2018-12-07 (Fri)

西本願寺 飛雲閣
本願寺(ほんがんじ)は、寺院の名称である。
各地に同名の寺院があるが、一般には本願寺系の浄土真宗(真宗)各派の本山である「本願寺」を指すことが多い。浄土真宗における寺号の由来は、13世紀に親鸞の廟堂に対して亀山天皇より下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)であるとされる。16世紀末期に東西に分裂、東側は20世紀後期に発生したお東騒動の影響で更に分裂した。
お東騒動(おひがしそうどう)は、1969年に真宗大谷派が、「同朋会運動」を推進する改革派と、法主を継承する大谷家とそれを擁護する保守派との宗門内の対立から、同宗派が4派に分裂するまでに至った事件のこと。
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 京都駅近くの烏丸通(からすまどおり)と堀川通(ほりかわどおり)に面して【2つの巨大な伽藍(がらん)】が聳(そび)え立っている。【東本願寺(お東(おひがし))】と【西本願寺(お西(おにし))】である。

東・西それぞれの本願寺には【阿弥陀堂】と【親鸞聖人(しんらんしょうにん)】を祀る【御影堂】があり、親鸞が著(あら)わした【『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)】を聖典としている。つまり【両者とも親鸞を開祖とする浄土真宗(じょうどしんしゅう)教団の本山】である。

親鸞
伽藍(がらん)が巨大なだけではない。両宗派とも門徒(信者)数は790万人で、両方合わせると1580万人と日本の人口の1割以上を占めている。つまり、日本人の10人に1人は門徒ということになる。寺院数は、東本願寺(【真宗大谷派】)が8700寺で、西本願寺(【浄土真宗本願寺派】)は10000寺である。門徒数・寺院数を合計すると【日本最大の宗教教団】である。

西本願寺 阿弥陀堂(国宝)、奥に御影堂(国宝)

東本願寺
【親鸞を開祖】とし、その【血脈によって受け継がれてきた本願寺】が、【なぜ2つあるのだろうか】。

本願寺が【東・西に分立】して、【およそ400年】になるが、これまで【歴史・宗教学者たち】は【その原因に疑問を持つことも、それを解明しようとすることもなかった】。これは【不思議なこと】である。両本願寺は、この問題を無視していたのか、それとも何らかの思惑があって避けてきたのであろうか。

【通説】では、巨大な本願寺教団の勢力を恐れた【徳川幕府が、強制的に東と西に分立させたといわれている】が、【果たして、そうであったのか】?

さらに【通説】では【幕府】は、京都を中心として、【東日本には東本願寺派】の寺院を配し、【西日本には西本願寺派】の寺院を配置して、その地域にいる門徒を従属させて、【勢力を二分】する行政区分を行った、といわれている。
たしかに寺院数から見ると、【その傾向はあるが】、東日本にも西本願寺派の寺院があり、西日本も同じように東本願寺派の寺院が【混在している】のである。そのため幕府による東・西の分立は、あながち【幕府による強制的な行政施策だったとは言い切れない】ものがある。

そもそも【本願寺】は、【親鸞の娘】の【覚信尼(かくしんに)】が文永九年(1272)に【京都・吉水(よしみず)の地】に【親鸞を祀る御影堂を創建】したことにはじまる。

覚信尼公碑
親鸞の血脈を継ぐ【八代宗主の蓮如(れんにょ)】のとき焼失したが、【「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」】と唱えれば、【阿弥陀如来(あみだにょらい)に救われて往生できる】、という【蓮如(れんにょ)の平易な教え】が民衆の間に広まって、全国各地に門徒集団が形成された。蓮如(れんにょ)は京都の山科(やましな)に本願寺を再興し、そこが戦火に遭うと【十代宗主の証如(しょうにょ)】が現在の大阪城がある【大坂の石山(現在の大阪市中央区大阪城付近)】に【本願寺を造営】した。…

蓮如影像(室町時代作)

証如影像
織田信長は本願寺が持つ力を支配するために本願寺と10年にわたって戦いを繰り返したが、この戦いの中盤には【大坂石山の本願寺】は【4万人という兵力】を擁していたという。4万人の兵員は、【戦国時代では最大級の兵力】である。…

「石山戦争図」
これまで【戦国時代の本願寺】については、あまり語られることはなかったが、実は【本願寺こそが戦国の武将たちに大きな影響を及ぼしていた】ばかりか、【時代を動かす大きな原動力になっていた】のである。そのため本願寺を通して眺めてみると、これまで語られることがなかった「戦国史」が浮かびあがってくる。この視点から「戦国史」をとらえた類書はない。
本願寺は織田信長と豊臣秀吉、さらに徳川家康といった戦国の覇者と関係しながら、親鸞の血脈と信仰を守り続けてきた。ところが、なぜか徳川初期に東・西に分裂する。この原因は、これまで語られることはなかった。

本書は、本願寺の分裂をあまり語られることのなかった本願寺文書や当時の史料を駆使して解明したものである。そこから【本願寺教団が抱える内部の深刻な問題】と、【避けて通ることのできない政治権力との緊迫した関係】が【浮き彫り】にされてくる。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、恐らく誰でもご存じであろうと思われるる「本願寺に西と東がある」という事実に対して、それでは、「それは何故なのか」という当然の疑問について、非常に分かりやすく解説をなされている良書で、当時の時代の流れがまるで物語のように描かれているため、面白過ぎて一気に読めてしまう書物になります。

さて、みなさんは、何故、本願寺が西と東に分かれているのか、また、西と東でどう違うのか、ご存じでございますでしょうか?

正直に申し上げますと、我が家は西本願寺派なのですが、にもかかわらず、本書を読むまでは知りませんでした(笑) まだまだ、勉強不足で、反省しております💛
で、詳しい解説は、本書をご覧いただきますとして、本文中にも書かれておりましたように、本願寺は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という戦国の覇者と、否応なく関係せざるを得ない状況をくぐり抜けて、親鸞の血脈と信仰を守り続けたわけですが、そういったところは何かと参考になるものがあるのではないでしょうか。

それでは、ここで、そんな本願寺が関係せざるをえなかった3人の戦国の覇者の中で、「天才」と呼べるのは一体誰でしょうか?

多くの方々が、そのイメージから誤解されているのではないか(特に戦後教育のせいでw)と思われるのですが、私たち日本人が、最も真似がしにくいのが豊臣秀吉であり、織田信長ではないんです。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆【問題】 次の中で、「天才」は誰? ①織田信長 ②豊臣秀吉 ③徳川家康

織田信長が「天才」ではなかったことを端的に示す例が、難攻不落の大坂石山本願寺の攻略に10年間も費やしているという史実です。

そもそも、現在の大阪城があるところ、つまり、かつて大坂石山本願寺が存在したところというのは、初代・神武天皇が九州の宮崎から「神武東征」で降り立った場所であり、古くから地形学的にも要衝となる地でした。ですから、織田信長が「天才」ではなかったが故に、時間を費やさざるを得なかったと言えるわけで、もし「天才」と呼ばれるような人物であれば、私たちのような一般人には考えもつかないような方法で、あっという間に目的を果たしていたと思います。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明

さて、ここからは昨日の続きになります。
今から200年以上前のフランス革命頃の2人の人物、すなわち、ジャン=シャルル・ド・ボルダとニコラ・ド・コンドルセは、私たち人間の「集団」が、どのようにして、その「集団」の意思決定を下す方法、つまり「決め方」を設計していくべきか、ということを、世に問いました(というほど大げさではありませんが、2人の功績を称えるという意味で)。

ジャン=シャルル・ド・ボルダ

ニコラ・ド・コンドルセ
そのどちらも「単記式多数決」という「決め方」に対して、より良い選択が可能となるように「改善」されるべきだという主張がなされます。
すなわち、ボルダの主張では、「ペア全敗者を常に選択しないルールであるべきだ」であり、コンドルセの主張では、「ペア全勝者が存在する場合は、それが選択されるルールであるべきだ」というものでした。

ここで、「ペア全敗者」とか「ペア全勝者」というのは、与えられた「選択肢」を、それぞれの「ペアに注目」した上で比較し、他のすべてに「勝ち」もしくは「負け」という場合において、「勝ち」であればそれを選ぶべきというのがコンドルセの主張であり、「負け」であればそれは選ばれるべきではないというのがボルダの主張になります。

さて、ここまでの流れをもう一度まとめてみますと、当ブログにとっては、その存在そのものが理解不能な「左翼リベラル」と呼ばれる「救いようのないバカ」がいるのですが、先日、たまたま、その手の輩が、当ブログにコメントを残されていたので、いま、それを題材にして彼是(あれこれ)と考えているところになります。

詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆アリさんもハチさんも知っているのが『多数決』 ~ それを知らない「左翼リベラル」

☆左翼リベラルが重視している少数決

その書き込みというのは、
「ボルダ得点(ボルダとくてん)は、投票者が選好順序に従って候補にランク付けをする、一人勝者選挙方式である。
ボルダ式得点法では、各々の候補に、有権者が付けたランキングの順位に対応した特定の点数を与えることによって選挙の勝者が決定される。
いったんすべての票が集計され、もっとも得点の高い候補が勝者となる。
ときに、多数派に好まれる候補よりむしろ、幅広い人が受け入れ可能な候補を選ぶことがあるので、
ボルダ式は、多数決主義の選挙制度ではなく、世論の一致を重視した選挙制度だとしばしば言われる。」
Wikipediaの「コピペ」で始まるののですが、


御自身の言葉で書き込まれてはいないため、断定することはできないのですが、普通に考えますと、当ブログで書かせて頂いた「多数決方式」ではなく、「ボルダ式は、多数決主義の選挙制度ではなく、世論の一致を重視した選挙制度だとしばしば言われる」という文章を甚だしく勘違いした解釈をして、いわゆる「ボルダ・ルール」による社会的選択が「多数決方式」よりも好ましいのではないかと妄信し、批判的な書き込みをされているのではないかと思います。

で、これはすでに以前も書かせて頂いておりますが、最初に結論を申し上げますと、「ボルダ式は、多数決主義の選挙制度ではなく、世論の一致を重視した選挙制度だとしばしば言われる」という文章を、あたかも「ボルダ・ルール」による社会的選択が「多数決方式」よりも好ましい、として解釈している時点で、そもそもすでに間違っているんです(笑)

さきほども、書かせて頂きましたが、「ペア全敗者」とか「ペア全勝者」というのは、与えられた「選択肢」を、それぞれの「ペアに注目」した上で比較するものです。

他のすべてに「勝ち」もしくは「負け」という場合において、
① 「勝ち」であればそれを選ぶべき
というのがコンドルセの主張であり、
② 「負け」であればそれは選ばれるべきではない
というのがボルダの主張になります。

ところが、与えられた「選択肢」を、それぞれの「ペア」ごとに比較した場合に、「ペア全勝者」とか「ペア全敗者」とかが常に存在しているわけではないばかりか、さらに困ったことが起こり得ます。それが、先日も少し書かせて頂きました、いわゆる「三竦み(さんすくみ)」です。
「三竦み(さんすくみ)」というのは、「じゃんけん」のような状態で、「コンドルセ・サイクル」、「多数決のパラドックス」、「投票の逆理」などと呼ばれているものになります。

例えば、次のような場合、

「単記式多数決」という「決め方」では、候補者Aが選ばれますが、「ボルダ・ルール」の場合、候補者Aと候補者Bが拮抗します。また、「ペア全勝者」も「ペア全敗者」も存在していません。
すなわち、「多数決方式」では決められるのに、「ボルダ・ルール」では、そもそも肝心な社会的選択が不可能となってしまう例を示しているわけです。

では、「ボルダ・ルール」による社会的選択が「多数決方式」よりも好ましい、という考え方は正しいと言えるでしょうか?

ところで、この「ボルダ対コンドルセ」という「決め方」を巡る対立構造は、現代の社会選択理論においても、その軸となっているわけですが、今から200年ほど前のボルダやコンドルセの議論や研究は、フランス革命によって途絶えてしまいます。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆フランス革命 ~ 忘れてしまいたいフランス人、正しく知らない日本人

そして、再び活発に議論や研究がなされることになるのが、大東亜戦争(第二次世界大戦)後のことになります。
そして、昨年(2017年)に亡くなられたユダヤ人経済学者であるケネス・ジョセフ・アローによって、1951年に、「アローの不可能性定理(Arrow's impossibility theorem)」が示されることとなります。

ケネス・ジョセフ・アロー
そして、その功績が認められて、1972年に、51歳という若さで史上最年少でノーベル経済学賞を受賞しています。


で、その「アローの不可能性定理(Arrow's impossibility theorem)」を理解する上での肝となるのが、「ボルダ・ルール」が前提としているような条件を満たすような決め方には、まともなものが存在しない、ということを証明した点にあります。

続きは次回に♥
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