2018-09-13 (Thu)

オスティア・アンティカ(イタリア語: Ostia Antica)は、イタリア ラツィオ州ローマ市のオスティア地区にある古代ローマ時代の港湾都市遺跡。ローマの南西約22kmのテヴェレ川河口部に位置する。そのことから、ラテン語で『os (河口) + tia (テヴェレ)』という地名が付けられた。土砂の堆積により、現在は海岸線から3km内陸に位置しており、遺跡の保存状態も良好である。歴史文献では、単にオスティアと表記されることも多いが、現在は海岸に近い場所にある新市街をオスティアと表記し、古代都市をオスティア・アンティカと表記する。

倉庫跡(オスティア・アンティカ)

公共トイレ跡(オスティア・アンティカ)

居酒屋跡(オスティア・アンティカ)

タヴェルナ(大衆食堂)跡(オスティア・アンティカ)

消防士の宿舎跡(オスティア・アンティカ)
戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!
『 トランプの政策が、「国境などないほうがいい。世界中で自分たちの理屈で好き勝手に活動したい」と思っている【国際金融資本家たち】にとって迷惑千万なものであることはいうまでもありません。
だから【彼ら】は一昨年の大統領選挙中から【「反トランプ」の姿勢を剥(む)き出し】にして、必死になってトランプを引きずり降ろそうとしています。
そして今、【彼らが最大の武器として駆使しているのがメディア】だといっていいでしょう。支配下においている大手メディアを使って、「トランプは保護主義者だ」とか「国を分断して右傾化させている」、あるいは「人種差別論者だ」などと【大々的なネガティブキャンペーン】を繰り広げ、【トランプを貶(おとし)めようとしている】のです。

☆トランプ大統領「匿名の『情報筋によると…』という言葉を見たら、記事を読むのを止めよ。それはフィクションだからだ」~ネット「新聞記者という名の反政府活動家の創作文が常軌を逸しているのは日本も同じ」「ひるおびに出てくるあいつの話だなwwww」
しかしそれは、あくまでも、【世界の国々が自国民の幸せを第一に考え、国益を最優先し、自国の安全は自身で守れる】ように【なっては困る連中】の【言い分】にすぎません。

そして【そうした勢力の中心】に存在しているのが、【世界の政治や経済を制覇するために、民間の手による世界金融システムを創造する】ことを【最大の目的】としている【国際金融資本家たち】の国際的ネットワークなのです。このことについては、アメリカの歴史学者である【キャロル・キグリー】(没1977年)が、【著書『Tragedy & Hope (悲劇と希望)』】で指摘しています。…

キャロル・キグリー

“国際金融資本家たちの国際的ネットワーク”がいかなるものか。それを理解するために、まずは【世界金融の歴史】を簡単に振り返ってみましょう。【金融とグローバリズム】はまさに【表裏一体の関係にある】からです。

金融の中核を担うのが【銀行】です。…古代王朝バビロニアでは、神殿で人々の財産や貴重品を保管したりする一方で、穀物や家畜を貸しつけて利益を上げていましたが、【それが銀行の起源】だということです。とはいえ、その当時の活動はあくまで限定された地域のものにすぎず、とても国際金融と呼べるレベルではありませんでした。
しかしその後、【通貨が流通】するようになり、地域間の交易が盛んになってくると、金融の役割は大きくなっていきました。たとえば、地域ごとに【異なる通貨を必要に応じて交換して手数料を得る】というニュービジネスが誕生していったのです。

その【金融業が急激な広がりを見せる】ようになるのは【中世以降 】のことですが、【中世ヨーロッパ社会はキリスト教が支配する社会】でした。

キリスト教徒は異なる宗教を信じる者を嫌悪し、差別しましたが、【特にキリストを処刑したユダヤ人に反感】を抱いていました。1078年にはローマ教皇【グレゴリウス7世】が【ユダヤ人に対して「公職追放令」を発令】し、すべての職業組合からユダヤ人を締め出すなどしています。ユダヤ人には職業選択の自由すらなかったのです。

そんな中、【ユダヤ人は金融業に活路】を見出だしていきました。
キリスト教は、他人に金を貸して利息をとることは罪悪であると教えていました。しかし【ユダヤ教】は、同胞に対しては利息をとることを禁じましたが、【「ゴイ(非ユダヤ人)に金を貸すときは、必ず高利を以てすべし」】としていました。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆それって必要? ゴイ(Goy)とゴイム(goyim)の違い

そこで公職追放令が出された後、【多くのユダヤ人が金融業を営む】ようになりました。【「カネに汚い高利貸し」というイメージがユダヤ人に定着した】のはこの頃からです。』

いかがでしょうか?
今回ご紹介させていただく書物は、現在の学校教育では「隠されている歴史的事実」について、大局的な視点から分かりやすい解説がなされていて、いわゆる世界史というものの流れを理解するために重要な一つの軸を明らかになされている良書となります。

さて、本文中に、通貨の流通とともに地域間の交易が活発化し、中世以降、金融業が急激な広がりを見せると書かれていましたが、この辺りのことは、以前にも書かせて頂いておりますので、そちらをご覧くださいませ。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆ユダヤ教の「金貸し」とキリスト教の「金貸し」と『阿呆船』

昨日のところで、異民族の侵略を受けて、分裂後の西ローマ帝国が滅亡、辛うじてローマ文化を継承した「東ローマ帝国」には、現在の「イタリア」も「フランス」も「ドイツ」も、ほぼ含まれてはいないと言っても良いと書かせて頂きました。

☆The True Size Of...
そして、その「イタリア」や「フランス」や「ドイツ」を支配したのが、「ゲルマン人」の「フランク王国」でした。それは5世紀後半のことになります。

フランク王国の時代別の領土
500年頃の世界の様子を、いつもの地図(☆ワールド・ヒストリカル・アトラス)で確認してみますと、こんな感じ(↓)になります。

500年頃の世界地図
一目瞭然ですが、「ローマ帝国」が存続していたのは、ヨーロッパではなく、むしろ中東や西アジアと呼ばれる地域とバルカン半島のそれらの一部であったことが確認できます。
「ローマ帝国」は、高度な文明であり、優れた技術を多く有していました。
フランスに残る水道橋や、イギリスに残る公衆浴場なども有名ですね。

ポン・デュ・ガール(フランス)

現代の建築物をすべて取り除いたローマン・バス(イギリス)
『 ローマ人の言語であるラテン語では、街道を敷設することを「ヴィアム・ムニーレ」(viam munire)と言った。ヴィアムは道路で、ムニーレは建設を意味する。ところが、「ムニーレ」にはもともと、「防御(ムールス、murus)を築く」という意味がある。つまり、古代のローマ人は、延々とつづく街道の敷設とは延々と連なる防壁を築くと同じ、と考えていたのであろう。

イタリア半島の主要ローマ街道
実際、…ローマ街道とは、幹線ともなればことごとく、一面に大石を敷きつめた四メートルを越える車道と両側三メートルずつの歩道の計十メートルを超える幅をもち、深さも、四層からなる一メートル以上になるよう設計されていたからである。「水平」であるこの街道を、「垂直」に立てさえすれば、堅固な防壁に一変するのだった。紀元前三世紀とは、偶然にしろ、地球の東と西で大規模な土木事業がはじまった時代でもある。東方では、万里の長城…秦の始皇帝時代…だけでなく、十六世紀の明の時代…まで加えると、その全長は五千キロにおよぶ。西方では、ローマ街道網…前三世紀から後二世紀までの五百年間にローマ人が敷設した道の全長は、幹線だけでも八万キロ(=万里の長城の16倍)、支線まで加えれば十五万キロ(=万里の長城の30倍)に達した。
なぜ、支那とローマは、国家規模の大土木事業をはじめるに際し、一方は長城の建設を、他の一方は街道の建設を選択したのであろうか。…考え方のちがいにあったのではないか…防壁は人の往来を断つが、街道は人の往来を促進する。自国の防衛という最も重要な目的を、異民族との往来を断つことによって実現するか、それとも、自国内の人々の往来を促進することによって実現するか。両民族のこの面での考え方の相違は、支那とローマという古代の二大強国にとって、国家のありようまでも決めることになるのである。』
詳しくはこちらをご参照💛
↓

しかし、「ゲルマン人」の「フランク王国」は、その高度な文明であった「ローマ帝国」を受け継いだわけではありませんでした。

『 どの歴史(日本史)の教科書でもいいので、ページを開いてみてください。鎌倉時代と室町時代は「中世」となっています。どの教科書でもそうです。「中世」とは「近代」になる前の、封建的で粗野な遅れた文化の時代という意味で使われています。NHKの大河ドラマ『平清盛』に描かれた世界はいかにもそのような世界です。薄汚れた武士たちが映像化されていました。しかし、…鎌倉時代も、…室町時代も、果たしてそういう時代なのでしょうか。
西洋の歴史で「中世」(Middle Age)とは、「古代」ギリシャ・ローマと「近代」に挟まれた「中の時代」のことです。この時代は、ゲルマン民族の大移動ののち、キリスト教化され、現代の西洋といわれる世界が形成されていった時期でした。
この時期を担ったのは古代ギリシャやローマの人々とは異なる民族で、宗教も言語も本質的に異なる人々です。だから、西洋の「中世」は古代ギリシャ・ローマが発展したものではなく、そこには明らかな断絶があります。
そして西洋史学の三分法をもとに、19世紀にはマルクス主義による歴史観がつくられました。「古代」は「奴隷制」の時代。「中世」は「封建制」で農奴の時代。「近代」は「資本主義」で労働者の時代。そしてそのいずれの時代においても人民は搾取されているという生産様式の矛盾した歴史を説きました。それが「進歩史観」と結びついて、「中世」の「暗黒」史観が生まれたのです。
こうした歴史の見方を、現在でも多くの歴史家たちが信じているようですが、そのような搾取の歴史の中からは、…偉大な「文化」は生まれません。強制からは、…大きなモニュメントも生まれようがないのです。「自由」があってこそ、こうした「文化」が生まれ、階級よりも「役割分担」の社会があったからこそ、長い間「社会」が安定してきたのです。統治者はいつの時代でも必要ですし、働く人民は決して圧迫されてきたわけではありません。
しかし、その「文化」においても、西洋の学者たちは自分たちが古代ギリシャ・ローマを受け継いでいると自負しているため、「古代」と「近代」の間に「中世」を挟んで、いかにも西洋「文化」が一貫して継続しているように考えているのです。「ルネッサンス」といわれる時代は、「古代」の「再生=ルネッサンス」であるとされていますが、実際には「再生」ではありません。
西洋の「中世」は「暗黒」の時代ともいわれます。西洋が古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いでいるなら、「暗黒」であるはずがありません。西洋の歴史が「中世」といっている時代は、正確にいうなら、新たな「西洋文化初期時代」(Primitive Age)というべきなのです。いまにつながる西洋文化の世界が形成されたのは、実はこの時代からなのです。
一方では、この時期の文化の様式を「ロマネスク」といっています。これは「ローマ的な」「ローマのような」という意味です。自分たちが古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いでいると考えているからですが、それを引き継いでいないことは、まったく新しい、キリスト教の文化であることからも明らかです。その形は、まだ素朴であることが誰にでも見て取れます。西洋の「ロマネスク」といわれる時代(1000年 – 1200年)の文化は、日本では飛鳥時代(592年 – 710年)の「アルカイスム(胎動期)」の文化に匹敵するものなのです。古代ギリシャ・ローマの文化を受け継いだというか、影響を受けて保存したのは、西洋ではなく「イスラム世界」なのです。「イスラム世界」を介して西洋は「古代」ギリシャ・ローマの文化を知り、その影響が「ルネッサンス」につながっていくのです。
こうした西洋の「進歩史観」を中国史に導入しようとしたのは、西洋史をなまかじりした宮崎市定氏で、そんな史観自体が西洋のつくりものであることを知りませんでした。ましてや日本にまであてはめようとしたのが、明治の歴史家たちだったのです。しかしもともとそんな歴史はなかったのです。
鎌倉時代は政治が貴族から武士に移ったといっても、武士はどこかよそからやってきて政治の実権を握ったわけではありません。武士は貴族政治の中から発生したのです。武士と呼ばれる人々は、もともと「清和源氏」、「桓武平氏」といわれるように、みんな天皇家、もしくは摂関家出身の人々だったのです。端的にいえば、鎌倉時代の『新古今和歌集』は平安時代の貴族的な『古今和歌集』をさらに洗練させた傾向を備えており、その継続であったのです。
宗教でも法然、親鸞ら鎌倉新仏教は旧仏教をくつがえしたわけではありません。まだ勢力も小さく、旧仏教もまた継続していきました。鎌倉彫刻は天平の古代彫刻を発展させて制作されています。その意味で「ルネッサンス」でもあったのです。
このように「文化」はすべて連続性の上につらなっています。西洋のような断絶はありません。しかし、日本の学者は西洋の歴史区分を鵜呑みにして、鎌倉時代と室町時代を「中世」に当てはめてしまいました。しかし、それは誤りであり、日本文化の独自性を損なうことになりかねません。』
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆日本に「中世」は、ありません💛

で、その「フランク王国」は、ゲルマン人のクロヴィス1世によって「メロヴィング朝」が創設(481年)されたことで始まります。

クロヴィス1世
以下は、Wikipediaからの抜粋です。
↓
「 ディオクレティアヌス帝以降、皇帝の所在地は首都ローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていた。西ローマ帝国の皇帝政権はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルス(在位:476年)が廃位され西方正帝の地位が消滅した。その後もガリア地方北部にはシアグリウスが維持するソワソン管区がローマ領として存続したが、486年にゲルマン系新興国メロヴィング朝フランク王国のクロヴィス1世による攻撃を受け消滅した。旧西ローマ帝国の版図であった領域に成立したゲルマン系諸王国の多くは、消滅した西の皇帝に替わって、全ローマ帝国の皇帝となった東の皇帝の宗主権を仰ぎ、ローマ皇帝に任命された西ローマ帝国の地方長官として統治を行った。したがって、現代人的認識では西方正帝の消滅後にローマ帝国とは別のゲルマン系諸王国が誕生したかのように見える西欧の地も、同時代人的認識としては依然として「ローマ帝国」を国号とする西ローマ帝国のままであり、ゲルマン系諸王はローマ帝国の官人としてローマ帝国の印璽を用い、住民達もまた自分たちのことを単に「ローマ人」と呼び続けていた。」
以上から、当初、クロヴィス1世の「メロヴィング朝・フランク王国」が「東ローマ帝国」の傘下に入っていることが分かると思いますが、ゲルマン人に定着していた「アリウス派キリスト教」を信仰していたクロヴィス1世は、「アタナシウス派キリスト教」を信仰する妻との約束により、家臣4000名とともに「アタナシウス派キリスト教」に改宗(「クロヴィスの改宗」)します。
この「アタナシウス派キリスト教」は「ニカイア派」「ニケア派」とも呼ばれますが、いわゆる「カトリック」です。
そのクロヴィス1世の死後、王国は4人の息子たちによって分割されます。

分割後のメロヴィング朝フランク王国(600年ころ)
613年、クロタール2世によって、王国は再統一されます。

613年頃の世界地図
ちなみに、この頃の私たちの日本は、聖徳太子が活躍した時代になります。もちろん、「法隆寺」の創建もこの時代です。

聖徳太子
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆実は、「仲間ハズレ」だった日本国憲法

そして、中東と呼ばれる地域で、ムハンマドによる「イスラム教」が急速に拡大していきます。
詳しくはこちらをご参照💛
↓
☆こんなにスゴイ! 約1400年前の「うまるちゃん」

この「イスラム教」の勃興によって、「キリスト教」はどうなっていくのか、「フランク王国」はどうなっていくのか、というところがヨーロッパの「暗黒の中世」を理解する上でのポイントになっています。

続きは次回に♥
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