2018-09-23 (Sun)

ロンバルディアの鉄王冠
ロンバルディアの鉄王冠(ロンバルディアのてつおうかん、イタリア語: Corona del Ferro、英語: The Iron Crown of Lombardy)は、中世前期につくられたヨーロッパで最も古い王冠の一つであるとともに、キリスト教の聖遺物である。ラテン語に由来するコーローナ・フェッレア(Corona Ferrea)の名でも呼ばれる。
この王冠はイタリア・ロンバルディア州の州都ミラノにほど近いモンツァの大聖堂 (Duomo of Monza) において保管されており、はじめランゴバルド王国(ロンバルディア王国)の、のちに中世イタリア王国の王権の象徴とされた。
この王冠は黄金のサークレットの内側に幅1cmほどの鉄の輪を取り付けた構造になっている。直径は、内側16.5cm、外側17.2cmで、内側の円周は48cmである。この鉄の輪は、キリストが磔にされた際に使用された釘(聖釘)を叩き伸ばして細い帯状にしたと伝えられており、このことから「鉄王冠」と呼ばれ、また聖遺物とされている。
王冠の外側のサークレットは、黄金を打ち延ばして一部にエナメル加工を施した6つの黄金片が蝶番で接続されており、十字架や花の模様が浮き彫りにされた中に22個の宝石がはめ込まれている。

モンツァの大聖堂
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 【日本民族】は昔から【情操中心】に育ってきたためだろうが、外国文化の基調になっている情操の核心をつかむのが実に早い。

【聖徳太子】の【法華経義疏(ほけきょうぎしょ)】などは太子一代で【仏教の核心】をつかんでしまっている。…


しかし、【西洋文化】についてはそんなに【わかりが早くない】。特に【ギリシャ】に由来するものは、西洋文化に接触を始めてからかなり年月がたつのに、まだよく【日本には入っていない】。

【ギリシャ文化の系統】といっても、【二つの面】がある。

一つは力が強いものがよいとする【意志中心の考え方】である。

芥川龍之介が「ギリシャは東洋の永遠の敵である。しかし、またしても心をひかれる」と表現し、・・・述べたのもこの点を指したものだと思う。この部分は【決してとり入れてはならない】。何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は【文化とは何のかかわりもない】。むしろ【野蛮と呼ぶべき】だろう。

しかし、ギリシャ文化にはもう一つの特徴がある。それは【知性の自主性】である。これはまだ【ほとんど日本にははいっていない】。文化がはいっていないということは、その文化の基調になっている【情操がわかっていない】ということにほかならないが、ぜひ【これはとり入れてほしい】ものだと思う。

【知性】に、他のものの制約を受けないで【完全に自由であるという自主性】を与えたのは【ギリシャだけ】だった。【インドでもシナでも知性の自主性はない】。これらの国で【科学が興隆しなかった理由】がそこにある。

数学史をみても、万人の批判に耐える形式を備えたものはギリシャに由来するものだけで、したがって【ギリシャ以前は数学史以前】と呼ばれている。

【知性】は【理性】と【同一ではなく】、【理想を含んだもの】だと思うが、はっきりと理想に気づいたのも【ギリシャ文化が初めて】だった。これを代表しているのが【プラトンの哲学】である。

プラトン
【文芸復興期】に入ると、一番大切なものがかつてのギリシャにあり、それがローマ時代に失われたという自覚が起きた。それでこのころの人たちには過ぎ去ったよいものをなつかしむというあこがれの情操が非常に強かった。それはガリレオのやり方をみると大体わかる。ガリレオにあったのは科学よりも科学者の精神で、観念論を打破して自分の目で見たものを確かめてはっきりと表現している。しかしここではまだ【理性】の尊重が中心になっていた。

ガリレオ・ガリレイ
認識するものとしての【理性】は【デカルト】によってさらに整えられたが、結局は理性は文化に近づく【手段にすぎない】。このことに気づき始めたのが【ニュートン】の時代である。

アイザック・ニュートン(1689年 ゴドフリー・ネラー画)
彼は「自分は大海を前にして磯辺で貝殻を拾っている子供にすぎない」といっているが、これは理性を手段として【自分の無力さ】がわかるとともに、前面に限りない大海のあることが漠然と感じられるのを示している。【この大海とは文化それ自体にほかならない】。

そして、【数学】に限らず【文化の本質】、【文化それ自体】に【目が向いた】のは19世紀で、ここではっきりと【理想】が自覚された。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、今から半世紀以上前に、私たち日本の偉大な数学者によって書かれたエッセイになりますが、その頃からすでに、「左翼教育の危険性」に警鐘を鳴らし、「ホンモノ」の教育というのが何であるか、を現代を生きる私たち日本人に分かりやすく諭して下さる良書になります。

さて、昨日のところで、8世紀の「イスラム教」勢力の拡大を食い止めたのが、「フランク王国」と、「ハザール・カガン国」だったと書かせて頂きましたが、それによって「東ローマ帝国」を筆頭とする「キリスト教」の世界が生き残ることができたわけです。

744年頃の世界地図
で、ユダヤ教に改宗したトルコ系遊牧民族である「ハザール・カガン国」と「東ローマ帝国」の関係は、「レオーン4世」(“ハザールのレオン”)が東ローマ帝国皇帝となったことからも明らかなように、対イスラム教勢力という関係上は密接であったと言えます。
で、もう一方の功績者である蛮族ゲルマン人の「フランク王国」がどうなったのか、を確認してみたいと思いますが、その前に、知っておかなければならない大前提があります。
まず、ゲルマン人を「蛮族」と書かせて頂いておりますが、それは古代ローマ帝国の高度文明と比較すれば明らかなことで、
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆蛮族ゲルマン人の「フランク王国」 VS ローマ人の高度文明「ローマ帝国」

下水道が整備されていたローマ帝国とは違って、そこら辺に「糞尿」が散らばっていた、というのが「フランク王国」を中心とするヨーロッパの日常でした。花の都と称されるパリに本格的な下水道が築造されるのは1370年になってからです。ちなみに、私たちの日本において排水溝の築造が確認されているのは「難波宮」で、大化元年(645年)のものになります。
また、イギリスはもっと遅れていて、産業革命と呼ばれるイノベーションが起こった18世紀になってから対策の必要性が生まれ、ようやく完成するのが1867年です。

エリザベス1世
だから、「香水」とか「ハイヒール」とか「マント」とか「日傘」とか「シルクハット」とか「フープスカート」などなどがイノベーション(「糞尿」を避ける必要性に迫られて・・・)によって生み出されたわけです(笑)
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆トイレの歴史があまりにショッキングで多くの事を教えてくれた - NAVER まとめ
このように、およそ文明とは程遠い存在だったのが、ほんの最近までのヨーロッパの人々です。

それから、もう一つ。そんな蛮族であるゲルマン人が、次第にキリスト教化されていくわけですが、その過程には大きな「欺瞞(ぎまん)」がありました。

『 西洋人の精神的基盤になっているのは何と言ってもキリスト教です。今では無宗教の人が増え、教会に通う人も少なくなってきているとはいえ、まだまだ教会が中心的な存在となる活動も多く、人々の生活はキリスト教の慣習や暦に基づいて巡っています。
やはりキリスト教を知らなければ彼らの精神的生活はほとんど評価できないだろうと思います。キリスト教には、大きく旧約聖書と新約聖書のそれぞれの道徳観がありますが、旧約聖書の思想の中心となっているのは「モーゼの十戒」です。
ここでは、虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出した古代イスラエルの指導者モーゼが、シナイ山で神から授かったとされるこの戒律について、日本的視点から見てみたいと思います。
一、ヤーウェが唯一の神であると自覚して、他の神を崇めないこと
一神教というものの性質を見事に規定している戒律ですが、日本人にとっては、このことがまず理解し難いことと言ってもよいのではないでしょうか。寛容であるはずの宗教が、狭量であることに違和感を感じるのです。神であるなら、人間のように嫉妬深いはずはなく、他の神を崇めてはならないなどと人間に強要してくるはずがない、と考えてしまう。そもそも、人格神を想定し、人間のような神が自然まで創ったという時点で、もうそこに偽りがあると日本人は感じてしまうのです。
しかし、ディアスポラ(原住地を離れた者)であるユダヤの民は、土地柄や風土から醸成される自然宗教とは無縁のため、土地に依拠しない宗教を作っていくという宿命があるのです。そうするとこのように観念で神を作るということになる。
こうしたことを指摘できるのは、日本人に自然道の視点があるからなのですが、西洋人はこれを当然であると思い、人間はこのような思考パターンしかとれないのだと思い込んでいるのです。
二、神の姿は貴いものだから、みだりに偶像を作って崇拝してはならない
観念だけ、言葉だけで神を想定するというのは、少なくとも旧約の世界ではそうなのですが、キリスト教が成立する過程ですでにこの戒律は破られています。モーゼの十戒はキリスト教徒に徹底されているわけではありません。
ユダヤ教にルーツを持つキリスト教をヨーロッパ人が信仰し始めた頃から、偶像が作られるようになるのです。教会に行くと必ずキリストの磔刑(たっけい)像があり、聖母子像、聖人像がありますが、どれも偶像です。西洋美術のほとんどはキリスト教の偶像が占めると言ってもよいくらいたくさん作られ、崇められてきました。これが破戒にあたることを西洋人は自分たちではほとんど指摘しないのです。
ですから旧約と新約というのは、本来しっかりと分けて考えなければならない別物です。それなのに、キリスト教が成立する過程でなぜか旧約も含めることが決められてしまったのです。ここにある意味で矛盾があるのです。もちろん、旧約を除こうとするキリスト教の一派もあります。
旧約を含めるということは、ユダヤ民族の宗教をより普遍的なキリスト教に組み込むということを意味します。西洋人は論理的だとよく言われますが、そうではないことがここからわかります。旧約と新約は完全に矛盾する宗教なのです。
「モーゼの十戒」で語られる唯一の神は、ユダヤ教の神ですから、キリスト教であるにもかかわらず、戒律の一ではユダヤ教の神だけを信じなさいと言っているに等しいのです。
旧約聖書そのものもヘブライ人の民族の物語を語っているわけですから、その歴史を共有しない民族が信じる宗教にそれを取り入れたということで、その矛盾の大きさが知れるのです。同時に、そうまでしてそれが必要であったということも考えてみなければなりません。…
民族として生きることを人々に意識づけ、キリスト教徒が一つの民族であるかのごとく錯覚させるために旧約が用いられたのです。
三、神の名は尊いものだから、安易にその名を口にしないこと
これも神の神聖性を保証し、維持するための戒律で、一、と二と共通するものですが、このあと四以下は不文律のようなものが羅列されます。四は「7日に1日を安息日としてこれを守ること」、五は「父母を敬うこと」、六は「殺人をしないこと」、七は「姦淫をしないこと」、八は「盗みをしないこと」、九は「偽証をしないこと」、十は「人のものを欲しがらないこと」。
四以下はまったく共同体の平凡な規律にすぎません。これがあたかも世界のキリスト教徒の行動原理であるかのごとく扱われるには、理解が足りないように思えます。旧約では、ユダヤ民族は外の宗徒に対しては殺しても、犯罪をしてもみとめられるのです。殺さないのは共同社会の人々に対してだけなのです。その営みを円滑にするために、共通の信仰を背景にした規律をあえて言葉で示すことで人々の行動を縛る必要があったのでしょう。まさに人為的に社会の規律が作られたといってよい。』
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆新約聖書と旧約聖書 ~ 西洋人が自分たちではほとんど指摘しないこと

と、このように、キリスト教というものは、ユダヤ教やイスラム教と、その元となる啓典を共有しているのですが、蛮族のゲルマン人に布教する過程で、見事に戒律を破っており、それがそのまま今日にまで至っているわけです。

但し、その戒律を破っている異常な状況を修正しようという動きが、「東ローマ帝国」で起こります。
「レオーン4世」(“ハザールのレオン”)の祖父であった皇帝「レオーン3世」は、726年にイコン崇敬を禁じる勅令(聖像禁止令)を発します。これが原因となって「東ローマ帝国」では国内を二分する大論争となるのですが、その息子皇帝「コンスタンティノス5世」は、反対するものを容赦なく弾圧・処刑していきました。その嫁がハザールの君主(カガン)であるビハールの娘の「チチャク(トルコ語で花の意)」で、その息子が「レオーン4世」(“ハザールのレオン”)となります。
結局、この騒動は、「レオーン4世」(“ハザールのレオン”)の嫁であった「エイレーネー」が主催した会合によって、イコン崇敬の正当性が再確認されたことで幕を閉じます。

エイレーネーを描いた『黄金の祭壇画』
この聖像(イコン)の崇敬が東ローマ皇帝により禁止され、聖像を破壊した運動を「イコノクラスム」と言いますが、これに猛反対していたのが、当時イタリア半島にあった出張所の「ローマ教会」でした。

751年のランゴバルド王国の領域(水色)
当時のイタリア半島は、ゲルマン系のランゴバルド族に侵略されており、「ランゴバルド王国」(569年~774年)が存在していました。その首都はパヴィア(パヴィーア、北部ミラノ近郊)で、ランゴバルド王の命令で建造された「サン・ピエトロ・イン・チェル・ドーロ教会」は有名です。
732年、「フランク王国(メロヴィング朝)」の宮宰であったカロリング家出身のカール・マルテルが、「トゥール・ポワティエ間の戦い」に勝利、「イスラム教」勢力の侵攻を食い止めます。
そして、カール・マルテルの子であるピピン3世が、ローマ教皇ザカリアスに「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得、貴族会議を召集し、国王に選出されます(751年)。また同じく司教たちからも国王として推戴され、「カロリング朝」が開かれます。

ピピン3世
この時、「東ローマ帝国」がイタリア半島統治のための拠点としていたのは「ラヴェンナ総督府」でしたが、751年にランゴバルド人によって倒されてしまいます。もちろん、出張所扱いの「ローマ」は「東ローマ帝国」の統治下にあります。
「フランク王国(カロリング朝)」のピピン3世は、756年、ランゴバルド王国を破り、旧ラヴェンナ総督領を奪還したのですが、それを「東ローマ帝国」に返還せず、なんと、ローマ教皇に寄進します。その理由は簡単です。王位を認めてくれたことに対する謝礼です。

ピピンの寄進
そして、その息子である「シャルルマーニュ」が弟とともに跡を継ぎます(768年)が、その弟も3年後には亡くなり、単独の王として君臨します。774年、「シャルルマーニュ」はランゴバルドの首都パヴィアを占領、「ロンバルディアの鉄王冠」を奪い、自らが「ランゴバルド王」となり、ローマ教皇領の保護者となります。

エイレーネーを描いた『黄金の祭壇画』
昨日のところで、797年、「エイレーネー」が、実の息子であるコンスタンティノス6世を目をくりぬいたうえで追放し、「ローマ帝国」史上初の“女帝”として君臨(在位797年~802年)したと書かせて頂きましたが、この即位に関して、西域では一種のクーデターとしか見なされておらず、そのため「ローマ皇帝位」が空位であると考えられていました。
そして、800年、「シャルルマーニュ」が「ローマ皇帝」としての帝冠を、ローマ教皇レオ3世が授けることになりました。

『カールの戴冠』 ジャン・フーケ
ここに、「西ローマ皇帝」として「シャルルマーニュ1世」、ドイツ語読みで「カール1世」が生まれます。
現代のフランス人が自分たちの歴史の出発点だと考えているのが、この「シャルルマーニュ1世」、または「カール1世」になります。

カール大帝の金の胸像(アーヘン大聖堂宝物館)

カール時代(768年~811年)のフランク王国(青がカール即位時のフランク王国、赤橙がカールの獲得領、黄橙がカールの勢力範囲、濃赤はローマ教皇領)
続きは次回に♥
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