2019-04-04 (Thu)

本日のキーワード : 皇統
皇統譜(こうとうふ)とは、天皇および皇族の身分に関する事項を記載する帳簿。形式等は、皇室典範および皇統譜令に定められる。天皇・皇后に関する事項を扱う大統譜、その他の皇族に関する事項を扱う皇族譜の2種があり、皇室の身分関係(家族関係)、そして、皇統を公証する。
なお、皇統とは、皇位継承が代々なされてきた系統のことである。これは、「初代の神武天皇から皇位継承されてきた系統」と言い換えることができる。いずれの天皇・皇族(后妃を除く)も、系図の上で父系を辿れば、必ず神武天皇へ辿り着く。
本日の書物 : 『物語日本史(上)』 平泉澄 講談社
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 しかし話の大筋は、事実であったことでしょう。それは、こういうことです。【建国の大理想】は、【神武天皇】(じんむてんのう)によって掲げられ、かつ、その【第一歩】を踏み出されたことでしょう。

『神武天皇東征之図』安達吟光
そして第十代【崇神天皇】(すじんてんのう)は、さらにそれを【推し進め】て、【四道将軍を発遣】させられたでしょう。

崇神天皇
しかし王化に浴しない地方は、まだまだ広かったでしょう。そこで九州、また東国の平定ということが、すこぶる必要であって、しかも重要な問題であったことでしょう。【景行天皇】(けいこうてんのう)御自身も、また皇子【日本武尊】(やまとたけるのみこと)も、すなわち【皇室が先頭に立って、辺地の開拓、紛乱の平定に、力を尽くされた】に違いありません。

景行天皇

女装する日本武尊(月岡芳年画)
今その【証拠】を、二つ挙げましょう。
その一つは、シナの古い歴史の書物である【宗書】、これは西暦四八七年、つまり今から数えて一千四百八十余年前に作られたものですが、その中に【雄略天皇】(ゆうりゃくてんのう)の外交文書が載っています。

猪狩りをする雄略天皇(安達吟光画)
それには、
「我が父祖は、身に甲冑を装い、山河の険(けん)を冒(おか)して四方に出兵し、東の方五十五国を征し、西の方六十六国を服して、ついに【全土を統一】した」
とあります。すなわち【雄略天皇より数代前の皇室は、みずから武装し、みずから武器を執(と)って、東西辺境の平定に力を尽くされた】こと、明らかでしょう。御血統の上からいいますと、
景行天皇 ― 日本武尊 ― 仲哀天皇 ― 応神天皇 ― 仁徳天皇 ― 允恭天皇 ― 雄略天皇
となり、【日本武尊は、雄略天皇の祖父様(おじいさま)の曽祖父様(ひいおじいさま)】に当たられます。その故にその外交文書には、【日本武尊のめざましい西征東伐(せいせいとうばつ)】が、その影をうつしているのだと思われます。
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆産経新聞取材班 日本人なら知っておきたい英雄 ヤマトタケル

今一つの証拠といいますのは、およそ【日本国の重大な危機】に臨んでは、【皇室みずから先頭に立って】当たられ、【御自身の苦難は少しもお厭(いと)いにならない】のが、【前後一貫した御態度】であって、

そのめざましい例をあげますと、たとえば【聖徳太子】(しょうとくたいし)、【中大兄皇子】(なかのおおえのおうじ)、【後鳥羽天皇】、【順徳天皇】、【後醍醐天皇】、皆そうでしょう。

ことに【後醍醐天皇の皇子(おうじ)】が、【大塔宮護良親王(だいとうのみやもりなかしんのう)】も、【尊良親王(たかながしんのう)】も、【恒良親王(つねながしんのう)】も、また【懐良親王(かねながしんのう)】も、どなたもどなたも【難局を担当して、決して二の足を踏まれなかった】のであります。

あとあとがその通りであれば、さきざきもまた同様であったでしょう。御子孫の勇ましく雄々(おお)しくましましたことによって、その御先祖の潔(いさぎよ)くすぐれておわしましたことを推察してよろしいのは、【御血統がまっすぐに続いている】からです。』

「皇統」の“真価”が理解できない時点で、歴史オンチと呼ばれます
いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、優れた歴史学者でありながら、占領期に、GHQから公職追放された著者によって描かれた、私たち日本の素晴らしい「国史」について書かれた良書で、東京書籍に代表される中学校歴史教科書と比べてみると、私たち日本人が何を教えられていないのかが、ありありと分かる良書になります。

さて、東京書籍の歴史教科書には、

私たちの日本の歴史、つまり「国史」というものを学ぶために必要な、建国のお話も皇統の説明も「書かれていない」のですが、その証拠に、本文中に見られるような記述がないばかりではなく、初代・神武(じんむ)、第2代・綏靖(すいぜい)、第3代・安寧(あんねい)、第4代・懿徳(いとく)、第5代・孝昭(こうしょう)、第6代・孝安(こうあん)、第7代・孝霊(こうれい)、第8代・孝元(こうげん)、第9代・開化(かいか)、第10代・崇神(すじん)、第11代・垂仁(すいにん)、第12代・景行(けいこう)、第13代・成務(せいむ)、第14代・仲哀(ちゅうあい)、第15代・応神(おうじん)、第16代・仁徳(にんとく)、第17代・履中(りちゅう)、第18代・反正(はんぜい)、第19代・允恭(いんぎょう)、第20代・安康(あんこう)、第21代・雄略(ゆうりゃく)、第22代・清寧(せいねい)、第23代・顕宗(けんぞう)、第24代・仁賢(にんけん)、第25代・武烈(ぶれつ)、第26代・継体(けいたい)、第27代・安閑(あんかん)、第28代・宣化(せんか)、と、ここまでの御歴代天皇についてその御名を記述すらせず、そのあと、

第29代・欽明(きんめい)、第30代・敏達(びだつ)、第31代・用明(ようめい)、第32代・崇峻(すしゅん)、第33代・推古(すいこ)、と名前が記述されているだけで、何をなされたのかが、さっぱり分からないように編集されています。

これで、一体何を子供たちに教えるというのでしょうか?

前回までのところ(→「丁未の乱(ていびのらん)」 ~ 宗教を巡る内乱)で、第29代・欽明(きんめい)天皇から第33代・推古(すいこ)天皇までの流れを追ってまいりました。そこでも簡単に書かせて頂いておりますが、朝鮮半島において、高句麗(こうくり)や新羅(しらぎ)への対抗のために、私たちの日本に頼り切っていたのが百済(くだら)で、その百済の王様が献上品として仏像等を欽明天皇に貢(みつ)いだことで「仏教」が伝わったとされているのですが、

他にも重要な歴史的事実があって、当時の朝鮮半島の南部は、私たち日本の支配下にあった地域で、5世紀後半から6世紀半ばにかけて造られた「前方後円墳」が多数存在していることからも明らかです。

で、本日からは、東京書籍の歴史教科書に「書かれていない」ことを確認するためにも、欽明天皇以前にさかのぼりたいと思います。すなわち、第25代・武烈(ぶれつ)天皇、第26代・継体(けいたい)天皇、第27代・安閑(あんかん)天皇、第28代・宣化(せんか)天皇の頃のお話になります。西暦で言うと、500年頃から550年頃までの時代になります。

上の図に示している系譜は、明確に分かりやすくするために、途中を飛ばして簡略化させて頂いておりますが、第26代・継体(けいたい)天皇のあと、その御子である、第27代・安閑(あんかん)天皇、第28代・宣化(せんか)天皇、第29代・欽明(きんめい)天皇の三天皇が次々に御即位になります。
この時代の朝鮮半島の動向については、別の機会に書かせて頂きますが、東京書籍の歴史教科書とともに読み比べをしている百田尚樹さんの大ベストセラーである『日本国紀』の記述内容について、少々補足しておきたいと思います。

ポイントとなるのが「皇統(こうとう)」です。

第25代・武烈(ぶれつ)天皇は、御子がないまま御かくれになったので、『日本国紀』には次のような記述がなされています。
「 だが、継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。「武烈」という怖そうな諡号(しごう)もさもありなんだ。「継体」という諡号も、きわめて暗示的な名である。
現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を奪取すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。継体天皇が即位してから十九年も都を定めなかったのも、その間、前王朝の一族と戦争をしていたと考えればしっくりくる。
ただ、そうだと仮定したなら、皇位簒奪の継体天皇が、なぜ新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったかという疑問が生じる。」
先日も、推古天皇とその摂政である聖徳太子の時代を振り返って、危険極まりない蘇我氏の行動(例:天皇の殺害など)について確認してきましたが、私たちの日本の場合、他国とは違って(特に支那や朝鮮半島の王朝と違って)、その血統こそ(しかも男系の血統)が最も重視されていて、だからこそ、後継がいない場合、重臣たちが血眼になって、その血筋によって正当化される方を探すわけですが、無関係に誰でも天皇となれるのであれば、そもそも探す必要はありませんし、あの蘇我氏でさえ天皇になれなかった、さらにのちの時代の藤原氏ですら天皇にはなれなかったという一連の歴史の流れが説明不可能となってしまいますので、新しい王朝ではありません。
また、継体天皇が都入りするのが即位(507年)から19年後(526年)であることにも、『日本国紀』では触れられているのですが、その理由を推測するには、当時の朝鮮半島の情勢と一緒に考えるべきかと思います。
第26代・継体(けいたい)天皇は、現在の大阪府枚方市にあった「樟葉宮(くすばのみや)」で御即位なされています。『古事記』によると、第10代・崇神(すじん)天皇の御代に反乱があり、その反乱者らが敗走して、この地に至ったとき、糞を漏らして袴に付いた状態だったことから「くそばかま」と呼ばれ、それが訛って「久須波(くすは)」になったということで、現存する「交野天神社(かたのあまつかみのやしろ)」の境内にその宮があったとされています。

そして、この頃になると、現在見られるような大阪平野が、自然による埋め立てによって姿を現してくるようになります。


☆古代大阪の変遷
詳しくはこちらをご参照💗
↓
☆「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明

ここで考えなければならないのが、新しく生み出された平坦な土地の価値で、徳川家康が関東を大開発した歴史を知っていれば、自ずから分かってくると思います。また、当時の朝鮮半島の動向を鑑みると、畿内から九州へと至る重要なルートである山陽道の存在も忘れてはならないと思います。

山陽道
以上の理由から、第26代・継体(けいたい)天皇は、この地で即位され、また御陵であると考えられている、前方後円墳の「今城塚古墳(いましろづかこふん)」もまた、この地にあるわけです。



埴輪列(復元)中央には巫女形埴輪。
と、ここまでの流れをご理解頂くと、やはり、当時の朝鮮半島の情勢について、どうしても確認しておかなければならない、ということが納得できると思われるのですが、それを次回以降に確認したいと思います。

本日の課題 : 円の面積を考えると円周が出てくるのは何故か?
ということで、ここからは昨日の続きである「微分積分学」を自ら発明する、という無謀なチャレンジの続きに入りたいと思います。
「微分積分学」のエッセンスは、何度も繰り返しますが、
『「曲がった」ものも、どんどん拡大すると、「まっすぐ」に見えてくる』
ということになります。

昨日のところでは、私たちが普段、日常的な感覚で、自然に理解できるところから始めて、次のような正方形に内接する円の面積が、正方形の面積のどのくらいを占めているのか、という問題について考えました。

大きな正方形の面積を「S」とし、小さな正方形の面積を「s」とし、円の面積を「C」とし、円の面積「C」が、小さな正方形の面積「s」の「x」倍であると仮定致しますと、

となるところまでは分かったのですが、「x」が何のかが分かりません。

そこで、今度は、円の直径を「d」として、円周「D」が直径「d」の何倍になるのかを考えてみます。

上の図を眺めていると、上半分の円周の長さは直径「d」よりも長く、また下半分の円周の長さも同様ですので、

であることが分かります。また、外側の正方形の1辺は長さが「d」ですから、円周の長さは、正方形の4辺の長さよりも小さいと分かります。

ここで、円周「D」が直径「d」の「X」倍であると仮定すると、次のように表すことができます。

さて、上記2つのどちらの問題も、ここで行き詰ってしまったのですが、発想を変えて、今度は円を2つ考えてみます。

内側の円の半径は「r」で、外側の円の半径はほんの少し(「t」)だけ長い「r+t」だとします。また、内側の円の面積を「C(r)」、外側の円の面積を「C(r+t)」とします。
このとき、2つの円に挟まれた部分の面積(→「A」とします)は、次のように表すことができます。

で、本日の冒頭に書かせて頂いております次の式で、

さきほどの式を置き換えてみますと、

となることが分かります。
そして、これを解いていきますと、

となります。
さて、ここから、どのように考えれば良いのでしょうか?

ヒントは、2つの円に挟まれた部分の面積(「A」)は、それらの円を、ある任意の場所で切断し、引き伸ばした長方形の面積として考えてみて下さい(「t」はとてもとても小さな数だと想像して。。。)


おや? 円周の「D」が登場していますね!面積のことを考えているだけなのに・・・
続きは次回に♥
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Re: No Subject * by みっちゃん
4711さん、こんにちは^^
コメント&ご訪問有難うございます!
「男子のみが継げる」⇒ 正しく申し上げますと、男系の男子かつ臣籍降下していない皇族のみです。「君」と「臣」とを隔てる「君臣の別」「五世の孫」という点も非常に重要ですので、ぜひ、お調べなさって下さい。
ということで、これからも何卒宜しくお願い致しま~す☆彡
コメント&ご訪問有難うございます!
「男子のみが継げる」⇒ 正しく申し上げますと、男系の男子かつ臣籍降下していない皇族のみです。「君」と「臣」とを隔てる「君臣の別」「五世の孫」という点も非常に重要ですので、ぜひ、お調べなさって下さい。
ということで、これからも何卒宜しくお願い致しま~す☆彡
今、秋篠宮殿下、悠仁親王がいらっしゃるのに、「愛子さまを天皇に」と言っている勢力がありますが、とんでもないことです。