2019-05-06 (Mon)

百済時代のオンドル遺跡
本日のキーワード : オンドル
オンドル(朝: 온돌)または温突(おんとつ)は、朝鮮半島で普及している床下暖房である。クドゥル(구들)ともいう。朝鮮式の漢語では「突火煖寢」もしくは「堗厝火」とも。
本日の書物 : 『満洲国から見た近現代史の真実』 宮脇淳子 徳間書店
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 ヨーロッパ人は、【清朝】という国家体制がヨーロッパですでに普遍的なものになっていた【国民国家とはほど遠い】ことを理解せず、【中華民国への移行】が【同じ国家内で起こったことだと考えました】。

つまり【シナ史の本当の姿がわかっていなかった】のです。残念ながら、【いまの日本人も似たようなもの】です。モンゴル史や満洲史を専門とする私の使命は、このことを日本人に理解してもらうことだと考えています。

山室信一著『キメラ――満洲国の肖像』(中公新書)は、満洲国に関して日本でもっとも権威がある本だと思いますが、【たくさんの問題点もある】ことはご存じの方も多いでしょう。

【一番の問題】は、【現代中国の言い分をそのまま引用していること】です。…

山室信一

私は今回、『20世紀満洲歴史事典』(吉川弘文館)の全項目を読んで、【満洲国になる前から戦後まで】の【漢人の動向】を調べました。

満洲で暮らしていた【漢人が本当にひどい目に遭ったのは】、じつは【日本の敗戦後】の【国共内戦時、解放区における共産党の大衆運動だった】ということがわかりました。【中国の史料】によってさえ、【そういうことが明らか】なのです。

山室氏は「満洲国の指称については、それが元来そこに生活していた人々から承認されたものではなかった、つまり正当性を欠く国家であったこと、また、【中国では満洲国があった地域は当時『東三省』『東北』と呼ばれており、満洲とは日本での呼称であった】(16頁)」、とも述べていますが、【『東三省』の呼称は20世紀の日露戦争後に始まった】のであって、【満洲という地域名は、それより前から】日本だけでなく【世界的な呼称であった】こと、また「そこに生活していた人々」にも【さまざまな出自のさまざまな民族がいた】こと等々が、【山室氏の視点からは抜け落ちています】。

『キメラ』 ギュスターヴ・モロー

書名の【キメラ】は、頭が獅子、胴が羊、尾が龍というギリシア神話の怪物のことです。獅子は関東軍、羊は天皇制国家、龍は中国皇帝および近代中国を想定しているのだそうですが、そもそも、【満洲国がたった13年しか続かなかったと非難する】のは、【歴史家ではなく法制史家だから】ではないかと思うのです。

日清戦争から数えて50年、日本人が現地に進出した日露戦争からでも40年におよぶわけですし、日本敗戦後の【国共内戦と、中華人民共和国への継承までを述べなくては、満洲国の歴史にはなりません】。

近代史は【語り方によってはいくらでも悪者を作り出すことができます】が、私が別の本でこれまで書いてきたように、【善悪は歴史の名に値しません】。【歴史は法廷ではない】のです。

以前にも書いたことがありますが、同書のなかで非常に印象に残っているエピソードを一つ挙げて、【どのようなことが問題かという実例】としたいと思います。
チチハル憲兵隊の憲兵の日本人が龍江省を1944年の真冬に訪れたときの見聞として、
「この付近には、もう【着物も布団もない家】がある。なかには【丸裸で生活している子供】もいる」
との【中国人老農】の声を聞き、
「北満でも屈指の穀倉地帯の一角、真冬に着る物もない生活をしているはずがないと訝(いぶか)った」
が、
「実際に丸裸の子供二人を見て愕然(がくぜん)とする」(288頁)
という話が挙がっています。
「零下30度にも40度にもなる酷寒の地で、丸裸同然の生活を送ることが、いかなる意味で、(中略)安居楽業の境地にあることになるのであろうか」(289頁)
と書かれていますが、後述するように、【満洲の家屋でオンドルのない家はなかったのです】。

オンドル・システムの図(台所の竈の煙を居室の床下に導き、部屋を暖める)

オンドル・システムの煙突
【丸裸でも生活できるくらい、家のなかが暖かかったということが、どうしてわからなかったのでしょうか】。』

清朝滅亡後の支那の状況
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、「非漢人」、「漢人とは別の異民族」である「満洲人」「モンゴル人」「ウイグル人」「チベット人」などの、延(ひ)いては「支那」の正しい歴史を知るために、「満洲国」というものをキチンと理解するために書かれた良書で、学校の歴史教科書に「書かれていない」、正しい歴史が自ずと理解できるようになり、そうして初めて、アジアの歴史を正しく理解できるようになるお薦めの書物になります。

さて、冒頭に紹介されていた「山室信一」(やまむろしんいち)なる御仁ですが、東京大学法学部を卒業しただけ、単なる「学部卒」に過ぎないのですが、何故か専門外の歴史を語っているようで、歴史よりも、むしろ、こちら(↓)が本職としての著作物であり、「ああ、なるほど!やっぱりw」と多くの方が思われる通りの自称・学者になります。


それはさておき、本文中に書かれていましたように、この山室信一なる御仁は、現代の朝鮮半島においても見られる「オンドル文化」をご存じない模様で、「朝鮮人(コリアンズ)」に対して、まったく失礼極まりない人物であると言えます。

☆韓国のオンドル文化
このオンドル・システム、つまり床暖房の起源は古く、現在の北朝鮮の羅先特別市(ラソンとくべつし)の遺跡から発掘されていて、紀元前5000年頃のものとされています。

羅先特別市
そのオンドル・システムが朝鮮半島全土に広がったのが、高麗(こうらい/918年~1392年)の後期と考えられていて、支那や朝鮮半島をモンゴル人が支配した時代になります。


1294年の元の版図
以前にも書かせて頂いておりますので、ここでは簡潔に止めますが、上の地図にある「遼陽行省(りょうようこうしょう)」(オレンジ色の円の地域)は、満洲や現代の北朝鮮を含む地域で、モンゴルの直轄領でした。また、済州島(さいしゅうとう)もモンゴルの直轄領(黄色の円の部分)で、高麗の領土は現在の韓国の領土に近い地域に限られていました(水色の円の地域)。
そして、このモンゴル人の支配下に置いて、現代に至る朝鮮人(コリアンズ)文化が生まれます。オンドル・システムもその一つです。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「Koreans(コリアンズ)」が生まれたのは、わずか700年ほど前のことです

ちなみに、さきほどの羅先特別市(ラソンとくべつし)は、かつて私たちの日本が統治していた時代には、羅津(らしん)と呼ばれる漁村地域と雄基(ゆうき)と呼ばれる国境守備隊の駐屯地の2つの地域がありましたが、1945年8月8日にソ連軍が空襲を行い、12日には上陸をしますが、北朝鮮の「正史www」では、それがなんと、ソ連軍ではなく、朝鮮のネズミ小僧である金日成率いる朝鮮人民革命軍が上陸したことになっているそうです。

詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆朝鮮のネズミ小僧と「自由朝鮮(Free Joseon)」

さて、昨日の続きになりますが、1911年に、支那で「辛亥革命」が勃発し、1912年に、南京において、「中華民国(現在の台湾)」が建国され、満洲人が支配した清朝は滅亡します。
ここで、本文冒頭にあった、次の部分が重要ですので、もう一度確認しておきますと、
「 ヨーロッパ人は、【清朝】という国家体制がヨーロッパですでに普遍的なものになっていた【国民国家とはほど遠い】ことを理解せず、【中華民国への移行】が【同じ国家内で起こったことだと考えました】。」
つまり、清朝滅亡後の支那では、各地で軍閥と呼ばれる「暴力団」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになり、それが、様々な事態を引き起こします。
そこで、昨日と同様に次の書物を参考にしてみたいと思います。

『 長野朗(ながのあきら)…戦前を代表する秀れたシナ通、中国通で…GHQに焚書された本は18冊もあり…没収された本の多い著者としては3番目にランクされる人物です。…1975年までご存命でしたから、戦後も中国共産党に関する本を出しておられます。…洞察力も鋭いし、シナという国に愛情を持ちつつも知的に冷徹にこの民族の本性を見抜いています。しかも、扱う事象の幅が広い。』

『 支那は農業國であるから、農民の生活が窮乏して来ると乱れ、安定すると治まる。そこで支那では昔から、農民が村に安定すると治まり、離村すると乱れるといった。
農民の生活の安全を乱す種子は二つあった。一つは土地の兼併(けんぺい、独占)である。支那には普通の地主には大きいのは無いが、軍閥官僚地主には大きいのがある。殊に南方の方が甚だしい。支那には以前には土地の外(ほか)、殆ど投資物がなかったから、在官中に稼ぎ貯めたのは主として土地に投資した。広西派の首領陸栄廷(りくえいてい)も、隠退してからは上海付近に良田を買って納まってゐる。』

陸栄廷
広西派というのは南方軍閥の一つで、チワン族である陸栄廷(りくえいてい)が率いたのを旧広西派と呼び、隣接する湖南省と広東省を支配していました。

広西省の位置

広西チワン族自治区(広西壮族自治区)
『 湖南で共産党が土地革命をやって大地主の土地を没収した所が、多くは湖南軍閥に関係があり、本人か親戚のものであったから、当時北伐中の軍閥の連中が怒って兵を返し、共産党討伐を始め、武漢政府から共産党が追ひ出される因をなした。殊に軍閥官僚地主は多く不在地主(その地に住んでいないし畑も耕さない)で、管理者を置いてあるが、これが叉悪いことをして中間搾取をやり、規定の小作料の外にいろいろと取り立てる。それも官憲軍隊と結んでゐるので、小作料も官憲の力を借りて取り立てるし、払わないと白紙の拘留状(白紙の逮捕状)を持ってゐて、それに名を書き入れて拘留所に送るのがあるし、権力で隣接の土地を取り上げたりするので、人民は非常に苦しんだ。』

湖南省の位置

武漢の位置
『 (もう一つは)官吏の誅求(ちゅうきゅう/厳しく搾り取る)である。朝廷の初めには税金も軽く、綱紀も張ってゐるから、官吏も細く長く儲けてゐるが、末期になれば財政が苦しくなり、重税を課すやうになると、酷吏(こくり、無慈悲に取り立てる役人)が現はれ、之に便乗してうんと私腹を肥やす。それな綱紀は緩むし、官吏の地位も不安定になるから太く短く稼ぐやうになり、誅求の度が進んで来る。誅求は正税は中々増さないで、付加税、雑税で儲けるから、付加税が正税の二、三十倍にもなり、雑税の数が増え、北京政府の末期には種々の苛税が飛び出し、税目の数は七千を算すといはれ、中には家賃税等といふのがあり、官憲が家主に代わって家賃を取り立て、その大分は自分で取ってしまう。自分の家に住んでゐる者も、借家にしたら幾何(いくら)と評価され、年に家賃何ヶ月分かを取られる。かうなると人民の中に食へない者が出て来て、村から流れ出すことになる。それは土匪になるか乞食になる…』
『(大正)十四年の北伐開始前には、全國で二百二三十万(軍閥の軍人数)を算し、大正八年の約三倍となったから、軍費も収入の一倍半位になり、ここに軍閥の悪辣なる誅求が始まった。その手段の主なるものを左に紹介して見やう。第一は租税である。軍閥が政府の税金を抑へ、勝手に流用したことは述べたが、各地でも中々そんなことで間に合わず(政府から税金を横取りする程度では軍事費をまかなえず)、軍隊が自分で直接徴税するやうになった。各省の税局長も多くは軍人となり、同じものにいろいろの名目で幾重にも税をかけるし、各方面で税局を設けるから、税局林立(税務署が次々とつくられた)といふ有様である。殊に簡単なのは通過税であるから、厘金局(りきんきょく、関税等を徴収する役所)が道路や河の沿岸には五里か十里位にあって、一々税金を取られるので、累計して見ると大したものである。広東で或る商人が舟で広東市に荷物を出すのに何十回か課税され、税金が品物よりも高くなったといふことである…税金も普通に取ってゐたのでは間に合はないから、四川の如きは地租を一年に二年分三年分と取るので、二十年、三十年先の税金を前取するやうになった。酷いのは四十年も六十年も先のを取ったものである。』
『 しかし税金だけでは間に合わないので、公債を発行して富豪を搾り始めた。公債といってもどうせ返す心配はない(満期に元金が返済もされない!)ので、一種の寄附金見たやうなものであった。支那人はかうしたものは中々引受けない。引受けるにしても成るだけ少なく引受ける。しかし愈々(いよいよ)引受けたとなると、その公債が如何に値下がりしやうが、只にならうが平気である。引受けた時には既に諦めてゐる。これが支那人の気質である。公債といっても売出すのではなく、富豪の財産を調べ上げ、お前の内は動産幾何(いくら)、不動産幾何だから、これだけ買へよと来る。強制寄附金である。天津の支那町の停車場から租界(外人街)に行く道筋には、、家賃が月に千圓位の家が空になり、そこに兵隊が住んでゐた。それは住んで居れば何万とか何十万とか公債の名で取られるので、家賃所でなく、租界に逃げ込んだ跡に兵隊が入り込んだのであった。政府も公債に対しては巧いことをやる。無担保公債の如きは額面の一割位になった。するとそれを市価で買ひ上げて整理すれば、発行高の一割で償却が出来ることになる。叉税金でなくて、軍用金を申付けることがある。県知事に対しお前の県は五万元出せとか三万元出せとか言ひ付ける。県知事は金の調達に困り、中には人民から無理に取るのを苦にして自殺したのもある。県知事が駄目だと、それを免職し、ゴロツキを連れて来て県知事にして金を調達させる。支那兵は戦争に敗けて逃げる時でも、逃げがけの駄賃は忘れない。金の有りさうな町に来ると、そこに据(すわ)り込み、如何にもそこで戦争しさうな恰好(戦うふりをする)をする。町の方ではやられては堪らぬので、何とか逃げてくれないかといふことになる。それなら何万元出せといふので金を取る。かうして逃げながら方々で軍資金を稼いで行く。』
と、このように清朝滅亡後の支那においては、まるで、それぞれの省が独立国家のように振る舞い、まさに、後漢滅亡前後から三国志の時代に至る状況とそっくりな内戦状態になるわけです。
下図は、辛亥革命(1911年~1912年)から13年後の支那の様子を簡略に示すものですが、この状態になるまでにも、様々な変遷があるのですが、如何に混沌としていたのかが、御理解頂けるのではないでしょうか?

1925年の支那軍閥
そして、ヨーロッパ人は、清朝が中華民国へと同一の国家内でスムーズに移行が行われた、と勘違いしていたわけです。
で、このような状況にある支那において、ソ連・コミンテルンや英米ユダヤ・キリスト勢力が、その混乱に拍車をかけることになり、東アジアの平和と安定に努力する「大日本帝国」と対峙していくようになります。
続きは次回に♥
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