンゴリア】です。モンゴル草原と呼ばずにモンゴル高原と言うこともあるのは、標高が高くなることと、草原だけではなく砂漠も山地も含むからです。

清の最大領域(1820年)。金色の部分は旧明領で漢民族居住地である省と直隷、黄色の部分は旗地(つまり満洲)とモンゴル・東トルキスタン・チベット等の同君連合地域。
大興安嶺山脈は、南北800キロメートル、東西200~300キロメートルあり、平均標高は、1000~1400メートルです。大興安嶺山脈を西に越えたところにあるモンゴル国の平均標高は1580メートルです。
つまり、大興安嶺山脈の東斜面は、いちおう山らしく傾斜がありますが、【山脈を越えると、その西方は、山脈の頂上とあまり変わらない標高の高原が広がっている】のです。

【満洲】と【モンゴル】を分けるのは、【年間降水量の差】です。【満洲平野の年間降水量】は【平均500~600ミリ】です。これに対して、【モンゴル高原】は、【年間降水量が100~300ミリ程度】しかありません。モンゴル国の首都ウランバートルの平均気温は、7月17度、1月マイナス26度で、年間降水量233ミリです。満洲平野もモンゴル高原も、降水量はほとんど夏の季節風によるもので、満洲では、6、7、8月の3カ月間に年間降水量の60%が降ります。モンゴルも年間降水量の大部分は夏に降り、冬は寒いですが雪はほとんど降りません。
降水量100~300ミリなど、日本なら台風が来れば一晩で降る量です。【1年間でこれだけしか雨量のないモンゴル高原では、木々が育成しません】。だから、【家畜が草を食べ尽くす前に移動する遊牧生活をすることになった】のです。

一方、年間降水量が500ミリを越える【満洲平野では、灌木(かんぼく)が育ち、粗放農業もできました】。大きな樹ではなくて灌木でも、あちらこちらに茂っていれば、危ないので【羊やヤギや馬を放牧することはできません】。だから【満洲平野では、狩猟民が歩いて毛皮獣を獲り、淡水産真珠や朝鮮人参やきくらげを採集する生活】をしました。むかしから粗放農業もおこなわれてきました。だから【満洲人は狩猟民で、モンゴル人は遊牧民と呼ばれる】のです。』

東アジアに災いをもたらした「ドイツ人」
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「非漢人」、「漢人とは別の異民族」である「満洲人」「モンゴル人」「ウイグル人」「チベット人」などの、延(ひ)いては「支那」の正しい歴史を知るために、「満洲国」というものをキチンと理解するために書かれた良書で、学校の歴史教科書に「書かれていない」、正しい歴史が自ずと理解できるようになり、そうして初めて、アジアの歴史を正しく理解できるようになるお薦めの書物になります。

さて、満洲語をローマ字表記することを「メレンドルフ転写」と言いますが、考案者であるドイツの言語学者・外交官のパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフに因(ちな)んでいます。

パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ
メレンドルフは1869年に支那へと渡り、税関で働きながら言葉を覚え、やがて天津の領事館で通訳として働くようになります。
で、この頃、清の属国に過ぎなかった朝鮮人(コリアンズ)の国では、閔妃(びんひ)と大院君(だいいんくん)が民を顧みず、ただひたすらに権力闘争を繰り広げているという有様だったのですが、
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「Koreans(コリアンズ)」が生まれたのは、わずか700年ほど前のことです

1882年に、日本の協力のもとで軍の近代化を推し進め(「別技軍」の新設)、日本人教官を招致して教練を開始した閔妃政権に対して、大院君側は既存の軍を煽りに煽って、日本公使館などを襲撃させます。これが「壬午事変(じんごじへん)」で、阿呆な朝鮮人(コリアンズ)によって、数多くの尊く若い日本人が虐殺されました。

朝鮮反乱軍に襲撃される花房義質公使一行(楊洲周延の錦絵)
この事件のあと、メレンドルフは朝鮮へと渡り、外務協弁(外務次官)に任じられますが、「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に助言したり、朝鮮半島に対する支那と日本の影響を均衡させるために、朝鮮がロシア帝国と同盟を組むことを唱えたりと、随分と余計なことをやらかしています。ただし、朝鮮の独立を主張したため、宗主国である清の李鴻章(りこうしょう)が、朝鮮政府にメレンドルフの罷免を命じ、1885年にクビになります。
このメレンドルフは、当初は天津の領事館で働いていたわけですが、1875年に、北京公使として、マックス・フォン・ブラントというドイツの外交官が赴任すると、その権限の問題もあり領事館を去ることになりました。

マックス・フォン・ブラント
で、この男、マックス・フォン・ブラントこそが、東アジアに災いをもたらす要因の一つである「黄禍論(おうかろん/こうかろん)」の提唱者であると言われています。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「朝鮮問題」なんてものは、本当に最後の最後、後回しなんです

1860年に、ロシアと清朝の間で北京条約が結ばれていますが、この時、沿海州と呼ばれる満洲の東部地域がロシアに割譲されます。

右側の薄い赤が外満洲:条約でロシア領と確定した部分
1871年に、ロシアは沿海州の南端である、「東方を支配する町」の意味であるウラジヴォストークに海軍基地の建設を始めます。

ウラジヴォストーク
すると、大量の漢人が華北や山東省から満洲へと流入するようになり、満洲の人口と農業生産高が急増していくようになります。
1891年2月、ロシアはシベリア鉄道の建設を正式に決定し、同年3月、ツァーリー(皇帝)のアレクサンドル3世は次の勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコライに与えました。
「 私は今日シベリア全土を貫通する鉄道敷設の詔勅を発し、天産富饒のこの地をロシアの線路に連絡させる。よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベリアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオストクに布設するところに臨行せよ。この線路は国庫の財をもって布設し、その監督もまた官の任じるものであり、まさに国家事業である。汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望切なるを世に知らしめるためである」

広義のシベリア鉄道の路線(赤)と、バイカル・アムール鉄道(バム鉄道、緑)
これが、私たちの日本にとって、地政学的にどれほどの脅威であるのかは、容易にご理解頂けると思います。ましてや、相手は当時、世界最強の大英帝国と張り合っていた大国ロシア帝国です。
そのような状況の中で、阿呆な朝鮮人(コリアンズ)は、周囲の状況が理解できないために、国内で農民反乱を起こします(笑)
当時の様子は、次の書物に詳しく書かれています。

『 朝鮮南部の反乱は首都の不安をかきたてていた。…スケールは小さいものの、このような動きは朝鮮半島では毎年春になると見られる…地方で官僚による搾取に怒った農民が蜂起し、…暴力を用いて…役人を追い払ってしまうのである。処罰はめったに行われない。国王は別の官僚を送り、新たなその役人はまた農民から搾取し、搾取が我慢の限界を越えると実力行使で追い払われ、…振り出しに戻る。…東学党の乱は…ソウルその他の都市部においても…広範に組織された…運動だった。…極めて正当な目標を掲げ…檄文は国王への忠誠を敬語を用いてあらわし、ついで苦情を…穏健な言葉で述べ…次のことを…主張している。
朝鮮の官僚は私利私欲のために、民衆を苦しめている悪事について…国王の耳に入れていないこと。…国の繁栄に…無関心で…私腹を肥やす…彼等の収奪行為を取り締まるすべは…ないこと。科挙試験は贈収賄、取り引き、売買の場以外の何物でもなく、文官としての適性をみる試験ではもはやないこと。官僚たちは…国の負債には我関せずであること。彼等は「傲慢で、虚栄心が強く、姦通にふけり、貪欲である」こと。…「平和時には媚びへつらい、有事の際には逃げ出して任務に背く」こと。』
『 国王が東学党鎮圧のため数百人の兵士を送り、その指揮官が300名の人員を徴兵して武装させた。ところが交戦中にその300名が…寝返り、政府軍兵士300名が殺された。そしてその指揮官は行方不明だという…。6月17日に汽船で元山を発ち、19日に釜山に到着したが、釜山港には日本の砲艦が停泊しており…220人の日本の兵士が上陸…東学党が釜山・ソウル間の電信線を切断…。21日の早朝に済物浦(チェムルポ)に到着すると…日本の軍艦6隻、合衆国の旗艦、フランスと清の軍艦が各2隻、ロシアが1隻という大艦隊が外港に待機…。(日本軍)6000人の軍隊が3ヶ月の駐屯予定で上陸…日本が何年も前から…計画し…朝鮮の正確な地図をつくり、飼料や食糧についての報告書を作成し、河川の幅や浅瀬の深さを計り、3ヶ月分の米を朝鮮で備蓄していた…その一方で、変装した日本人将校がチベットとの国境にまでも足を運んで清国の強みと弱みを調べあげ、公称兵力と正味兵力、ダミーの銃器、旧式で鋳ぞこないの多いカロネード砲について報告していた…彼等は清国各地方からどれだけの兵士を戦場に動員できるか…を清国人以上に知っていた。また、腐敗と不正がはびこり、そこに愛国心の欠落が結びついて、兵站部など書類上でしか存在しないも同然の状態になり果てている清国が、戦闘を維持するのはおろか、まともな軍隊を戦場に送り込むことすらとうてい不可能であることを知っていた。
どう見ても日本は(当時清の属国であった)朝鮮において完璧に清の裏をかき、清国人のあいだにはパニックが広がった。…私が済物浦に到着した日には、800人の清国人がこの港を発った。…私の清国人従僕ですら気が転倒し、「殺さなきゃ、殺さなき!」と押し殺した声でつぶやいていた。』


こうして、1894年(明治27年)7月25日に日清戦争が勃発することになります。そのわずか十日ほど前に結ばれた「日英通商航海条約」(1894年7月16日)の意味するところは、ここまでの流れをご理解頂ければ容易に想像がつくと思います。
詳しくはこちらをご参照💗
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☆自国語で書いた論文が世界で通用するのは、「日本だけ」なんです

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