2018-09-19 (Wed)

カールは、株式会社明治が発売しているスナック菓子。
ポップコーンに着想を得て1968年、当時の明治製菓から発売された。
名称は昭和30年代に流行した玩具「カール人形」から採用された。
キャッチフレーズは「それにつけてもおやつはカール」。
クラーク(ロシア語: кула́к)は、20世紀前半のロシア帝国やソビエト連邦国内における自営農家の総称である。ウクライナ史では、クルクーリ(ウクライナ語: курку́ль)として知られる。社会主義および共産主義者からは富裕層に数えられ、迫害弾圧の対象とされた。日本でも、共産主義者・社会主義者(左翼)によって富農という日本語名があてがわれた。

1875年のカール・マルクス
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 1929年12月、【スターリン】は【恐ろしい発言】をした。
「われわれは、【富農】の搾取に制限を加える政策から、【一つの階級としての富農を撲滅する】政策に移った」

ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリン
スターリンの発言から、ロシアにおいて、「富農撲滅運動」が展開されることになった。

これは共産主義者の悲願である集団農場化を進めること、そして、前年から展開されていた「五ヵ年計画」を遂行するためだった。スターリンはできるだけはやくロシア経済の近代化を図ろうとした。工業を中心とした経済への移行を目論んだのである。しかし、ロシアには【経済の近代化のために必要な資本】が存在しなかった。【この資本を無理矢理捻出するために農民から「余剰収穫物」を取り上げ、海外へと輸出し、その輸出で得た外貨で近代工業に必要な機械を購入しようと考えた】。
この計画自体は別段奇妙な計画というわけではないが、【現実を無視】して、【計画を断行】したために、【農民たちは、「塗炭の苦しみ」との表現以上に悲惨なこの世の地獄へと送り込まれる】こととなった。

常識的に考えて、【「富農」】という言葉から、多くの人は、巨万の富を得た地主を想像するだろう。だが、当時のロシアにそのような裕福な農家は存在しなかった。実際には、【農民を搾取する「富農」など存在しなかった】のである。ごくわずかな農民が数頭の牛や馬を所有するだけで、【ほとんどが「貧農」に等しかった】。【「富農」とされた人々の収入】は、「富農」の迫害を命じられた【村の役人よりも低かった】のだ。だが、この「富農」こそが諸悪の根源と見なされ、【「階級の敵」として抹殺されるべきだとされた】のである。

「富農」は三つのカテゴリーに分類された。第一カテゴリーは「反革命の活動に従事している富農」で、彼らは逮捕され、【強制収容所に送られるか、処刑される】こととなった。第二のカテゴリーは「それほど積極的に反対活動はしていないが、反革命を助けることになる極め付きの搾取者」で、彼らは【逮捕され、家族ともども僻地へ強制移住させられる】ことになった。第三のカテゴリーは「体制に忠実な富農」で、居住する地域の番外地に移され、土地改良に従事することが決定された。

実際にはロシアに【「富農」は存在しなかったが、政府は、追放されるべき「富農」の数を定めた】。まさに【机上の空論】というべき算出方法で数が決定され、【第一カテゴリーには6万3000人】が該当するものとされ、【第二カテゴリーには15万世帯】が該当するものとされた。

現実には存在しない「富農」を追放するためになされた方法は過激だった。州は地区に対して富農の数を通達した。地区は定められた富農の数を各村ソヴィエトに割り、村ソヴィエトが【富農のリストを作成】した。リストの作成にあたったのが、【国家警察の捜査官、現地共産党の指導者、検察官で構成される三人委員会(トロイカ)】だった。そもそも農民を搾取する「富農」が存在しない以上、【「富農」を選ぶ基準は出鱈目なもの】だった。トロイカを構成する誰かが【個人的な憎悪の念】を持っていたために、【貧しい農民が「富農」とされる】ことも多かった。また、同時に行われていた農地の集団化に反対した人間も「富農」とされることが多かった。何しろ実際に「富農」が存在しないのに、【定められた数だけ「富農」をリスト・アップしなければならない】のだから、【その選出方法が恣意的で、出鱈目であるのは当然であった】といわねばならない。

富農撲滅運動は残酷きわまりないものだった。

第一次五か年計画のプロパガンダ・スタンド(1931年・モスクワ)
ロシア国内の集会、ラジオ、映画で繰り返し、繰り返し「富農」の非道さが強調された。著名な作家、そしてスターリン自身も「富農」がいかに卑劣な存在であるかを強調した。人々は徐々に諸悪の根源が「富農」であると思い込むようになり、「富農」さえ存在しなければ、ロシアにユートピアが到来すると夢想する人々も出現した。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、現代の日本において「リベラル」を自称する“奇妙な人々”の「奇怪な言説」を取り上げ、それらを徹底的に批判するところから始まる書物で、「東京新聞」や「朝日新聞」はもちろんのこと、「池上彰」、

池上彰
「加藤典洋」、

加藤典洋
「内田樹」、

内田樹
「白井聡」といった面々が、

白井聡
そのやり玉にあがっていて、非常に楽しく拝見できる良書になります。そして、後半3分の1にあたる部分から、今回ご紹介させて頂く本文となるのですが、非常に中身が濃く読みごたえがあってお勧めです。

さて、すでに崩壊してしまった社会主義国家のソ連について、その実態を知っておくことは、現在の「中華人民共和国」と「北朝鮮」の崩壊を予測するうえで、非常に役に立ちます。何故なら、どちらも、100年前に出来たソ連の「猿真似」をしているだけで、中身がまるで伴っていない「空疎な人口国家」だからです💛

それでは、一昨日の続きになりますが、651年頃の世界の様子が、こんな感じ(↓)になります。

651年頃の世界地図
上図でアラブ帝国と表示されている「イスラム教」の勢力が、東側にあった大国の「サーサーン朝ペルシア」を滅ぼし、西側にある「東ローマ帝国」の領地を侵略し、さらに北上を開始し、第一次アラブ・ハザール戦争(642年~652年)を戦いますが、ここで大敗します。

653年頃の世界地図
やがて、「イスラム教」の勢力の中で内紛が起こり、661年に世襲による王朝が初めて成立します。それが「ウマイヤ朝」で、ここから「スンニ派」とか「シーア派」と呼ばれる派閥争いが起こることになるのですが、それは以前にも書かせて頂いておりますので、そちらをご参照くださいませ。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆イスラム教の分裂 ~ スンニ派とか、シーア派とかって何が違うの?


661年頃の世界地図
ここで、ユーラシア大陸の中央から東部にかけて、「唐」が誇大表現されていますが、これは遊牧騎馬民族が冊封体制に入っていることによります(いわゆる羈縻政策(きびせいさく))が、その実態は、次の通りになります。
『 「冊封」とは、本来は中国周王朝時代の封建制において、周の王が諸侯以下を冊をもって任命するという制度のことで、諸侯に爵位や封禄を与える見返りとして、彼らと君臣関係を結ぶことが最大のポイントである。
そして漢王朝の時代になると、強大な漢帝国は力を背景にして周辺地域の国々を中華秩序のなかに取り込む大事業に着手したが、そのとき中華王朝は周時代の「冊封体制」をそのまま、「化外(けがい)」の民族のつくった周辺諸国に適用した。
つまり、それらの周辺諸国は実際には中国と無関係なところでつくられた自前の政権であっても、形式上、中華王朝からその地位を「冊封」によって「任命」されることになる。その際、彼らは「冊封」されることへの見返りとして、中華王朝に「外臣」の礼をとり、中華皇帝を「君主」として仰ぎ、形式的には中華王朝の属国となる。
このように…頂点に立つ中華王朝とそれを仰ぐ属国たちからなるこの国際秩序を、すなわち「中華秩序」という。
その際、「宗主国」となった中華王朝の諸国に対する「支配」とは実質的なものというより、ほとんどは形式的なものだ。つまり諸国は中華王朝とその皇帝に対して「臣下」としての礼儀さえきちんと守っていればよい。…その「臣下の礼」の最たるものとして諸国に求められるのは、中華皇帝に対して定期的に貢物をもってご機嫌を伺いに参上することである。それが「朝貢」だ。
しかもその際、もってくる貢物の経済的価値がいかほどてあるかは中華王朝にとって、さほどの関心事ではない。貢物をもって朝貢してくること自体が中華王朝と皇帝にとって重要なのである。ここが重要だ。多くの場合、諸国からの朝貢を促すため、中華王朝はむしろ彼らのもってくる貢物の数倍も経済的価値がある「下賜物」を与える。要するに、高い代価を払ってでも諸国に朝貢に来てほしいというのが、中華皇帝の偽りのない気持ちなのだ。…
つまり中華世界の皇帝は、自らが真の天命を背負った本物の天子であることを証明して自らの権威を不動のものにするため、どうしても周辺諸国に朝貢に来てもらわなければならないのだ。
こうなると、場合によっては中華皇帝と周辺諸国の国王の立場が逆転することもある。中華皇帝は周辺諸国の国王たちに朝貢しに来てもらわなければならない立場であり、「下賜物」をできるだけ多くして経済的利益を餌に彼らの朝貢を促すことになるが、そんなことをやっているうちに、どちらの立場が強いのかがわからなくなるときもある。
そして多くの周辺諸国にしてみれば、中華王朝に「冊封」されて朝貢する立場になったとしても、実際に支配されることもなく、むしろ得られる経済的利益のほうが大きい。だから彼らは往々にして、喜んで中華王朝の「属国」となって中華秩序のなかに入り、中華皇帝のご機嫌を伺うのである。』
『 漢王朝は中国史上、長命王朝の一つに数えられる。漢王朝の歴史は前漢と後漢に分けられるが、前漢だけでも198年の寿命を保った。…
前漢王朝が創建されて早々、初代の皇帝である高祖(劉邦)はさっそく、代表的な周辺諸国の南越国と衛氏朝鮮の君主を皇帝の命において冊封した。…「冊封体制」の始まりである。…
漢王朝は南の南越国と東の衛氏朝鮮という二つの朝貢国を押さえることで、史上初の中華秩序の原型をいちおう整えることになったが、大問題となっていたのは中国大陸の北部に生息する遊牧民族の匈奴(きょうど)である。
創建早々の漢帝国は、騎馬民族として強大な軍事力をもつ匈奴に刃を向けることができないから、最初は漢王朝が彼らを属国として「冊封」するどころか、むしろ平身低頭して匈奴に和睦を乞うた。
そのため漢王朝の皇帝は匈奴の首長である冒頓単于(ぼくとつぜんう)と兄弟の契りを交わしたうえで、皇女を単于の妃に差し出して絹や米などの貢物まで提供することになった。中華帝国にとってまさに屈辱の「逆朝貢」だが、それが実際の力関係であった以上、やむをえないとした。
こうした屈辱的な状況を打破したのは、漢王朝が成立してから70年以上も経った第7代の武帝の時代である。』
詳しくはこちらをご参照💛
↓

さて、お話を「ウマイヤ朝」へと戻しますと、今度はアフリカ大陸北部を西進していきます。700年頃の状況が次のようになります。

700年頃の世界地図
そして、イベリア半島へと侵略を進めます。狙っているのは、蛮族ゲルマン人の「フランク王国」です。

732年頃の世界地図
732年、「フランク王国(メロヴィング朝)」の宮宰であったカロリング家出身のカール・マルテルが、「トゥール・ポワティエ間の戦い」に勝利、「ウマイヤ朝」の侵攻を食い止めます。

『トゥール・ポワティエ間の戦い』 Charles de Steuben画 1837年
そして、カール・マルテルの子であるピピン3世が、ローマ教皇ザカリアスに「王の称号を持つのみの者と、王ではないが王権を行使する者のどちらが王たるべきか」と尋ね、実権を持つものが王となるべきという回答を得、貴族会議を召集し、国王に選出されます(751年)。また同じく司教たちからも国王として推戴され、「カロリング朝」が開かれます。ちなみに、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味で、蛮族である当時のフランク人に「姓」はありません。

ピピン3世
ついでに書かせて頂きますと、現代のドイツ語で「カール」、フランス語で「シャルル」、イタリア語で「カルロ」、スペイン語で「カルロス」、ポルトガル語で「シャルレス」、ロシア語で「カルル」、そして英語で「チャールズ(短縮形でチャーリー、チャック)」も同根です。意味は「自由人」、つまり「奴隷ではない農民」・「自由人の最下層」になります。
補足になりますが、「カロリング朝」が始まる少し前、744年のイタリア半島の状況が、こんな感じ(↓)になります。

リウトプランド時代のイタリア半島(744年)
当時のイタリア半島には、6世紀末ごろに成立した、蛮族のゲルマン系のランゴバルド(ロンゴバルド)族による「ランゴバルド(ロンゴバルド)王国」が存在していました。
で、「東ローマ帝国」がイタリア半島統治のために「ラヴェンナ総督府」を拠点として置いていたのですが、751年にランゴバルド人によって倒されてしまいます。

アイストゥルフ在位時(751年)のランゴバルド王国の領域(水色)
しかし、依然として、「ローマ」は「東ローマ帝国」の統治下にあります。
「フランク王国(カロリング朝)」のピピン3世は、756年、ランゴバルド王国を破り、旧ラヴェンナ総督領を奪還したのですが、それを「東ローマ帝国」に返還せず、なんと、ローマ教皇に寄進してしまいました。

ピピンの寄進
何故、そんなことをしたのでしょうか?

本日は、ここまでとさせて頂きます。
続きは次回に♥
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