2019-04-29 (Mon)

☆神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 移民および植民(1-141) 大阪毎日新聞 1913.4.25 (大正2)
本日のキーワード : 間島、満洲
間島(かんとう)は、豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地を指す。主に現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉。豆満江を挟んで、北朝鮮と向かい合う。墾島ともいった。
本日の書物 : 『残念すぎる 朝鮮1300年史』 宮脇淳子、倉山満 祥伝社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『宮脇 : 【ソ連に誕生したコミンテルン】は、1925年から28年まで、【朝鮮国内における共産党の組織化】に力を注いできましたが、

力尽きて、朝鮮国内における運動を諦(あきら)め、1930年、【朝鮮共産党を中国共産党満洲省執行委員会の指導下に組み入れ】ました。こうして【満洲の中の間島(かんとう)】が【朝鮮人の共産主義民族運動の場】となっていきます。

吉林省(オレンジ)の延辺朝鮮族自治州(赤)
1930年5月、【中国共産党の指導の下】、間島の【朝鮮独立運動派】が貧農層を組織して【武装蜂起】します。

「打倒一切地主、打倒日本帝国主義」をスローガンに掲げたこの【「間島暴動」(かんとうぼうどう)】は、張学良支配下の東北官憲によって徹底的に弾圧されました。本質的に地主・官僚・軍人政権である張学良(ちょうがくりょう)の東北政権は、共産主義と入り混じったこの朝鮮人民族団体を、むしろ日本帝国主義の手先と考え、弾圧の対象を政治団体から一般の朝鮮人にまで拡大しました。

張学良
すでに1928年から30年、農業に従事する【在満朝鮮人】と【中国人】の【対立紛争】は百件を数え、1931年2月、国民党会議は朝鮮人の満蒙(まんもう/満洲とモンゴル)移住厳禁を決議し、「鮮人駆逐令」によって朝鮮人を満洲から追放にかかりました。張学良は朝鮮人が嫌いで、【朝鮮人は「俺たちは日本人だ」と言う】けれども、【「あれは朝鮮人だから出ていけ」だった】んです。【「日本はまだ文化が高いかも知らんが、朝鮮人は大嫌いだ」と】。

倉山 : 張作霖(ちょうさくりん)、張学良としては、日本はまだ手強いけど、朝鮮人だったらいじめていいだろうと。それで、実際に日本の外交官が、「別に朝鮮人だったらいじめていいよ」といったようなことを平気でやるわけですよ。【外交官】は【朝鮮人のことを我が国民だと思っていない】。【関東軍】は【同じ国民だと思っている】。この【温度差が激しい】。

宮脇 : 【張学良の運動】は、「二十一カ条要求無効」の【ナショナリズムの運動】ですよね。日本人や朝鮮人に土地を貸したり家を貸したりした奴は売国奴だから、全部それはチャラにするとか取り上げるとか言ったのですが、(懲弁国賊条例(ちょうべんこくぞくじょうれい))、【実際に取り上げられたのはほとんど朝鮮人】でした。
【日本人】は、その頃は満鉄社員とか領事館員とか、さらには、そういう日本人を相手にしている商売人ぐらいしかいないので、【みんな日本の金で暮らしていました】から、【現地の土地を借りたり、現地で商売をしたり、現地の人を相手にして農民になっているのは、60万人の朝鮮系の人たちがほとんど】でした。そして、【行き場を失った朝鮮人農民】が長春(ちょうしゅん)の西北20キロの【万宝山(まんほうざん)】に【入植】しました。
ところが、吉林省政府の警官隊は朝鮮人農民の退去をくり返し求め、1931年7月にはついに【中国人農民が大挙して彼らを襲撃】します。これを【「万宝山事件」】と言います。【日本】は、【日本国籍を持つ朝鮮人保護】を名目として武装警官隊を送り、この【紛争】を【武力で抑え込みます】。さらにそれを【韓国の新聞】が【中国の不法行為として大々的に報道】したため、今度は【朝鮮各地で「排漢運動」が起こりました】。とくに、平壌では数千人の朝鮮人群衆が中国人街を襲い、国際連盟が派遣したリットン調査団の報告書によると、127人の中国人が殺されています。【この事件】が2カ月後に起こった【「満洲事変」の直接の引き金】です。』

「満洲」での「コミンテルン」の活躍
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、現在、その活躍が最も期待されている『昭和12年学会』の主要メンバーである著者ら(→昭和12年学会HP)によって、対談形式で解き明かされる「朝鮮史」について書かれた書物で、学校の教科書には「書かれていない史実」や、日本史学界の唱える通説(=珍説)の誤りを分かりやすく丁寧に解説して下さっている良書となります。笑いながら読めちゃう書物になりますが、その中身は非常に内容が濃いものとなっておりますので、ぜひ、皆さまも御一読されてみて下さい。

さて、まずは昨日のところで書かせて頂きました、「メキシコ共産党」と「アメリカ共産党」の結成に関与していた日本人の「片山潜(かたやません)」との関係を整理しておきますと、下図のようになるのですが、

昨日の本文のところにも書かれておりましたように、「世界で最初にできたのがメキシコ共産党」で、その「メキシコ共産党がアメリカ共産党をつくった」あと、「アメリカ共産党はレーニンに資金援助」をするのですが、「メキシコやアメリカでは革命が成功しなかった」ので、「1917年にレーニンがドイツへ送り込まれた時」に、「そこに一点集中した」、というのが大きな流れとして捉えておかなければならない史実になります。もちろん、学校の教科書には「書かれていません」が(笑)
で、片山潜は、1921年にソ連へと渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となって、日本共産党結党の指導を行っています。日本共産党も朝鮮共産党も、結局は中国共産党の下部組織となるのですが、現代に至る、「パヨク(左翼)」の源流が、この頃、成立したと考えると理解しやすいと思います。

その辺りの深堀は、別の機会に書かせて頂くと致しまして、「コミンテルン」と同様に、私たち日本人が学校の歴史教育でキチンと教えられていないのが「満洲」(→「満州」という表記は間違い)になりますが、本文中に書かれていました「朝鮮人の共産主義民族運動の場」としての満洲の間島(かんとう)が下図に示す位置(赤丸)にありました。

現在、延辺朝鮮族自治州(えんぺんちょうせんぞくじちしゅう)と呼ばれる地域で、九州より少し大きい面積で、吉林省の4分の1ほどの広さになります。また、北朝鮮との国境が豆満江(とうまんこう)と呼ばれる川になります。
![豆満江]](https://blog-imgs-111.fc2.com/o/y/a/oyakochoco/20190428042840996.png)
豆満江
で、私たち日本人が学校で教えてもらっていないのが、この地域こそが、「女真人(じょしんじん)」、改称して「満洲人(まんしゅうじん)」の王朝で、支那において異民族である「漢字が使える漢人」を支配した「清朝」の発祥地でした(→「Koreans(コリアンズ)」が生まれたのは、わずか700年ほど前のことです)。

ですので、長らく清朝は、この地への「高麗人(こうらいじん)」、つまり朝鮮人(コリアンズ)の入植を固く禁じていたのですが、それでも多くの極貧農民の朝鮮人(コリアンズ)が勝手に侵入していましたし、朝鮮半島が私たちの日本になる(日韓併合)と、さらに多くの貧農朝鮮人(コリアンズ)が渡っていき、現地の漢人の下で小作人となったわけです。
このような「漢人」と「朝鮮人」との軋轢(あつれき)が、私たち日本人とは無関係なところで存在していて、そういったことを背景として、満洲の治安を維持する必要性が急速に高まっていくわけです。そこに、コミンテルンの錯乱工作が加わってくることで、私たちの日本が「戦争へと引き込まれていく」んです。
ですから、私たち日本人こそが、朝鮮人らの身勝手な振る舞いによる「犠牲者」であって、そのことは、次の書物の記述からも明らかとなっています。

『 …欧米列強の植民地政策とその実体を瞥見(べっけん)することは、果たして朝鮮系の人々が主張するように「朝鮮人は史上最も残虐だったとして知られる日本の植民地支配の下で生きた」か否かを検証する上で有効であろう。
当時の植民地統治の実態を調査してみると、強制労働、経済的搾取、反抗的な分子が居住する村々の焼き討ち等に加えて、住民の強制移住あるいは隔離などが各地で行われていたことが明らかになる。』
『 ヨーロッパの植民地保有国も、自らの植民地を制圧するために強制収容所を利用した。ドイツはその植民地、南西アフリカ(現ナミビア)で、1906年から1908年にかけて、原住民であるヘレロ族を強制収容所に送り込んだ。…これらの収容所では、ヘレロ族の人口のほぼ半分があらゆる種類の虐待、餓え、そして病気のために命を落とした。イギリスですら、抵抗運動を抑圧するために、…強制収容所を使っている。早期の強制収容所は、南アフリカで戦われた第二ボーア戦争(1899-1902)でお目見えした。ボーア人(オランダ系南ア移民)入植者に対する地元の支援を弱めるため、イギリスの軍隊は焦土作戦を採用し、田畑、家屋、家畜等を、焼き払い、数万人を強制収容所に送り込んだ。これらの収容所では、およそ二万五千人が病と餓えで命を落としている(※うち二万二千人は16歳以下の子供たち)。だが、このような状況下で死んだアフリカ人の数を数えたものはいなかった…イギリスはアフリカの植民地において、さらに大規模に原住民用の保護区を設けることによってアフリカ人を白人から隔離した。…アフリカ人の一方的な犠牲のもとに白人労働者の保護を目的とした差別的な法律がこれらの措置を可能にしたのだが、それはアパルトヘイト政策が実施される数十年も前に施行されていたのである。同様の法律が、南ローデシア(現ジンバブエ)の議会で1930年に可決されている。南ローデシアの植民地当局は全土を分割し、そのうちのほぼ40%にあたる、最も肥沃で価値の高い土地を白人入植者に振り分け、残りの不毛の地をアフリカ人に与えた。こうしたシステムはケニアにも設置されている…』
『…列強の植民地政策を概観したが、これらと比較した場合、日本の朝鮮統治政策の実態はどのようなものだったか。…実際には、これまで述べた欧米の宗主国による強制労働、強制収容所あるいは人種差別政策とは比べようもないほど緩やかなものだった。第一に日本は、…(欧米の)植民地で等しく見られた強制労働に頼っていない。第二に、日本は、…1907年から1910年までの間に起こった抗日武装運動を鎮圧するにあたって、民衆を強制収容所に収監していない。第三に、日本は朝鮮に経済・産業・教育等のインフラストラクチャーを構築するべく、…はるかに多くの努力を払っていたのである。』
『 どうやら民族史観の信奉者たちは、植民地時代が朝鮮にとってどのようなかたちであれ肯定できる結果を生んだことを一切認めることができないようだ。…朝鮮人は、日本は(公衆衛生、教育施設、産業融資の面で)朝鮮の近代化の為には全くなにもしなかったと主張する一方で、植民地当局は朝鮮文化に余りにも多くの変化をもたらしたと批判するのだ。つまり、民族史観的論法の下で語られる日本は、「すべての罪状について二重に有罪」だということになる。』
『 1905年以前の朝鮮において、近代化の優先順位は低かった…1904年当時、学校教育は主に首都ソウルに限られており、しかもそこには、小学校がわずか7、8校あるのみだった…人口千二百万人の朝鮮で、近代的な公立学校に通っている生徒の総数は五百人程度だった。…朝鮮の公立小学校の生徒数は、1910年(日韓併合により日本の領土となった年)の20,200人から、1937年には約45倍の9,011,209人に増え…また、私立の儒学塾を除くすべての学校に通学している生徒数は、1910年の110,800人から、1937年には約11倍の1,211,400人に増えている。全生徒の四分の一が女子だった。…それでも学齢に達した児童のうちの三分の一しか学校にいけなかった。朝鮮総督府は太平洋戦争のさなかに、1946年には朝鮮に義務教育制度を導入するとの計画を立てていた。』


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