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    真昼の暗黒 ~ 共産主義に傾倒した知識人による「共産主義批判」

    みっちゃん

    みっちゃん

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    第二次エチオピア戦争(だいにじエチオピアせんそう)は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争

    第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行い、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対するイタリアは全土を占領している状況を背景に、イタリア王・アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。

    イタリア領東アフリカ
    イタリア領東アフリカ













    戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。

    そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

    私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、

    客観的に情勢を判断する必要があります。

    それでは、この書物を見ていきましょう!




    『 ここでは、まず一冊の本を紹介するところから、【「共産主義とは何か」】について考えることにしたい。取り上げる一冊は【アーサー・ケストラー】【『真昼の暗黒』】だ。

    真昼の暗黒 

     アーサー・ケストラー風変わりな人物として知られている。ハンガリーに生まれ、各国を転々とし、1931年には【ドイツ共産党に入党】している。ソ連を訪問した後に、特派員としてスペインに赴き、拘束され独裁者フランコから死刑判決を言い渡されている。イギリスの介入により釈放されるが、その後もフランスで投獄されている。執筆に際しては麻薬を常用し、浴びる程に酒を飲んだ。飲んだ挙句に喧嘩を繰り返したし、車を大破させることも幾度にも及んだ。極端な女好きであったことも知られている。晩年には常人には理解しがたい「超科学」や「超心理学」に強い関心を示し、1983年に妻とともに自殺した。

    アーサー・ケストラー
    アーサー・ケストラー

     まさしく波瀾万丈と呼ぶに相応しい生涯をおくったケストラーだが、【彼の名を不屈のものとした】のは、彼の個人史や常人に理解のできぬ科学や心理学の故ではない。彼の個人的な体験に基づいて執筆された【『真昼の暗黒』の著者として、彼の名は長く自由社会に刻まれることとなった】のである。

    女性 ポイント ひとつ

     ケストラーは自らも共産党に入党するほど【共産主義に傾倒した知識人の一人】である。その知識人が【敢然と行った共産主義批判こそが『真昼の暗黒』に他ならない】

    女性 ポイント これ

     本書の【主人公ニコラス・サルマノヴィッチ・ルバショフ】は、実在する人物ではない。スペインにおける自らの体験、スターリンに粛清されたソ連の指導者たちの逸話を交えながら創られた架空の人物である。彼は【共産主義の理想を信じ、混迷の革命期を生き延びてきた指導者の一人】である。

     物語は【ルバショフの逮捕】から始まり、収監された独房における生活が描かれる。隣の独房に収監された囚人との壁を叩いて行う暗号通信も興味深いが、【何といっても本書の圧巻は取り調べにある】。かつての革命の英雄【ルバショフから「反革命罪」の自白を引き出そうとするイワノフ、グレトキン】ルバショフと彼らの間で交わされる会話こそが本書の白眉である。

     革命の理想を信じ【党の定めた方針に従い続けたルバショフ】は、単なる被害者ではない。革命を望まぬ「反動」が裁かれているのではない。【ルバショフ自身が党の方針に従って革命を遂行するために信じがたいほどの背信行為を働いてきた】

    驚き 8

     ベルギーの古い港町に【ローウィ】という小男がいた。彼は【港湾労働者組合支部のリーダー】を務めていた。…警察署から武器を奪取する事件に関与し、町にいられなくなった彼は、【党の指示に従って亡命】するが、亡命は上手くいかなかった。パスポートと身分証明書を持って来るはずの【党からの使者が現れなかった】のだ。木の皮を食べるほど悲惨な状況をくぐりぬけ、彼は国外に逃げ出すが、各国間の連絡が不十分で彼は結局官憲の手に落ちる

     これほどの扱いを受ければ、ローウィが党を恨んでもよさようなものだが、彼は革命の大義を信じ、理想を捨てずに港湾労働者組合支部のリーダーを続けてきた

     【ルバショフ】ローウィの住む港湾を訪れたのは【彼らを裏切るため】だった。

     当時、南ヨーロッパの貧しい独裁国家アフリカで【略奪と侵略の戦争を開始】していた。【党は党員にボイコットの指令を発した】。もちろん、【侵略戦争を開始した独裁国家に原料の調達をすることを防ぐため】である。…

     【ルバショフの使命】は、【本国から独裁国家への原料の輸出を可能にすること】であった。要するに【党の指令であったボイコットを撤回】し、逆に【独裁国家に原料を輸出】するというのだ。事実、ルバショフが到着した数日後には、独裁国家への原料を満載した船団が到着した。

     【指令の突然の変更】は、【ボイコット運動に参加した党員の梯子(はしご)を外す】ようにしか思われない。だが、【ルバショフ】は説く【革命国家が独裁国家に原料を輸出しなければ、他の資本主義国家が代わりに原料を輸出する】だろう。従って、革命国家が輸出を止めれば革命国家を世界市場から締め出そうとしている各国の思う壺だ。…

     【ルバショフの論理】は、一見合理的な説明のように思われるが、それでも【指令に忠実だった人々を裏切ることには変わりない】

     こうした【本国の決定を批判したリーダーたちは除名処分】を受け、【最も批判的だったローウィは扇動工作員として弾劾】された。そしてその三日後ローウィは首を吊った。』

    日の丸

    いかがでしょうか?

    今回ご紹介させていただく書物は、現代の日本において「リベラル」を自称する“奇妙な人々”「奇怪な言説」を取り上げ、それらを徹底的に批判するところから始まる書物で、「東京新聞」「朝日新聞」はもちろんのこと、「池上彰」

    池上彰
    池上彰

    「加藤典洋」

    加藤典洋
    加藤典洋

    「内田樹」

    内田樹
    内田樹

    「白井聡」といった面々が、

    白井聡
    白井聡

    そのやり玉にあがっていて、非常に楽しく拝見できる良書になります。そして、後半3分の1にあたる部分から、今回ご紹介させて頂く本文となるのですが、非常に中身が濃く読みごたえがあってお勧めです。

    読書 4-64

    さて、昨日までのところで、「共産主義」・「社会主義」・「ナチズム(国家社会主義)」・「ファシズム」・「ネオコン」・「左翼リベラル」・「進歩主義(プログレッシブ)」は、すべて同じ意味です、と書かせて頂きましたが、もちろん多少の相違はありますが、そんなものは私たち一般の日本人にとっては、「五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)」でしかありません。そして、これらに共通している最大の点が、個人の自由を侵害する「全体主義」です。

    ポイント 000

    ちなみに、ヒトラー「菜食主義者」であり、「酒」も「煙草」も嫌悪していたことで知られますが、

    ヒトラー

    現在の日本でも見られる「禁煙ファシズム」と呼ばれる動きも、そのヒトラーのやり方を、そっくり真似したものでしかありません。まさに「全体主義」そのものなのですが、多くの方々は、気付かれていないのではないでしょうか?

    特に、「リベラル」を自称する“奇妙な人々”ほど本来の「リベラル」であれば嫌悪すべき動きなのに、ほとんど気にされていません。このことからも、彼らの立ち位置が明らかになっているわけです💛

    ポイント 女性 重要 5

    で、そういったことを知るためにも、世界史の流れを理解する必要が、私たち日本人にはあります

    一昨日のところで、今から1400年ほど前の時代、ヨーロッパでは、蛮族・ゲルマン人の「フランク王国」再統一され、

    613年頃の世界地図
    613年頃の世界地図

    私たちの日本では、聖徳太子が活躍した時代を迎え、

    聖徳太子
    聖徳太子

    そして、中東と呼ばれる地域で、ムハンマドによる「イスラム教」急速に拡大していった時代、いわゆるヨーロッパにおける「暗黒の中世」と呼ばれる時代へと突入していったところまでを書かせて頂きましたが、その後、「キリスト教」はどうなっていくのか「フランク王国」はどうなっていくのか、それを確認しておく必要があります。

    「イスラム教」の創始者・ムハンマド(570年頃~632年)は、アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとりとされる人物ですが、下図の赤い丸の部分から「イスラム教」が拡大していきます。

    613年頃の世界地図 2

    アラビア半島の傍に、まず、イラン高原・メソポタミアの地域「サーサーン朝ペルシア」(226年~651年)という国がありますが、

    マニ
    マニ

    両親がユダヤ教新興教団に属していたとされる預言者マニ(216年~277年)によって創始された「マニ教」信仰され、東西に伝播していきます。

    マニ教の拡大
    マニ教の拡大

    613年頃の世界地図 2

    その「サーサーン朝ペルシア」の西側には、「東ローマ帝国」がありますが、その首都はコンスタンティノープルで、現在のトルコのイスタンブールになります。

    東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル
    東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル

    イスタンブール

    コンスタンティノープルの大主教であったネストリウス(381?~451?)は、キリスト教ネストリウス派の祖ですが、異端扱いされ、国外追放となりますが、弟子たちの布教もあり、ネストリウス派を支持する勢力ペルシャ、インド、中央アジア、モンゴル、支那まで拡大し、支那では景教と呼称されるまでになります。

    ネストリウス
    ネストリウス

    このように、東西に「宗教」の伝播が見られるということは、当然交易もあって、「文化」も伝播していくことになります。

    そんな状況にあって、「イスラム教」が急拡大していくことになるわけですが、そのスピードが凄まじいんです💛

    イスラム帝国の版図拡大の流れ
    イスラム帝国の版図拡大の流れ

    「イスラム教」の拡大は、①ムハンマドの時代(622年~632年)、ムハンマドを受け継いだ4人のカリフの時代、すなわち②正統カリフ時代(632年~661年)③ウマイヤ朝時代(661年~750年)と3段階に分けて考えることができますが、あれよあれよという間に、「東ローマ帝国」は、エルサレム(638年)シリア(640年)エジプト(642年)奪われバルカン半島とトルコだけとなってしまいます。また、「サーサーン朝ペルシア」は、イラク(637年)イラン(642年)奪われ滅亡(651年)します。

    651年頃の世界地図
    651年頃の世界地図

    『 7世紀の世界は大激動の時代です。東西がぶつかり、世界が巻き込まれていきます。日本も例外ではありせん。
     
     7世紀の大激動をもたらした主人公とも言うべきはイスラム帝国です。

     イスラム帝国の源、イスラム教の誕生から見ていきます。

     イスラム教の開祖といえば、ムハンマド(かつては、英語式の綴りや読み方からマホメットと記された)ですが、聖徳太子と同時代の人です。』


    詳しくはこちらをご参照💛

    アラビア半島の月の女神

    こんなにスゴイ! 約1400年前の「うまるちゃん」

    誰も教えてくれない 真実の世界史講義 古代編 

    さて、本日はここまでとさせて頂きますが、大陸の西側で急速に拡大する「ムハンマド」の「イスラム教」、そして、それと対極に位置する、東の端にある、私たち日本の偉大なる思想家「聖徳太子」

    詳しくはこちらをご参照💛

    遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」

    日本の歴史 本当は何がすごいのか 

    この2つ以外にもう一つ押さえておきたいものがあります。それは何でしょうか?

    女性 悩む 103

    答えは、これ(↓)です。

    651年頃の世界地図 2
    651年頃の世界地図


    続きは次回に♥




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    最終更新日2018-09-16
    Posted byみっちゃん

    Comments 2

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    かみや473  
    背景

    大学入学すぐの英語のテキストが、フランツ-ファノンで、後期がヘルベルト-マルクーゼ でした
    因みに講師は、由良君美!! 凄い時代でした

    2018/09/16 (Sun) 07:49 | EDIT | REPLY |   
    みっちゃん  
    Re: 背景

    かみや473さん、こんにちは^^

    ご訪問&コメント有難うございます!

    英語講師が酒乱で有名な「由良君美!!」ということは・・・ご出身は、あの大学ですね💛

    凄い時代でした ⇒ なるほど、とても納得しました!

    これからも、何卒宜しくお願い致しま~す☆彡

    2018/11/20 (Tue) 16:21 | EDIT | REPLY |   

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